昨日は室戸岬海岸を散歩した後、僕の「最初の生徒」を尋ねて47年ぶりに会うことが出来ました。
中岡慎太郎の銅像の前から遊歩道に出ました。ちなみに慎太郎は坂本竜馬とともに『維新』に身をささげた倒幕の志士。生地北川村に記念館があります。
中岡慎太郎記念館@北川村ウェブ
銅像は僕の父の家から2kmぐらいのところにあり、桂浜にある坂本竜馬と向き合っていると小さいときに聞きました。土佐といえば「竜馬」ですが、僕としては若き庄屋としての責任を背負いながら、人々のために新時代を切り拓こうとした慎太郎のことをもっと知ってほしいと思っています。
みなとめぐり室戸の港観光@国土交通省四国地方整備部港湾空港部
京都の大学院で農業工学を専攻しているという3人組にあったので、アコウの大樹を見てもらいました。。亜熱帯性のこの植物は気根が発達していることが特徴です。林をなしているのは西南日本でも珍しく室戸の植生の特徴です。この地で修行した空海が讃岐に満濃の池を作ったことなどを話し、若い学徒を励ましました。
ハマホウの花がさわやかです。キスゲが咲き残っています。巌の間に続く遊歩道は海浜性植物が豊です。僕は海が好きなのであちこちの海岸を歩きますが、巌のすばらしさはなんといっても室戸岬です。
室戸岬@woodypersonal gooside
ホテルの近くに一度だけお会いしたことのある奴田原(ぬたはら)さんの句碑があります。
泣きに来て 室戸の浪に 噛みつかれ
室戸にはやはり巌に砕ける白波が似合います。空海はこう詠みました。
法性(ほうじょう)の 室戸といえど 我が住めば
有為の波風 立たぬ日ぞなき
19歳の讃岐の青年が籠もり、明星が口に入って悟りを得、やがて空海と名乗ったという御厨人洞(みくろど)の近くには二つの句碑。
潮けむり あがりし磯の 遍路道
竜巻に そうて虹立つ 室戸岬
後者は虚子。台風の接近する前後の浪のすごさは忘れられません。山のような波が次々に押し寄せて見飽きることがないのです。風が強くなると怖くてとても外には出られません。僕のうちのように比較的丈夫に出来ている家でも地鳴りがするような感じです。子供のときの感覚ですが。
新しく出来た海洋深層水のプール・温泉・ホテルの複合施設「ディープ・シー・ワールド」で昼食。
午後は3キロぐらい離れた三津というところにSさんを訪ねました。建設会社の経営をされています。
1960年、思いがけず、浪人をして、6年ぶりに故郷に帰った僕がこの村の5人の小学生の勉強の相手をしたのです。
この年は6月まで日米安保条約の改訂をめぐって日本中が緊張していたのですが、僕は『家』とか『血』とかをめぐる悩みに心を暗くしていました。父の姉妹たちの振る舞いが許せなかったのです。藤村の『家』などの作品を身につまされるように読みました。
そんなときに、砂利道を自転車で訪ねて、子供たちと過ごすことは何よりの助けでした。男3人、女2人。時には子供たちが海に連れて行ってくれ、ナガリ(とこぶし)とりに興じ、時には山のヤマモモの大樹に登り、食い放題。
父がくれた故郷での長い休暇がSさんを訪ねる機会をくれたのです。60になるSさんは僕のことを先生と呼び、半世紀の昔のことをあれこれと話してくれました。そして、それぞれの履歴を交換しました。18から19になる頃の僕の姿がこの人の記憶の中に鮮やかに刻まれていることに僕は言い知れぬ喜びを感じました。別れのとき、僕は古い字引をプレゼントしたそうです。
そのことは忘れていますが、にぎやかなお別れ会をしてもらい、8月の末に東京に向かったことを思い出しました。また何時かきっと、と約束をしたはずなのにこんなにも時がたってしまいました。近くに住む一人を除いて消息がわからないそうです。Sさんは少年の頃の面影をどこかに残していますが、町であっただけではわかりません。おしゃまな少女だった姉妹は診療所の娘さん。父親の故郷、徳島に住むのかなー。本当にあってみたいものです。
このブログで大島を訪ね最初の生徒たちに感謝の気持を伝えたと書きましたが、僕にはそれよりも6年前、小さい生徒たちがいたのです。小2で逝った弟と同学年です。
