5日の夜はT君が来て泊まっていってくれました。一日ボランティアとして丸木美術館で働き、翌日も原爆忌の手伝いをするのです。今年3月、新宿山吹高校を卒業した僕の最後の生徒の一人です。
昨年の7月、夏休みを前にした授業で丸木美術館のことを紹介したとき、ボランチア募集の案内も渡したのです。これがきっかけになってこの一年間、Tくんは東京から2時間かけて東松山の美術館に通うようになったのです。ボランティア仲間や若いスタッフと気が合うのでしょう。
こうしてゆっくり話をしあうのははじめてです。某国立高校を中退したのはクラスメートによる、いじめ事件と関わっています。退学するとき、どうしてと聞いてくれる教師はいなかったそうです。各地を自転車でまわったり、沖縄を旅したり。 かつて、シナリオライターになりたいと聞いていましたがその夢は今も捨てていないようです。学校を卒業後、派遣社員として北海道のホテルで働いて帰ってきたばかりです。当面の進路に目標が定まったようです。僕はこうして聞いているばかりで有効なアドバイスがあるわけではありませんが頑張ってほしいと思います。
6日。午後から美術館で城西川越中学生による和太鼓の演奏を聴きました。真剣な表情と力強い撥(ばち)さばき。僕はもうただただ感動して一人一人の表情をカメラに収めました。
世界の各地で魑魅魍魎が跋扈し、核をもてあそんでいます。中学生の太鼓演奏はこれらとの戦いの嚆矢(こうし)かと思いました。聞くところによると、この美術館の絵画クラブの少年が城西川越中に進み、仲間に相談して出演の運びになったとのことです。この美術館に集うひとびとの働きがこうして次の世代の活躍につながっているのです。
館内に入って原爆の図を見ました。8月6日に絵の前に立ってみると普段とは違う迫力があります。Mさんが感想を送ってくれた母子像。水を求めてたどり着いた川の中で抱いていた赤ちゃんに乳をやろうとして、はじめて 我が子の死に気づいたお母さん。希望のない母の姿です。こみあげてくる悲しみと怒りを我が胸に刻んでおきたいと思いました。
8日 Kさんがはじめて我が家を訪ねてくれました。夫であった淳さんが寄ってくれたのが83年ですが、亡くなられてもう10年以上になります。墓掃除に行って来たと秩父の酒を土産にくれました。明日から学校図書館関係者の研究大会が川越であるというのでようやく会いに来てくれる機会が訪れたのです。
Kさんは僕より一つ上の都立高校の司書教諭だった人で、今も大学で働いたり、研究会のリーダーとして忙しい日々を送っています。昔から「木苺」を読んでくれたり、木いちご舎を支えたりしてくれました。
夫の淳さんは埼玉県の高校教師で問題や在日コリアン問題に心血を注いだ人です。妻の倫子のほうが僕よりもつきあいが深いのです。僕も淳さんとよんで兄のように思っていました。医療生協の設立に尽力されたのですが癌にやられました。無宗教の葬儀を司会させてもらいました。
3時半から6時間、我が家と小澤屋で尽きぬ話を伺いました。淳さんというあったかい人を中心にしてずうっと昔からつながっている気がして嬉しい半日でした。 学校図書館で働く後輩たちに伝えたい哲学を持っているKさんのエネルギーは今もほとばしっているようです。淳さんとの思い出の詰まった家を仲間との出会いの場として活用したいと思っています。
遠いとはいえません。西武電車でつながっています。今度はその家を久しぶりに
訪ねてみたいと思います。
昨年の7月、夏休みを前にした授業で丸木美術館のことを紹介したとき、ボランチア募集の案内も渡したのです。これがきっかけになってこの一年間、Tくんは東京から2時間かけて東松山の美術館に通うようになったのです。ボランティア仲間や若いスタッフと気が合うのでしょう。
こうしてゆっくり話をしあうのははじめてです。某国立高校を中退したのはクラスメートによる、いじめ事件と関わっています。退学するとき、どうしてと聞いてくれる教師はいなかったそうです。各地を自転車でまわったり、沖縄を旅したり。 かつて、シナリオライターになりたいと聞いていましたがその夢は今も捨てていないようです。学校を卒業後、派遣社員として北海道のホテルで働いて帰ってきたばかりです。当面の進路に目標が定まったようです。僕はこうして聞いているばかりで有効なアドバイスがあるわけではありませんが頑張ってほしいと思います。
6日。午後から美術館で城西川越中学生による和太鼓の演奏を聴きました。真剣な表情と力強い撥(ばち)さばき。僕はもうただただ感動して一人一人の表情をカメラに収めました。
世界の各地で魑魅魍魎が跋扈し、核をもてあそんでいます。中学生の太鼓演奏はこれらとの戦いの嚆矢(こうし)かと思いました。聞くところによると、この美術館の絵画クラブの少年が城西川越中に進み、仲間に相談して出演の運びになったとのことです。この美術館に集うひとびとの働きがこうして次の世代の活躍につながっているのです。
館内に入って原爆の図を見ました。8月6日に絵の前に立ってみると普段とは違う迫力があります。Mさんが感想を送ってくれた母子像。水を求めてたどり着いた川の中で抱いていた赤ちゃんに乳をやろうとして、はじめて 我が子の死に気づいたお母さん。希望のない母の姿です。こみあげてくる悲しみと怒りを我が胸に刻んでおきたいと思いました。
8日 Kさんがはじめて我が家を訪ねてくれました。夫であった淳さんが寄ってくれたのが83年ですが、亡くなられてもう10年以上になります。墓掃除に行って来たと秩父の酒を土産にくれました。明日から学校図書館関係者の研究大会が川越であるというのでようやく会いに来てくれる機会が訪れたのです。
Kさんは僕より一つ上の都立高校の司書教諭だった人で、今も大学で働いたり、研究会のリーダーとして忙しい日々を送っています。昔から「木苺」を読んでくれたり、木いちご舎を支えたりしてくれました。
夫の淳さんは埼玉県の高校教師で問題や在日コリアン問題に心血を注いだ人です。妻の倫子のほうが僕よりもつきあいが深いのです。僕も淳さんとよんで兄のように思っていました。医療生協の設立に尽力されたのですが癌にやられました。無宗教の葬儀を司会させてもらいました。
3時半から6時間、我が家と小澤屋で尽きぬ話を伺いました。淳さんというあったかい人を中心にしてずうっと昔からつながっている気がして嬉しい半日でした。 学校図書館で働く後輩たちに伝えたい哲学を持っているKさんのエネルギーは今もほとばしっているようです。淳さんとの思い出の詰まった家を仲間との出会いの場として活用したいと思っています。
遠いとはいえません。西武電車でつながっています。今度はその家を久しぶりに
訪ねてみたいと思います。