15日から4日間、南伊豆のKさんの別荘に世話になりました。北朝鮮を脱出してきたRさん一家4人ともどもです。
一人ゆっくり過ごしているはずのところに私たち6人を迎えたのです。Kさんはさぞ気疲れしたことでしょう。
私たちにとっては夢のような日々でした。ただただ感謝のほかはありません。
楽しくて有意義だった日々のメモ。
①海水浴。
R家の姉弟と久しぶりに交流しました。特に二日目は朝の9時過ぎから午後2時頃まで海に入りっぱなしです。
数日ぶりの好天となった弓ヶ浜はけっこうな人出です。次々と小さな波が押し寄せてくる砂浜で二人は飽きることなく波に挑戦します。
カンちゃんは僕につかまって水深が胸のあたりまでのところまで来ては陸の方に泳いでみせます。用心深いのか決してそれより沖にはついて来ません。
午後にはお母さんたちも来て、親子三人で二つの浮き輪をつないで遊んでいました。本当に楽しそうです。
おばあちゃんのRさんに言わせると「キモイほどべたべた」の3人組みです。緊張と恐怖の中で中朝国境の川を渡り、今日まで寄り添いながら運命を切り拓いてきたのですから当たり前のことです。
おばあちゃんの泳ぎは達者です。一人沖に出て悠々たるものです。日本の海は半世紀ぶりのはずですがおそれる気配はありません。一家の刀自としてまさに一瞬もゆるがせにせず生き抜いてきた人の風格でしょうか。
ぼくがこどもたちと海水浴を楽しむのは20数年ぶりのことです。室戸岬の鯨浜で娘や息子と泳いだ日が思い出されます。
カンちゃんは「先生」と呼んでくれますが僕には孫のような年頃です。思いがけない機会に恵まれて僕は本当に果報者です。
夜になって昼間の楽しみのツケが二人のこどもたちに回ってきました。日焼けがひりひりと痛み出したのです。
二人ともごめんね。日差しの強さのことはすっかり忘れて僕もこども時代に帰っていたのです。
②魚料理
毎晩、Rさんのつくった朝鮮料理を楽しみました。レーメン、ビビンパ…。朝鮮で食堂をやっていたことがあるくらいですから料理もなかなかです。
ハイライトはお刺身の数々。隣に住むお友達がつり上げた大きなメジナをKさんが捌いてごちそうしてくれました(二日目)。普段は刺身を食べないというカンちゃんまでもりもりと食べるのでお母さんはびっくり。釣ってきたばかりのものをいただいて食べるのですから新鮮この上なし。美味しいのは当然のことですね。
これに気をよくしたのはKさんです。翌日、朝から海に出てイサギ、トビウオ、サバ、メジナなどを釣り上げて、最後の晩餐を盛り上げてくれました。
食卓に並んだ二つの大皿にシコシコ、プリプリの刺身とシメサバがぎっしりと盛られています。シメサバといっても、ほとんど刺身同然の、「ピンクのシメサバ」です。まさに圧巻でした。
東京にいては決して口にすることが出来ない何よりのごちそうに私たちの食もすすみ、話が弾んだのは言うまでもありません。
ここは南伊豆町でもけっこう山の中です。東京に住む釣り好きたちが海の魅力にとりつかれて次々と移り住むようになったといいます。お隣さんはメジナを差し入れてくださっただけでなく、ご夫婦で私たちの送り迎えまでやってくれました。
Kさんの人柄のしからしめるところでしょう。ただただ感謝です。
③北朝鮮と日本
夕食後は大人たちの交流の場です。高校生のとき自ら進んで単身、北朝鮮に渡ったRさんと北朝鮮で生まれ育った娘さんの話に一同、時を忘れます。こんな機会に恵まれる人は日本広しといえどほとんどいないでしょう。お二人にしても公に話すというわけにはいかないことばかりです。
僕はRさんと出会って以来、折に触れてお話を聞きました。娘さんと会うのもこれで何回目かですが、自分の体験や悩み、喜びを心を込めて語るのを聞くのは初めてです。
北朝鮮に着くと共に一切の「自分」を表に出さないと決意して生き抜いてきたRさんはこどもたちに対しても自分の本心を表したことはありません。こどもたちにはこどもたちの人生があり、それを危険にさらすわけにはいかないからです。
北朝鮮の社会の価値観をそのまま受け入れて優秀な学生に成長していった娘さんでしたが人生の節目節目に「帰国者の娘」という烙印のため、不条理な差別に直面し、苦闘する日々があったといいます。
今、日本の社会というものに出会って彼女が直面している課題は深刻です。自分が懸命な努力で身につけてきた世界観、歴史観、人生観のすべてを否応なく問い返さなければならないからです。