中岡慎太郎の銅像の前から遊歩道に出ました。ちなみに慎太郎は坂本竜馬とともに『維新』に身をささげた倒幕の志士。生地北川村に記念館があります。
中岡慎太郎記念館@北川村ウェブ
銅像は僕の父の家から2kmぐらいのところにあり、桂浜にある坂本竜馬と向き合っていると小さいときに聞きました。土佐といえば「竜馬」ですが、僕としては若き庄屋としての責任を背負いながら、人々のために新時代を切り拓こうとした慎太郎のことをもっと知ってほしいと思っています。
みなとめぐり室戸の港観光@国土交通省四国地方整備部港湾空港部
京都の大学院で農業工学を専攻しているという3人組にあったので、アコウの大樹を見てもらいました。。亜熱帯性のこの植物は気根が発達していることが特徴です。林をなしているのは西南日本でも珍しく室戸の植生の特徴です。この地で修行した空海が讃岐に満濃の池を作ったことなどを話し、若い学徒を励ましました。
ハマホウの花がさわやかです。キスゲが咲き残っています。巌の間に続く遊歩道は海浜性植物が豊です。僕は海が好きなのであちこちの海岸を歩きますが、巌のすばらしさはなんといっても室戸岬です。
室戸岬@woodypersonal gooside
ホテルの近くに一度だけお会いしたことのある奴田原(ぬたはら)さんの句碑があります。
泣きに来て 室戸の浪に 噛みつかれ
室戸にはやはり巌に砕ける白波が似合います。空海はこう詠みました。
法性(ほうじょう)の 室戸といえど 我が住めば
有為の波風 立たぬ日ぞなき
19歳の讃岐の青年が籠もり、明星が口に入って悟りを得、やがて空海と名乗ったという御厨人洞(みくろど)の近くには二つの句碑。
潮けむり あがりし磯の 遍路道
竜巻に そうて虹立つ 室戸岬
後者は虚子。台風の接近する前後の浪のすごさは忘れられません。山のような波が次々に押し寄せて見飽きることがないのです。風が強くなると怖くてとても外には出られません。僕のうちのように比較的丈夫に出来ている家でも地鳴りがするような感じです。子供のときの感覚ですが。
新しく出来た海洋深層水のプール・温泉・ホテルの複合施設「ディープ・シー・ワールド」で昼食。
午後は3キロぐらい離れた三津というところにSさんを訪ねました。建設会社の経営をされています。
1960年、思いがけず、浪人をして、6年ぶりに故郷に帰った僕がこの村の5人の小学生の勉強の相手をしたのです。
この年は6月まで日米安保条約の改訂をめぐって日本中が緊張していたのですが、僕は『家』とか『血』とかをめぐる悩みに心を暗くしていました。父の姉妹たちの振る舞いが許せなかったのです。藤村の『家』などの作品を身につまされるように読みました。
そんなときに、砂利道を自転車で訪ねて、子供たちと過ごすことは何よりの助けでした。男3人、女2人。時には子供たちが海に連れて行ってくれ、ナガリ(とこぶし)とりに興じ、時には山のヤマモモの大樹に登り、食い放題。
父がくれた故郷での長い休暇がSさんを訪ねる機会をくれたのです。60になるSさんは僕のことを先生と呼び、半世紀の昔のことをあれこれと話してくれました。そして、それぞれの履歴を交換しました。18から19になる頃の僕の姿がこの人の記憶の中に鮮やかに刻まれていることに僕は言い知れぬ喜びを感じました。別れのとき、僕は古い字引をプレゼントしたそうです。
そのことは忘れていますが、にぎやかなお別れ会をしてもらい、8月の末に東京に向かったことを思い出しました。また何時かきっと、と約束をしたはずなのにこんなにも時がたってしまいました。近くに住む一人を除いて消息がわからないそうです。Sさんは少年の頃の面影をどこかに残していますが、町であっただけではわかりません。おしゃまな少女だった姉妹は診療所の娘さん。父親の故郷、徳島に住むのかなー。本当にあってみたいものです。
このブログで大島を訪ね最初の生徒たちに感謝の気持を伝えたと書きましたが、僕にはそれよりも6年前、小さい生徒たちがいたのです。小2で逝った弟と同学年です。