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川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

天草のおばあちゃん

2008-12-12 06:39:39 | 出会いの旅
天草を訪ねることになったので、おばあちゃんの様子を聞こうと久しぶりにNさんに電話してみました。文京高校時代の元生徒です。なんと、11月に赤ちゃんが生まれてお宮参りが済んだばかりだといいます。
 名前は心海(ここみ)ちゃん。海のように広い心をもった人になってほしいという願いが込められています。夏休みのたびに天草の海に親しみ、新婚旅行もモリジブにいったというNさんらしい命名です。メールで生まれたばかりの心海ちゃんの写真を送ってもらいました。しっかりした顔立ちの赤ちゃんです。
 天草のおばあちゃんは来春、もう一人の孫娘の結婚式に出席するため東京に来る予定だといいます。体調を崩し医者通いが続いているようですが、持ち前の気力で一人暮らしを貫いているのでしょう。
 
 2006年夏、NさんのおばあちゃんAさんを天草に訪ねたときの文章があります。手術後の抗ガン剤治療が終わり、学校に復帰した直後のことでした。ぼくがこのおばあちゃんに受けた励ましを計ることはできません。二年ぶりにお会いできるかと楽しみにしています。

  Nさんの泳いだ羊角湾http://www.yado.co.jp/kankou/kumamoto/amakusa/sakitu/sakitu.htm

http://washimo-web.jp/Trip/AmakusaTrip/amakusa1.htm 


列島ところどころ 13  天草       

鈴木啓介(都立新宿山吹高校)
 
7月13日から5泊6日で島原・天草の旅に連れて行ってもらった。恒例の義母と妻との道中の復活である。武雄の友人を見舞い、諫早湾干拓地でもと漁師さんたちに歓待されたあと、島原城・原城址などを訪ね、口之津からフェリーで天草・鬼池港にわたった。今は天草市となっている天草下島のある村にAさんを訪ねたのは15日のことである。

前夜、河浦城址の麓につくられた愛夢里という宿にくつろいだ私たちはこの朝、すぐ近くの天草コレジョ(キリスト教神学校)址を散歩したり、天正の少年使節が持ち帰ったグーテンベルクの印刷機(複製)やキリシタン本などが展示されている天草コレジョ館を見学したあと、レンタカーでA さんの自宅に向かった。美しい入り江に臨む村々をいくつも通り過ぎていく間僕はいくらか興奮していたのではないか。ぼくにとってはこの人にお会いするのが年来の楽しみであった。
 
数年前の9月、授業を担当していたN さんからレポートをうけとったのがことの始まりである。夏休みに田舎のおばあさんの家に集まった従姉妹たちと来る日も来る日も稲刈りをして汗を流した様子や作業が終わると田圃の横を流れる川に飛び込んで水掛をして楽しむ風景が生き生きと報告されていた。

 ぼくの授業では夏休み前に<自然と人間>というテーマを設定し、生態系について学び、自然観の変革について考える。夏休みに森や川や海に出かけたとき、自然にい抱かれることの心地よさや、自然の脅威を実感してもらうとともに、人間の一人として自然とのつきあい方を考えるきっかけになればと思ってのことである。レポートは任意提出で優秀作品にはぼくが思いつきの賞品をあげることにしている。

  都心で育った少女が稲刈りに汗を流す、想像するだけでこんなことが本当にあるのかと思った。家族そろっての採り入れがどんなに楽しかったか、鎌を持って稲を刈った体験がその後の人生でどんなにぼくに自信をつけてくれたか、という自分の小学校時代の体験と重ね合わせてNさんのレポートを授業で紹介した。このことがきっかけで(?)Nさんと親しく言葉を交わすようになった。母方の祖父がコリアンだったということもまもなく知った。天草に住むというそのおばあちゃんに会いたいとぼくはますます思うようになったのである。
 

Aさんは孫娘から知らされていたとはいうものの初対面の私たちを居間に迎えいれて、Nさんがいかにしっかりした農民であるかを語ってくれた。子どもの時から、東京からやってくるとおばあちゃんよりも先に田圃や畑にでたがったという。こんな子はこの村にもおらず、なかなかの評判らしい。
 