お母さんは北朝鮮での「50年間は無」と言いきって、「北朝鮮」を批判、相対化することが出来ますが、「北朝鮮」以外を知らない彼女には問い返す座標軸が定まらないのです。日本と世界をどん欲に学んで自己確立を目指したいのですが生活に追われるのが現実です。
北朝鮮で有数の大学にまで進んで、学んだことの大半はこの社会では何の役にも立ちません。二人のこどもを育てながら、この春定時制高校に入学しました。大学にも行きたいようです。
日本の地にたどり着くことが出来てRさんと娘さんはようやく本心を交わすことが出来るようになりました。それでも二人の間に生まれた歴史観や世界観の開きは途方もないものでしょう。
Rさんの偉いのは娘さんが自分自身の手でやるしかない自己再確立の歩みを親として見守り、支援しているように見えることです。自分の考えを押しつけてもどうにもならないことをよく自覚されているのです。
娘さんは朝鮮大学校の学生のあり方に興味を持っています。北朝鮮と同じような教育を受けてもここは日本です。どんな朝鮮人が育っているのか?自分の課題に引きつけて考えているのでしょう。
僕らは偶然といえば偶然、必然といえば必然、Rさん一家と出会った日本人です。こどもたちがすくすくと育っていってくれるようにと願ってきました。
今回の旅で二人のこどもの母親でもある娘さんの話を聞いて彼女の心の内が少し解った気がしました。日本人の友人の一人として心して応援していきたいと思います。
親から受け継いだに違いない人生に対する誠実な姿勢はどんな社会にも通用する宝物です。この家族をみていると僕も大いに励まされます。北朝鮮に残された家族の再結合という途方もない困難を抱えつつ、希望に向かって着実に日々を送っていくことでしょう。
私たち6人をもてなしてくれたKさんは学生の頃からの友人です。Rさんとは同い年だといいます。貧困と差別に立ち向かって生きたこども時代は共通するところがあるようにも思えます。これがきっかけになって一家のよき理解者になってくれることでしょう。心強いことです。
一人ゆっくり過ごしているはずのところに私たち6人を迎えたのです。Kさんはさぞ気疲れしたことでしょう。
私たちにとっては夢のような日々でした。ただただ感謝のほかはありません。
楽しくて有意義だった日々のメモ。
①海水浴。
R家の姉弟と久しぶりに交流しました。特に二日目は朝の9時過ぎから午後2時頃まで海に入りっぱなしです。
数日ぶりの好天となった弓ヶ浜はけっこうな人出です。次々と小さな波が押し寄せてくる砂浜で二人は飽きることなく波に挑戦します。
カンちゃんは僕につかまって水深が胸のあたりまでのところまで来ては陸の方に泳いでみせます。用心深いのか決してそれより沖にはついて来ません。
午後にはお母さんたちも来て、親子三人で二つの浮き輪をつないで遊んでいました。本当に楽しそうです。
おばあちゃんのRさんに言わせると「キモイほどべたべた」の3人組みです。緊張と恐怖の中で中朝国境の川を渡り、今日まで寄り添いながら運命を切り拓いてきたのですから当たり前のことです。
おばあちゃんの泳ぎは達者です。一人沖に出て悠々たるものです。日本の海は半世紀ぶりのはずですがおそれる気配はありません。一家の刀自としてまさに一瞬もゆるがせにせず生き抜いてきた人の風格でしょうか。
ぼくがこどもたちと海水浴を楽しむのは20数年ぶりのことです。室戸岬の鯨浜で娘や息子と泳いだ日が思い出されます。
カンちゃんは「先生」と呼んでくれますが僕には孫のような年頃です。思いがけない機会に恵まれて僕は本当に果報者です。
夜になって昼間の楽しみのツケが二人のこどもたちに回ってきました。日焼けがひりひりと痛み出したのです。
二人ともごめんね。日差しの強さのことはすっかり忘れて僕もこども時代に帰っていたのです。
②魚料理
毎晩、Rさんのつくった朝鮮料理を楽しみました。レーメン、ビビンパ…。朝鮮で食堂をやっていたことがあるくらいですから料理もなかなかです。
ハイライトはお刺身の数々。隣に住むお友達がつり上げた大きなメジナをKさんが捌いてごちそうしてくれました(二日目)。普段は刺身を食べないというカンちゃんまでもりもりと食べるのでお母さんはびっくり。釣ってきたばかりのものをいただいて食べるのですから新鮮この上なし。美味しいのは当然のことですね。
