20日(土)晴れ
賀明さんご夫妻と別れる。私たちは水俣湾埋め立て地の丘につくられた市立水俣病資料館を見学。ぼくは脚が棒のようになって疲れ果てる。
少し休んだあと親水護岸付近につくられた水俣病慰霊碑や広い芝生に並ぶ「魂石」群付近を散歩。
魂石http://www.southwave.co.jp/swave/8_cover/cover_200036.htm
水俣湾の水銀ヘドロを埋め立てたこの広大な広場を取り囲む鋼矢板の耐用年数はたかが50年だという。東京都が築地市場の移転候補地にしている豊洲の東京ガス跡地のことを思い出した。有毒物の撤去のため数千億円の投与が見積もられている。50年などというのは地球の歴史からすればほんの一瞬だ。水俣はどうするつもりなのだろう。
百間(ひゃっけん)排水口へ。有機水銀を含む工場排水が垂れ流されていたところだ。百間港は埋め立て地となり当時の風景を想像することも難しい。水俣の漁師たちはわざわざ漁船をこの排水口付近につなぎに来たという。フナムシなどが寄りつかなくなり船が長持ちすると言い伝えられたらしい。
水俣の旅の最後に水俣病の原点ともいえるところを訪れた。チッソの幹部たちはものごとが明らかになってからも排水の垂れ流しをやめなかった。国の幹部も県の幹部も知らんぷりを続けた。。取り返すことのできない生態系の破壊が進み、この世の地獄を生み出した。なぜ、このようなことを平然とやれるのだろう。どうしたらいいのだろう。
水俣川に沿う道を遡り、鹿児島空港に向かう。途中、大口という町のお好み焼き屋さんで昼食後、曽木の滝による。
想像していたよりも雄大な風景に疲れていた足も動く。
曽木の滝http://www.pmiyazaki.com/kyusyu/sogi_taki/
付近に野口遵がつくった発電所の遺構があるというので観に往く。今はダム湖に沈んで何も見えなかった。
曽木発電所遺構http://kyushu-heritage.jp/map/36sogi/36sogi.html
不知火海の旅のいよいよ最後にとうとう「野口遵」に行きあたった。チッソの祖(おや)である。
鹿児島空港からの飛行機では雲海の果ての夕焼けがみごとだった。
(付録)
昨夜、「野口遵」についてパソコンで調べてみた。一代で財閥を築いた巨人であることは間違いない。紹介は他日を期す他はないが、ぼくの人生と関わりのあった「朝鮮奨学会」の代表理事の権碩鳳さんの言葉が出てきたので忘れないように記録しておきたい。肯定的な人物評価をされている。
「興南(北朝鮮)に本籍を移し」たとか、「唯一の住所にした」とかとある。出典などを知りたいものである。年表に寄れば「死」は伊豆の韮山である。
20世紀日本の経済人61 飛翔篇 (日本経済新聞00・3・6)
「おれの全財産はどのぐらいあるか」。1940年(昭和15年)2月、野口が京城(現ソウル)で病に倒れたとき、側近をまくら元に呼んで調べさせた後、こう語ったという。
「古い考えかもしれんが、報徳とか報恩ということが、おれの最終の目的だよ。そこでおれに一つの考えがある。自分は結局、化学工業で今日を成したのだから、化学方面に財産を寄付したい。それと、朝鮮で成功したから、朝鮮の奨学資金のようなものに役立てたい」
こうして私財3000万円(現在の価値で約300億円)のうち、2500万円で化学工業を調査研究するための「財団法人野口研究所」が設立され、500万円を朝鮮総督府に寄付して「朝鮮奨学会」の原資とした。日本にも古今、富豪と呼ばれる人は数多いが、全財産を投げ出してまで社会貢献を志した例は、あまりないのではなかろうか。
野口研究所は戦前、アセチレンやイオン交換樹脂の製造と利用といった分野で業績を上げ、戦後も木材化学やプラスチックの研究、森林資源開発の調査などで多くの寄与をしている。
「野口の行動には、戦時中の植民地主義のにおいが全くなく、すがすがしささえ感じる。それは金銭に恬淡とし、純粋な開拓精神に突き動かされていたからではないか」(野口研究所理事の藤本透-2000年3月当時)
朝鮮奨学会代表理事の権碩鳳も、「朝鮮で事業を展開しているうちに、郷土愛のようなものが芽生えたようだ。興南に本籍を移し、自ら唯一の住所としたのもその表れ」と分析する。
野口の理念や情愛によって生まれたといえる朝鮮奨学会は、いまも朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)籍と韓国籍の理事が同数ずつで構成、南北の人間が机を並べて仕事をしている団体だ。これまでに4万人近い奨学生を送り出した実績を持つ。
「個人の所属や思想、信条にかかわらず一致協力して奨学事業を推進していきたい。それが国家や民族を超えて事業を追求した、野口の遺志を継ぐことにもつながる」(権)という。
出典 野口研究所とは?http://www.noguchi.or.jp/lab_noguchi.html
