今朝はタオルをかけないと寒いほどでした。父は相変わらず、眠り続けています。1週間ご無沙汰しました。実はこの間、周防の国(山口県南東部)を訪ねていたのです。
6日(木)前日、父に高知県教職員互助会より、一泊旅行の案内が届く。源平古戦場を訪ねて下関まで往復すると言う。これがヒントになって、急遽、山口県を旅することにする。47都道府県のうちどういうわけか、ただの一度も行った事がない唯一つの県である。
妻に相談すると、ちょうど、周防大島出身の宮本常一さんの『民俗学の旅』(講談社学術文庫)を読んでいるところで即座に賛成。とりあえず今夜は松山のマサシ兄さんのところに泊めてもらうこととする。7時過ぎについて、ご馳走になる。
7日(金)お連れ合いのチヨミさんが活躍する愛媛県立武道館のすばらしい外観を眺めた後、三津浜港まで送ってもらう。フェリーで10時半頃、周防大島・伊保田港着。
7月に開館したばかりの星野哲郎記念館をゆっくり見学。この地の出身で演歌の詩を書き続けた人。都はるみや北島三郎が来て開館行事があったという。この方の物語を知り、僕も妻に改めて深く感謝(心のうちで)。
星野哲郎記念館
隣接する周防大島文化交流センターで宮本常一さんについてにわか勉強。父と同じ年の生まれで生誕100年の様々な行事があったばかり。柳田国男を師としながら、学問のための学問ではなく、常に人々のたつきを考え、生活改善のリーダーでもあった。特に離島の人々の生活苦を改善する運動の事務局長を務め、離島振興法成立に尽力したという記述が心に残った。佐渡の村では柿づくりを推奨し、今では名産となっているとか。
自分を生み育ててくれた島の人々やその祖先の生活が生み出した民俗への愛着が、この国の辺境に生きる庶民を深く愛する学風を打ち立てたのであろう。僕はこの人のことを何も知らない。知りたいと思う。僕と同じように知らない方はとりあえず、先の本やセンターのHPをご覧になってください。
周防大島文化交流センター
昼食後は本を読んだばかりの妻が宮本さんの幼少年期を育てたふるさとの風景を探索しながら案内する。白木山。374Mの頂上から村々を俯瞰。宮本さんを生んだ長崎は真下に見える。瀬戸内の風光がすばらしい。
山を降りて橋を渡って沖家室島(おきかむろじま)に行く。沖家室大橋が完成するまでは離島の離島。洲崎という漁港の道端で3人のおんちゃんが寛いでいたので早速お邪魔する。漁船が帰ってくるのを待っているのだが一向に帰らない。漁がないのだろうと言う。宮本さんの名は聞いたことがあるが何も知らないと声をそろえる。
日焼けして男ぶりの良い川村義次さんが、自転車で自宅に戻ってこの村の一軒一軒の名前の出ている地図を持ってきてくれる。島巡りの参考にしなさいと言う。90になるといわれるがとてもそんなには見えない。台湾で生まれ30年をすごした。引き揚げ後30年を会社勤め、定年で親の故郷のこの島に帰り、漁師になったと言う。奥さんを失い、一人住まい。都市に住むお子さん方が時々、孫をつれて遊びに来る。
石積みの素敵な港の眺めを前にして、いつまでも聞いていたい人生の話である。過酷な過疎がここにもあるが一人でも矍鑠(かくしゃく)として、穏やかな日々を送られているように見える。一緒に写真をとらせてもらってお別れを言う。
長崎の八幡宮に参詣し、宮本さんの生家付近をさまよった後、大島大橋を渡って国民宿舎うずしお荘へ。
6日(木)前日、父に高知県教職員互助会より、一泊旅行の案内が届く。源平古戦場を訪ねて下関まで往復すると言う。これがヒントになって、急遽、山口県を旅することにする。47都道府県のうちどういうわけか、ただの一度も行った事がない唯一つの県である。
妻に相談すると、ちょうど、周防大島出身の宮本常一さんの『民俗学の旅』(講談社学術文庫)を読んでいるところで即座に賛成。とりあえず今夜は松山のマサシ兄さんのところに泊めてもらうこととする。7時過ぎについて、ご馳走になる。
7日(金)お連れ合いのチヨミさんが活躍する愛媛県立武道館のすばらしい外観を眺めた後、三津浜港まで送ってもらう。フェリーで10時半頃、周防大島・伊保田港着。
7月に開館したばかりの星野哲郎記念館をゆっくり見学。この地の出身で演歌の詩を書き続けた人。都はるみや北島三郎が来て開館行事があったという。この方の物語を知り、僕も妻に改めて深く感謝(心のうちで)。
星野哲郎記念館
隣接する周防大島文化交流センターで宮本常一さんについてにわか勉強。父と同じ年の生まれで生誕100年の様々な行事があったばかり。柳田国男を師としながら、学問のための学問ではなく、常に人々のたつきを考え、生活改善のリーダーでもあった。特に離島の人々の生活苦を改善する運動の事務局長を務め、離島振興法成立に尽力したという記述が心に残った。佐渡の村では柿づくりを推奨し、今では名産となっているとか。
自分を生み育ててくれた島の人々やその祖先の生活が生み出した民俗への愛着が、この国の辺境に生きる庶民を深く愛する学風を打ち立てたのであろう。僕はこの人のことを何も知らない。知りたいと思う。僕と同じように知らない方はとりあえず、先の本やセンターのHPをご覧になってください。
周防大島文化交流センター
昼食後は本を読んだばかりの妻が宮本さんの幼少年期を育てたふるさとの風景を探索しながら案内する。白木山。374Mの頂上から村々を俯瞰。宮本さんを生んだ長崎は真下に見える。瀬戸内の風光がすばらしい。
山を降りて橋を渡って沖家室島(おきかむろじま)に行く。沖家室大橋が完成するまでは離島の離島。洲崎という漁港の道端で3人のおんちゃんが寛いでいたので早速お邪魔する。漁船が帰ってくるのを待っているのだが一向に帰らない。漁がないのだろうと言う。宮本さんの名は聞いたことがあるが何も知らないと声をそろえる。
日焼けして男ぶりの良い川村義次さんが、自転車で自宅に戻ってこの村の一軒一軒の名前の出ている地図を持ってきてくれる。島巡りの参考にしなさいと言う。90になるといわれるがとてもそんなには見えない。台湾で生まれ30年をすごした。引き揚げ後30年を会社勤め、定年で親の故郷のこの島に帰り、漁師になったと言う。奥さんを失い、一人住まい。都市に住むお子さん方が時々、孫をつれて遊びに来る。
石積みの素敵な港の眺めを前にして、いつまでも聞いていたい人生の話である。過酷な過疎がここにもあるが一人でも矍鑠(かくしゃく)として、穏やかな日々を送られているように見える。一緒に写真をとらせてもらってお別れを言う。
長崎の八幡宮に参詣し、宮本さんの生家付近をさまよった後、大島大橋を渡って国民宿舎うずしお荘へ。