これに気をよくしたのはKさんです。翌日、朝から海に出てイサギ、トビウオ、サバ、メジナなどを釣り上げて、最後の晩餐を盛り上げてくれました。
食卓に並んだ二つの大皿にシコシコ、プリプリの刺身とシメサバがぎっしりと盛られています。シメサバといっても、ほとんど刺身同然の、「ピンクのシメサバ」です。まさに圧巻でした。
東京にいては決して口にすることが出来ない何よりのごちそうに私たちの食もすすみ、話が弾んだのは言うまでもありません。
ここは南伊豆町でもけっこう山の中です。東京に住む釣り好きたちが海の魅力にとりつかれて次々と移り住むようになったといいます。お隣さんはメジナを差し入れてくださっただけでなく、ご夫婦で私たちの送り迎えまでやってくれました。
Kさんの人柄のしからしめるところでしょう。ただただ感謝です。
③北朝鮮と日本
夕食後は大人たちの交流の場です。高校生のとき自ら進んで単身、北朝鮮に渡ったRさんと北朝鮮で生まれ育った娘さんの話に一同、時を忘れます。こんな機会に恵まれる人は日本広しといえどほとんどいないでしょう。お二人にしても公に話すというわけにはいかないことばかりです。
僕はRさんと出会って以来、折に触れてお話を聞きました。娘さんと会うのもこれで何回目かですが、自分の体験や悩み、喜びを心を込めて語るのを聞くのは初めてです。
北朝鮮に着くと共に一切の「自分」を表に出さないと決意して生き抜いてきたRさんはこどもたちに対しても自分の本心を表したことはありません。こどもたちにはこどもたちの人生があり、それを危険にさらすわけにはいかないからです。
北朝鮮の社会の価値観をそのまま受け入れて優秀な学生に成長していった娘さんでしたが人生の節目節目に「帰国者の娘」という烙印のため、不条理な差別に直面し、苦闘する日々があったといいます。
今、日本の社会というものに出会って彼女が直面している課題は深刻です。自分が懸命な努力で身につけてきた世界観、歴史観、人生観のすべてを否応なく問い返さなければならないからです。
お母さんは北朝鮮での「50年間は無」と言いきって、「北朝鮮」を批判、相対化することが出来ますが、「北朝鮮」以外を知らない彼女には問い返す座標軸が定まらないのです。日本と世界をどん欲に学んで自己確立を目指したいのですが生活に追われるのが現実です。
北朝鮮で有数の大学にまで進んで、学んだことの大半はこの社会では何の役にも立ちません。二人のこどもを育てながら、この春定時制高校に入学しました。大学にも行きたいようです。
日本の地にたどり着くことが出来てRさんと娘さんはようやく本心を交わすことが出来るようになりました。それでも二人の間に生まれた歴史観や世界観の開きは途方もないものでしょう。
Rさんの偉いのは娘さんが自分自身の手でやるしかない自己再確立の歩みを親として見守り、支援しているように見えることです。自分の考えを押しつけてもどうにもならないことをよく自覚されているのです。
娘さんは朝鮮大学校の学生のあり方に興味を持っています。北朝鮮と同じような教育を受けてもここは日本です。どんな朝鮮人が育っているのか?自分の課題に引きつけて考えているのでしょう。
僕らは偶然といえば偶然、必然といえば必然、Rさん一家と出会った日本人です。こどもたちがすくすくと育っていってくれるようにと願ってきました。
今回の旅で二人のこどもの母親でもある娘さんの話を聞いて彼女の心の内が少し解った気がしました。日本人の友人の一人として心して応援していきたいと思います。
親から受け継いだに違いない人生に対する誠実な姿勢はどんな社会にも通用する宝物です。この家族をみていると僕も大いに励まされます。北朝鮮に残された家族の再結合という途方もない困難を抱えつつ、希望に向かって着実に日々を送っていくことでしょう。
私たち6人をもてなしてくれたKさんは学生の頃からの友人です。Rさんとは同い年だといいます。貧困と差別に立ち向かって生きたこども時代は共通するところがあるようにも思えます。これがきっかけになって一家のよき理解者になってくれることでしょう。心強いことです。
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