しびくた日和が続くとやりきれなくなります。布団にもぐりこむ時間が一日の大半を占めます。そのほうが体が楽になります。温かい日差しが待ち遠しい限りです。
きいちご移動教室の目的地探し、第2弾は軽井沢周辺です。
一昨年夏、天皇ご夫妻が軽井沢静養中に大日向開拓記念館を訪れたというニュースがありました。抗がん剤治療の一休み中に長野県で見たのではなかったかと思います。
大日向開拓地http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/080830/imp0808300822000-n2.htm
一年前の今頃、ここを訪ねた箭内 昇さんという方の文章があります。
「未来志向の友好関係は歴史認識から――旧満洲で見た衝撃の遺跡」(2009/02/19)
大日向開拓団の悲劇
昨年天皇陛下も訪問された大日向開拓記念館は軽井沢西部の大日向地区にある。1938年(昭和13年)、長野県旧大日向村(現佐久市佐久穂町)の村民は厳しい食糧危機に耐えかね、村民の半分にあたる216戸、764名が吉林市北部の舒蘭県四家房への移住を決断した。
村ごと移住する「分村移民」としては第1号であり、やがて「開拓」が成功するや、日本政府は格好のモデルケースとして映画や演劇化し、国をあげて満州移住を奨励した。
だが、移住した大日向村民はその後3つの悲劇に遭遇する。まずは、敗戦直後に受けた現地住民の襲撃で20名以上が殺害され、引き揚げ途中の飢餓などで約350人が死亡した。
やっとの思いで帰国するが、もはや元の村に自分の土地はない。結局、47年(昭和22年)に65世帯165人が国有地の払い下げを受けて浅間山麓(さんろく)の軽井沢に入植したが、雪深い不毛の原野を切り開く文字どおり「開拓」の苦難を味わう。今は早稲田大学のセミナーハウスや西武不動産の千ガ滝別荘地になっている一帯だ。
記念館には当時ののこぎりが陳列されているが、こんな道具であの大量のカラマツを切り倒していったのかと思うと胸が詰まる。だが、それ以上の悲劇は、彼らが「侵略のお先棒」を担がされたことである。
筆者は、それまで満州開拓者たちは移住の最初から最後まで苦難が続いたと思い込んでいたが、記念館を案内してくれた移民2世(満州で誕生)の話に驚愕(きょうがく)した。「われわれの満州での生活はかなり快適だったようです。割り当てられた農地は既耕地だったこともあり、元の大日向村と比べれば別天地でした」というのだ。
記念館に掲示された「満州大日向村」の地図をみると実に広大だ。鉄道路線でいえば2駅間(列車で30分程度か)、公称総面積は8000町歩(2400万坪)に達する。移民たちには1戸当たり10町歩(3万坪)の農地が給付されたという。日本では当時の1農家当たり平均耕作面積が1町歩であったことを考えると、まさに夢のような「別天地」だったにちがいない。
国策に翻弄(ほんろう)された人々
だが、大日向の移民たちは、戦後になってその「別天地」が実は日本政府が実質的に収奪したものであることと、「小作」として使用していた中国人や朝鮮人こそが本来の地主であったことを知って、大きな衝撃を受ける。
彼らは日本では被害者だが、中国では加害者でもあったわけで、実に気の毒な存在だ。存命の移民たちは今も「現地の人に大変な迷惑をかけた」と悔恨の念にかられているという。
こうした満州開拓移民は最終的には22万人にまで膨張した。日本側の資料によれば、移民の土地を確保するために設立された満州拓殖公社(満拓)は、41年までに2000万町歩(日本国土の半分以上)を買収(収奪)している。
このうち中国人の既耕地は351万町歩と当時の日本全耕地の約6割に達する(太平洋戦争研究会編著「満州帝国」河出書房新社)。その背後に日本軍の圧力があったことはいうまでもない。
筆者は吉林からハルビンまで5時間半も列車に揺られて移動したが、車窓にはトウモロコシ畑や大豆畑が気の遠くなるほど延々と続いていた。この沿線に大日向村をはじめ多くの満州開拓団の入植地が連なっていたことを思うと、やり切れない気分に陥る。
今年86歳になる筆者の母親に聞くと「当時の日本人は、皆満州はいいところと信じていた」という。われわれは「侵略」という言葉を聞くとすぐに戦争を想起するが、実は権力者による情報コントロールこそが最も恐るべき侵略の正体であることを痛感する。
出典http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/yanai.cfm?i=20090218c9000c9&p=4
母村・大日向村は現在長野県南佐久郡佐久穂町の一部になっており、秩父から佐久に抜ける国道299号沿いにあります。秩父事件の時、困民党軍が十石峠を経て佐久に転戦した際とおった道です。僕も何回か訪ねたことがあります。当時の宣伝映画も見ました。
でも、この 大日向開拓記念館は所在が分からず行ったことがないのです。これでわかりました。春になったら下見に行ってみます。普段は閉まっているようです。
大日向開拓記念館http://blog.goo.ne.jp/iwanaga7717/e/142cac90a0d4490a033a5b3702245b59