 やがて、Aさんは自分の人生について語り始めた。ぼくはただただ驚き、感動し、深く励まされた。
 
 3ヶ月近く前のことでもあり、細部は曖昧模糊となってしまってあらすじだけだが記憶に残っていることを書くこととする。

Aさんは昭和3年の生まれだが、人生で二度、親から捨てられたという。

 最初は14歳のとき。尋常小学校高等科の卒業式のあった日、家に帰ると周旋屋の男が来て待っていた。親がAさんを100円で売っていたのだ。Aさんはその場で男に引き渡された。卒業式のセーラー服姿のままだったという。
そのまま奉天(今の中国・瀋陽)に連れて行かれ、下働きをさせられた。収入はわずかだったが闇の商売をして何倍にもして毎月、親に送った。一生懸命だった。

ソ連軍が攻め込んできてからからは地獄のようだった。丸坊主になって男の格好で奉天から釜山まで歩いて逃げ回った。川を渡るとき親に捨てられた子供を助けようとしたら、お前はいざというときこの子を殺してやることが出来るか、それが出来ないならここに置いていってやれと叱責され、見捨てるほかなかった。

清津の収容所で何ヶ月か過ごした。食べていくために、Aさんは饅頭を作って街に売りに行った。みんな食料を求めていたから、よく売れた。毎日、売り上げの中から次の日の仕込みに必要なお金を取りのけてあとはすべて食料にかえた。収容所で待っている保護者のいない子どもたちに食べさせてやるためだった。

発疹チフスがはやって、人がばたばた死んでいった。Aさんも感染して生死の境をさまよったが面倒を見ていた子供たちが一生懸命看病してくれたおかげで一命をとりとめ、日本に帰ってくることが出来た。


二度目は天草に帰り着いてからである。

自分が送った金は兄弟たちの進学のための費用になったのに親からよく帰ったとも言ってもらえなかった。その当時、羽振りのよかった朝鮮人のBさんとやはり命からがら引き揚げてきた姉さんとが見合いをしたが、姉さんの「主人のような人」が帰ってきたので、結局、AさんがB さんと結婚させられることになった。
Bさんは土地などの財産も持っていたがいろいろな形で親に取り上げられ、挙句の果てに、Aさん夫婦が貧乏のどん底に落ちたとき親に助けられるどころか、お前たちはここから消えてくれといわれた。
乳飲み子を抱えて二人は熊本に渡る。長崎や東京での長い生活を経て天草に帰ったのは老年になってからである。今、国民年金に入っていないAさんの生活は子供さんたちの送金によってしっかりと支えられている。
 

僕は[親に売られた]という言葉を当の本人から聞くのは65歳にしてはじめてである。親と家族のために異郷の地から送金を続けたのに、お帰りとも言ってもらえなかった17歳の気持ちを想像することも困難である。親にどんな事情があったか詳しくはわからないが貧窮の果てに娘を売ったのではないらしい。

よくも生きてこられましたね。親を恨む気持ちはないのですか。という問いに、懐かしいとか、慕わしいとか、そんな思いはないけれど恨みはないですねえ、そんな時代じゃあなかったんですかねえ、と答えられた。私は馬鹿だからいきてこられたんです。ものごとをいいように解釈して努力することしか頭にないんですよ。とも。

その後の日蓮との出会い、信仰がこの数十年の人生をささえる原動力になったという。僕たちとの話し中にも何本かの電話がかかってくる。ふるさとの村に帰って、いま、ひとびとの信頼を得て、人のため動き回っているのだろう。安らぎの中にも稟としたリーダーの姿勢があった。

ぼくは啓介よ、しっかりせい、とどやされたように思う。一人の女性の人生の真実をさえ、おまえはどこまで若い人たちに伝えてきたというのか。おまえの仕事はこれからだ。こんな励ましを心の奥深いところで感じたのである。
 
Aさんに別れて、Nさんたちが毎年盆の頃にやってきて収穫を手伝ったという田圃を見に行った。川沿いにどこまでも水田が広がっていた。想像していたよりもはるかに広かった。このおばあちゃんの孫娘なんだなー、Nさんの笑顔を思い出しながらぼくはなかなか立ち去ることが出来なかった。
(この文章を書くためAさんに相談したところ、このように名前を変えて紹介することになりました。読者の理解をお願いします。)
     『木苺』129号(06年10月発行)所収