川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

備忘録(2)

2007-10-30 18:19:36 | 友人たち
 25日(木) 午後、Oさんが見舞いに来てくださった。世の中に久しぶりにふれることができた感じ。お連れ合いの李福子さんが日本国籍を取得した経緯を伺う。法務局の役人に動機を聞かれて「外国人という地位に飽きた。これからはこの国の主権者として生きたい」と答えたという。こころが熱くなってくるような気がした。このような友人とこころを通わせながらこれからも生きていきたい。

 26日(金)都幾川温泉

 28日(日)入間川、荒川の土手をサイクリング。上尾の榎本牧場でアイスクリームを食べる。ゆっくりだが10kmくらいは走ったか。

 30日(火)癌研有明病院で肺のCTをとる。定期検査。

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祭りの前のときめきは (カツヨシ)
2007-10-31 22:28:49
26日(金)、声のかすれの真相を追って、頚部・胸部のCT。結果は「何の異常も見られない」。「耳鼻科では『加齢かパーキンソンによるものか。念のため胃カメラとCTをやってみては』と言われ、胃カメラを受けたが、『のどにも食道にも胃にも異常なし』(9月27日)とのこと。声のかすれは結局何によるものなのか。加齢かパーキンソンということになるのか」と、思わずじれて聞いてしまいました。若い医師は憮然とした表情で「私は内科医です。のどのことは耳鼻科で聞いて。内科的には異常は見られないと言ってるんです」 まことにごもっともだが、取り付く島がない感じでした。
 夜、《声の会》の仲間に誘われてオフィス・サエ公演『キル―広島の友より―』を観る。貴重なものを拾ったような幸福感の残るいい舞台でした。教室の半分ほどのほとんど裸に近いステージに、広島のあの日の阿鼻叫喚が、被爆した少女たちの苦悩と再起が、友情と<朝鮮>との出会いが、スピーディーにリアルに再現され、展開されます。深い深い想像力による真摯な追体験の積み重ねと、よく訓練された肉体による一糸乱れぬ入魂の演技、とりわけ主役を演じた若い女優の圧倒的な存在感と繊細な表現力、確かな想像力に裏打ちされたひたむきな顔にキラリ光る美しい涙に心揺さぶられました。「宇野重吉が『想えば、出る』って言ってるけど、本当よねぇ」と、観劇に誘ってくれた仲間(女優)が、しみじみとした調子で言います。ぼくの声も、「想えば、出る」はずだと、ぼくは勝手なことを思って聞いていました。

27日(土) けいすけさん宅訪問の予定を、昨夜の疲れと台風接近のためにヒヨッて、ドタキャン。ゴメンナサイ。

28日(日) 18:00~21:00 『流れる星』稽古。本番を前にしての稽古としては今ひとつノリが悪い。「想わなければ、出ない」

29日(月) 卒業生のY君からTEL。1970年卒。在学中は学園民主化行動委員会のメンバーとして、文化祭実行委員長として、旺盛な反逆精神と行動力を発揮。ぼくは彼の、いつも鋭く牙をむいているような姿勢が好きでした。「オレ、ホントは朝鮮人なんだ」 ぼく(28歳)のアパートにたむろしていた仲間の前での、いきなりの宣言でした。文化祭では一人でひと教室を使い、「日本の中のアウシュヴィッツ―大村収容所―」の展示に取り組む。会場に一歩足を踏み入れるとき、床に大きな黒い足型が描かれ、その横に「オレたちいつも踏みつけられてきた!」と大書してあったのを今でもよく覚えています。ぼくが長い間在日コリアンの問題に取り組むことになる、その原点を作ってくれた一人です。約40年前の少年は、スリムな長身に、昔の面影をたたえた笑顔で現れました。(6年ほど前に一度会ってはいるのですが)彼はすでに日本国籍を取得していました。「コリア系日本人として」「権利としての積極的な国籍取得として」「市民権として」……彼の言葉が一つ一つ胸にストンと落ちます。屈託のない自信に満ちた笑顔が多くを物語っています。「在日の社会も大きく変わっていますよ」
 11月18日(日)の『流れる星は生きている』を見に来てくれるそうです。
 
 帰宅後、Y君の先輩のM君(1967年卒)にTEL。彼のスピーチの決まり文句は「オレは昔不良だった。それを大学出たての若い生きのいい教師に救われた」。Y君の話を喜んで、「オレも18日行く予定だから、よろしく!」

 その上(かみ)の「不良少年」や「演劇少女」や「コリア系日本人」やの視線の前に、18日、立ちます。「想えば、出る」と信じつつ。
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