川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

村田さんの逝去に思う

2007-04-17 16:31:17 | 友人たち
 この一週間は疲れが出たのか、眠ってばかりでした。そんなとき村田奈美枝さんの訃報があり、じわっとではありますが大きな打撃を受けました。
 14日、中野の宝仙寺で執り行われた葬儀の最後に妹さんが、この5年間の闘病生活について語り、我慢強く優しかった生涯を紹介しました。白血病が発症したあともあまり他人には伝えなかったようです。
 村田さんは1970年代の後半、池袋商業高校のフォーク部のリーダーでした。同好会として10年近く続いてきたのをクラブに格上げすることに尽力した人です。
大島の泉山荘という民宿に合宿し、ギターの練習の合間に近くの秋の浜などで泳いだことも懐かしい思い出です。まだ、幼かった我が家の子どもたちも一緒で、みんなにかわいがってもらいました。同好会ということで正式のクラブ合宿が認められなかったので、顧問である僕のなじみの宿にみんなが集ったのです。普段は見たことのない水着姿がまぶしかったものです。
 僕が60歳になったというので、フォーク部の卒業生たちが廃校が決まっていた母校の会議室でお祝いの会を開いてくれました。それが02年4月28日のことで、一緒に撮った写真が手元にあります。村田さんと会ったのはこれが最後になってしまいました。
 このころから病気が進行していたことになりますが、この5年間、僕は何も知らず、また会える日を楽しみにしていたのです。一昨年12月には僕が肺ガンの手術を受け、フォーク部の人々にも心のこもった励ましを受けました。しかし、僕は闘病の村田さんに言葉の一つもかけられなかったのです。彼女が高校を卒業してからの人生を何一つ知りません。さびしい限りです。
 村田さんを見送ったあと、僕に訃報を伝えてくれた惠美ちゃん夫妻が昼食に誘ってくれました。この人は村田さんの一年先輩に当たり、僕とはもう30年のつきあいになります。僕は「えみ」と呼び、妻は「えみちゃん」と言います。
僕が北高で働いていた頃には、すぐ近くの彼女の家を訪ねてたびたびお茶の接待を受けたものです。しかし、お連れ合いのNさんとゆっくり話をするのはこれがはじめてです。
 Nさんは花の散り残る外堀通りを通って、赤羽のレストランに僕らを案内します。僕は島根県と山口県の分水嶺に近い山村で育ったという、彼の生家や人生について根掘り葉堀り聞きました。
今でもゴミの収集がないといいます。水は山から引き、風呂は薪で沸かします。沢山生まれた犬の子は大雨のときに川に流すとも。田舎育ちの僕にも実感しづらい話です。
でも、東京育ちの惠美ちゃんははじめて田舎ができてよかったと思っています。たまに帰ると彼の幼なじみが集まって賑わいます。その輪の真ん中にある惠美ちゃんの姿が容易に想像できます。今は高2になる息子さんは高津川の源流で、釣りの楽しみを覚えたようです。あと6年で定年だというNさんは父母の元に帰りたいようです。
 こんなふうにとまではいかなくても、村田さんとも人生の話をしたかったなーと思わないわけにはいきません。
僕は生徒として出会い、仲良しになった人と人生のどこかで再会し、その話を聞くのが趣味のようなものです。そのような機会を大切にし、自分からも作るようにしています。
そんなことができないまま、村田さんは46歳で逝ってしまいました。葬式で会うのはよそう。生きて、出会って、人生を語り合おう。惠美ちゃんと僕との確認事項です。