きいちご移動教室の目的地探し、第2弾は軽井沢周辺です。
一昨年夏、天皇ご夫妻が軽井沢静養中に大日向開拓記念館を訪れたというニュースがありました。抗がん剤治療の一休み中に長野県で見たのではなかったかと思います。
大日向開拓地http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/080830/imp0808300822000-n2.htm
一年前の今頃、ここを訪ねた箭内 昇さんという方の文章があります。
「未来志向の友好関係は歴史認識から――旧満洲で見た衝撃の遺跡」(2009/02/19)
大日向開拓団の悲劇
昨年天皇陛下も訪問された大日向開拓記念館は軽井沢西部の大日向地区にある。1938年(昭和13年)、長野県旧大日向村(現佐久市佐久穂町)の村民は厳しい食糧危機に耐えかね、村民の半分にあたる216戸、764名が吉林市北部の舒蘭県四家房への移住を決断した。
村ごと移住する「分村移民」としては第1号であり、やがて「開拓」が成功するや、日本政府は格好のモデルケースとして映画や演劇化し、国をあげて満州移住を奨励した。
だが、移住した大日向村民はその後3つの悲劇に遭遇する。まずは、敗戦直後に受けた現地住民の襲撃で20名以上が殺害され、引き揚げ途中の飢餓などで約350人が死亡した。
やっとの思いで帰国するが、もはや元の村に自分の土地はない。結局、47年(昭和22年)に65世帯165人が国有地の払い下げを受けて浅間山麓(さんろく)の軽井沢に入植したが、雪深い不毛の原野を切り開く文字どおり「開拓」の苦難を味わう。今は早稲田大学のセミナーハウスや西武不動産の千ガ滝別荘地になっている一帯だ。
記念館には当時ののこぎりが陳列されているが、こんな道具であの大量のカラマツを切り倒していったのかと思うと胸が詰まる。だが、それ以上の悲劇は、彼らが「侵略のお先棒」を担がされたことである。
筆者は、それまで満州開拓者たちは移住の最初から最後まで苦難が続いたと思い込んでいたが、記念館を案内してくれた移民2世(満州で誕生)の話に驚愕(きょうがく)した。「われわれの満州での生活はかなり快適だったようです。割り当てられた農地は既耕地だったこともあり、元の大日向村と比べれば別天地でした」というのだ。
記念館に掲示された「満州大日向村」の地図をみると実に広大だ。鉄道路線でいえば2駅間(列車で30分程度か)、公称総面積は8000町歩(2400万坪)に達する。移民たちには1戸当たり10町歩(3万坪)の農地が給付されたという。日本では当時の1農家当たり平均耕作面積が1町歩であったことを考えると、まさに夢のような「別天地」だったにちがいない。
国策に翻弄(ほんろう)された人々
だが、大日向の移民たちは、戦後になってその「別天地」が実は日本政府が実質的に収奪したものであることと、「小作」として使用していた中国人や朝鮮人こそが本来の地主であったことを知って、大きな衝撃を受ける。
彼らは日本では被害者だが、中国では加害者でもあったわけで、実に気の毒な存在だ。存命の移民たちは今も「現地の人に大変な迷惑をかけた」と悔恨の念にかられているという。
こうした満州開拓移民は最終的には22万人にまで膨張した。日本側の資料によれば、移民の土地を確保するために設立された満州拓殖公社(満拓)は、41年までに2000万町歩(日本国土の半分以上)を買収(収奪)している。
このうち中国人の既耕地は351万町歩と当時の日本全耕地の約6割に達する(太平洋戦争研究会編著「満州帝国」河出書房新社)。その背後に日本軍の圧力があったことはいうまでもない。
筆者は吉林からハルビンまで5時間半も列車に揺られて移動したが、車窓にはトウモロコシ畑や大豆畑が気の遠くなるほど延々と続いていた。この沿線に大日向村をはじめ多くの満州開拓団の入植地が連なっていたことを思うと、やり切れない気分に陥る。
今年86歳になる筆者の母親に聞くと「当時の日本人は、皆満州はいいところと信じていた」という。われわれは「侵略」という言葉を聞くとすぐに戦争を想起するが、実は権力者による情報コントロールこそが最も恐るべき侵略の正体であることを痛感する。
出典http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/yanai.cfm?i=20090218c9000c9&p=4
母村・大日向村は現在長野県南佐久郡佐久穂町の一部になっており、秩父から佐久に抜ける国道299号沿いにあります。秩父事件の時、困民党軍が十石峠を経て佐久に転戦した際とおった道です。僕も何回か訪ねたことがあります。当時の宣伝映画も見ました。
でも、この 大日向開拓記念館は所在が分からず行ったことがないのです。これでわかりました。春になったら下見に行ってみます。普段は閉まっているようです。
大日向開拓記念館http://blog.goo.ne.jp/iwanaga7717/e/142cac90a0d4490a033a5b3702245b59
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