賀明さんご夫妻と別れる。私たちは水俣湾埋め立て地の丘につくられた市立水俣病資料館を見学。ぼくは脚が棒のようになって疲れ果てる。
少し休んだあと親水護岸付近につくられた水俣病慰霊碑や広い芝生に並ぶ「魂石」群付近を散歩。
魂石http://www.southwave.co.jp/swave/8_cover/cover_200036.htm
水俣湾の水銀ヘドロを埋め立てたこの広大な広場を取り囲む鋼矢板の耐用年数はたかが50年だという。東京都が築地市場の移転候補地にしている豊洲の東京ガス跡地のことを思い出した。有毒物の撤去のため数千億円の投与が見積もられている。50年などというのは地球の歴史からすればほんの一瞬だ。水俣はどうするつもりなのだろう。
百間(ひゃっけん)排水口へ。有機水銀を含む工場排水が垂れ流されていたところだ。百間港は埋め立て地となり当時の風景を想像することも難しい。水俣の漁師たちはわざわざ漁船をこの排水口付近につなぎに来たという。フナムシなどが寄りつかなくなり船が長持ちすると言い伝えられたらしい。
水俣の旅の最後に水俣病の原点ともいえるところを訪れた。チッソの幹部たちはものごとが明らかになってからも排水の垂れ流しをやめなかった。国の幹部も県の幹部も知らんぷりを続けた。。取り返すことのできない生態系の破壊が進み、この世の地獄を生み出した。なぜ、このようなことを平然とやれるのだろう。どうしたらいいのだろう。
水俣川に沿う道を遡り、鹿児島空港に向かう。途中、大口という町のお好み焼き屋さんで昼食後、曽木の滝による。
想像していたよりも雄大な風景に疲れていた足も動く。
曽木の滝http://www.pmiyazaki.com/kyusyu/sogi_taki/
付近に野口遵がつくった発電所の遺構があるというので観に往く。今はダム湖に沈んで何も見えなかった。
曽木発電所遺構http://kyushu-heritage.jp/map/36sogi/36sogi.html
不知火海の旅のいよいよ最後にとうとう「野口遵」に行きあたった。チッソの祖(おや)である。
鹿児島空港からの飛行機では雲海の果ての夕焼けがみごとだった。
(付録)
昨夜、「野口遵」についてパソコンで調べてみた。一代で財閥を築いた巨人であることは間違いない。紹介は他日を期す他はないが、ぼくの人生と関わりのあった「朝鮮奨学会」の代表理事の権碩鳳さんの言葉が出てきたので忘れないように記録しておきたい。肯定的な人物評価をされている。
「興南(北朝鮮)に本籍を移し」たとか、「唯一の住所にした」とかとある。出典などを知りたいものである。年表に寄れば「死」は伊豆の韮山である。
20世紀日本の経済人61 飛翔篇 (日本経済新聞00・3・6)
「おれの全財産はどのぐらいあるか」。1940年(昭和15年)2月、野口が京城(現ソウル)で病に倒れたとき、側近をまくら元に呼んで調べさせた後、こう語ったという。
「古い考えかもしれんが、報徳とか報恩ということが、おれの最終の目的だよ。そこでおれに一つの考えがある。自分は結局、化学工業で今日を成したのだから、化学方面に財産を寄付したい。それと、朝鮮で成功したから、朝鮮の奨学資金のようなものに役立てたい」
こうして私財3000万円(現在の価値で約300億円)のうち、2500万円で化学工業を調査研究するための「財団法人野口研究所」が設立され、500万円を朝鮮総督府に寄付して「朝鮮奨学会」の原資とした。日本にも古今、富豪と呼ばれる人は数多いが、全財産を投げ出してまで社会貢献を志した例は、あまりないのではなかろうか。
野口研究所は戦前、アセチレンやイオン交換樹脂の製造と利用といった分野で業績を上げ、戦後も木材化学やプラスチックの研究、森林資源開発の調査などで多くの寄与をしている。
「野口の行動には、戦時中の植民地主義のにおいが全くなく、すがすがしささえ感じる。それは金銭に恬淡とし、純粋な開拓精神に突き動かされていたからではないか」(野口研究所理事の藤本透-2000年3月当時)
朝鮮奨学会代表理事の権碩鳳も、「朝鮮で事業を展開しているうちに、郷土愛のようなものが芽生えたようだ。興南に本籍を移し、自ら唯一の住所としたのもその表れ」と分析する。
野口の理念や情愛によって生まれたといえる朝鮮奨学会は、いまも朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)籍と韓国籍の理事が同数ずつで構成、南北の人間が机を並べて仕事をしている団体だ。これまでに4万人近い奨学生を送り出した実績を持つ。
「個人の所属や思想、信条にかかわらず一致協力して奨学事業を推進していきたい。それが国家や民族を超えて事業を追求した、野口の遺志を継ぐことにもつながる」(権)という。
出典 野口研究所とは?http://www.noguchi.or.jp/lab_noguchi.html