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5 コメント

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「生きてるうちにまた会おう!」 (カツヨシ)
2007-04-17 22:46:02
 80歳を過ぎた従兄と先日10年ぶりに再会した折、どちらからともなくそう言いました。本当に、葬式でしか会えないなんて嫌ですよね。
 「けいすけ」さんが卒業生のお葬式に参列していた日、ぼくは34年前の卒業生のライブ演奏を聴きに行ってました。(ぼくも40年間の教員生活をした者です)キノスケ君(名前)はギター同好会のメンバーで、文化祭などでぼくが生徒諸君の前で熱唱(?)するときの優れた伴奏者で、あの伝説の中津川フォークジャンボリーに泊りがけで参加した仲でした。今にして思えば、学校というところには、まだまだ自由で牧歌的なところがありました。卒業してからも交流は続いていたのですが、今年の正月にン十年ぶりに電話をくれて「不義理をしているキノスケです。人生で恩師と呼べるのは先生だけです」と率直に真情を吐露してくれました。もったいないような思いと懐かしさとを感じつつ、「生きてるうちに会おうね」と、ぼくは急いで言いました。あの「通り過ぎた夏の匂い」が強く伝わってきました。そして3月11日、「朗読の会」(ぼくは今朗読にハマっています)のわずか5分間のぼくのパフォーマンスのために、彼は駆けつけてくれたのです。かつての紅顔の美少年は50代の渋いオヤジに変貌していましたが、輝く目はあの頃の熱さを湛えていました。
 4月14日の演奏も圧倒的でした。とりわけキノスケ君のエレキギターとブルガリア人ガドゥルカさんの馬頭琴に似た楽器のセッションが圧巻で、二人の高みへ高みへと昇りつめて行くようなアドリブの応酬は、二つの魂が出会い睦みあう様を見るようで、こちらも心が踊りからだが揺れます。音楽って音を楽しみ、出会いを楽しむものなのだ、と実感しました。
 この日の客席にはギター同好会の仲間も3人いて、
ぼくとの30余年ぶりの再会を喜んでくれました。
とくにEさんは大感激で「先生には結婚式にも出ていただきました。去年彼とは別れちゃったんですけど。
不思議ですねえ、私、昨日先生の授業のこと、思い出してました!」 Eさんの心の中にぼくが生きていたことを知って、心底嬉しいような怖いような思いがしました。
 翌日、かのギターの名手・キノスケ君からのメール。「先生の朗読とぼくのギターでセッションしましょう! ただし、恩師だからといって手は抜きません。ガドゥルカさんのときのように激しいバトルをしましょう。絶対やりましょう!」ぼくは即座に返信。「受けて立ちます!」
 かくして「生きてるうちに」やることがまた一つ増えました。
(長くなってごめんなさい。ブログの作者よりも長くならないよう気をつけます)
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楽しそうですね (けいすけ)
2007-04-18 06:08:08
思っていること、伝えたいことを、上手に交流することは意外に難しいことです。自分の方に率直さや度量が欠けている場合が多いように思います。ありのままの自分をぶっつけてそんな壁を壊して行きたいですね。挑戦する、一途な、少年・カツヨシを見るようです。
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昨日は有難う (大木薫)
2007-05-12 09:34:08
昨日はおかげさまで楽しいひと時を有難うございました。
めったに聞けないはなしで、みんなも喜んでいました。
このブログもみんなに開放したいですね。
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もっと 一緒に (ほっかりです)
2007-05-17 13:23:19
先生の ブログやっと 開きました むっちょの事
本当に 残念でたまりません 5月27日には 納骨になります 私の高校生活三年間 どのシーンにも 彼女がいて 卒業しても 社会人になっても しばらく
会わないでいても いつも 同じ笑顔で 再会できる
大切な 友人でした でも 彼女は 精一杯生きてきたし 人生80年といわれるけれど 80年分は きっと生きていったのだと思います この次 空の上で 再会できる時も また 笑顔で会いたいです 葬儀の時も さよならではなく またねと挨拶しました 先生との 久しぶりの再会も むっちょが 会わせてくれたのですから また ちょこちょこ ブログおじゃまします
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Unknown (恵美)
2007-05-25 00:38:04
寂しいです!私もほっかりと同じで、彼女の笑顔しか知りません。入院中にお見舞いに行った時もベッドの中で笑っていました。 葬儀の時、最後のお別れはしませんでした。私の心の中に残る彼女が笑顔のままでいられるように・・・ほっかりにお会いするのも卒業以来です。寂しい席ではなく、懐かしい皆に会いたいと思いました。
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