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川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

喜味こいしさん逝く

2011-01-23 22:29:03 | 映画  音楽 美術など

1月23日(日)晴れ

 風があり、寒い一日。布団の中で白鵬の六場所連続優勝を喜ぶ。魁皇もよく頑張った。白鵬は今場所も稀勢の里に負けた。不世出の大横綱にも弱いところがあるんだなあ。そういうところが相撲のおもしろさかな。

喜味こいしさんの訃報があった。子どもの頃、「上方演芸会」というNHKの番組で、いとし・こいしのしゃべくりをよく聞いた。夜の娯楽はラジオで、家族の団らんがあったような気がする。ミヤコ蝶々・南都雄二、秋田Aスケ・Bスケなどとともにお二人の漫才も僕らの生活の中にとけ込んでいた。

川越の生まれだと初めて知った。お兄さんは横浜らしい。両親が旅回り芸人だったと言うことだ。二人の芸の秘密を知ったような気がした。これでもう子どもの頃から親しんだ漫才師もいなくなってしまった。楽しいひとときを過ごさせてくれた「いとし・こいし」さん、有り難う。

今日から木曜日まで例によって伊豆高原の保養所に行ってきます。「川越だより」はしばし休刊です。

しゃべくり漫才・ご意見番…喜味こいしさん死去

読売新聞 1月23日(日)17時4分配信

「いとこいさん」の愛称で親しまれ、兄の夢路いとしさんとのしゃべくり漫才で人気を集めた喜味こいし(きみ・こいし、本名・篠原勲=しのはら・いさお)さんが、23日午後1時38分、肺がんのため亡くなった。

83歳だった。告別式は27日午前11時半、大阪市阿倍野区阿倍野筋4の19の115同市立葬祭場やすらぎ天空館。喪主は長男、敏昭氏。連絡先は大阪市北区野崎町3の2の和光プロダクション。

埼玉県川越市生まれ。旅回り一座の家庭で、幼い頃から2歳上のいとしさんと舞台に。1937年、上方漫才の草分け、荒川芳丸に入門、荒川芳博・芳坊の名で子供漫才を始めた。戦争中は志願兵として陸軍に入り、爆心地に近い広島の兵舎で被爆、病院で終戦を迎えた。48年に漫才作家・秋田実の指導の下で、「夢路いとし・喜味こいし」と改名した。

大阪弁の豊かな表現を生かし、庶民の暮らしを題材にしたネタで、ラジオやテレビ、舞台で活躍。飄々(ひょうひょう)としたいとしさんに対し、だみ声で鋭い突っ込みを入れる姿が人気を集めた。2003年に兄が亡くなった後も、上方漫才界の“ご意見番”としてテレビでコメンテーターを務めていた。

関係者によると、昨年1月に肺がんを発症。抗がん剤治療を受けながら仕事を続け、同12月2日にはNHKの「上方演芸ホール」にゲストで出演。今月21日に容体が急変し、家族が見守る中、眠るように息を引き取ったという。

1969年に上方漫才大賞、76年に上方お笑い大賞を、93年には芸術選奨・文部大臣賞、紫綬褒章を受けた。2003年には菊池寛賞も受賞した。

最終更新:1月23日(日)19時42分

読売新聞

 

オールド・ブラック・ジョー

2011-01-11 17:19:39 | 映画  音楽 美術など
1月11日(火)晴れ

 午後になって久しぶりに川越公園を散歩。やっぱり気分がいい。

 高校の選択科目が「音楽」だったので歌に親しむことができたのは何よりだった。先日、フォスターの曲が好きだったと書いたがそれはこんな作品だ。

●オールド・ブラック・ジョーhttp://www.youtube.com/watch?v=rDrs2-m7Q0o

 ●歌詞つきメロディーhttp://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/03/post_4e75.html

●ケンタッキーの我が家http://www.youtube.com/watch?v=2frKxOaMCRE
 ●歌詞つきメロディーhttp://www.geocities.jp/lune_monogatari/kentucky.html
 


●故郷の人々http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/09/post_7b30.html


 「オールド・ブラック・ジョー」と「ケンタッキーの我が家」は英語で習った。今でも英語でしか歌えない数少ない歌だ。と言うより中高6年間びっしり英語の勉強をして人生で役立ったのはこれらを歌えるようになったことぐらいだ。

 フォスターではないが「ロンドンデリーの歌」も好きだった。

●ロンドンデリーの歌http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/03/londonderry_air_2799.html


 この歌のメロディーは今でも毎晩のように僕の枕元に聞こえてくる。5年前の手術の後、忠幸さんがアイルランド民謡をたくさん録音して送ってくれた。それ以後、安らかな眠りに誘ってくれる曲になった。

ダークダックス

2011-01-09 16:53:42 | 映画  音楽 美術など
 1月9日(日)晴れ

 妻の風邪が今一息です。絶好のサイクリング日和ですが家事の後のんびり陽にあたっています。

 先日、ダークダックスの高見沢さんが亡くなりました。年末の高峰秀子さんに続いて子どもの時から慣れ親しんだアーチストの訃報です。

 高校生の時はフォスターの曲も好きでしたが一番口ずさんだのは「カチューシャ」。大学に入ってからは「ともしび」「ヴォルガの舟歌」などなど。僕の中でこれらの歌とダークダックスがきちんとつながっていたかどうかはあいまいです。ダークのコンサートを聞きに行った覚えはないし…。それほどダークダックスが学生生活にしみ込んでいたといえるのでしょうか。

 ●ダークダックス「カチューシャ」http://www.youtube.com/watch?v=bxZHJF4bE_U

 高校の教員になってからは最初にHR担任をしたクラスの生徒たちが何かの折、「銀色の道」を合唱したのを覚えています。大島高校のプールわきの芝生?に座ってこのころはHRのたびにこんな歌を歌ったなあ。このクラスは三年生の時の合唱コンクールで「囚人の歌」をうたって全校優勝した記憶があります。

 60年代の終わり、学園闘争の前夜あたりまでのことです。69年に池商に移ってから僕は「フォークソング同好会」の顧問になりましたがこんなことは二度となかったように思います。

 ●ダークダックス「銀色の道」http://www.youtube.com/watch?v=rBPTU10K7lE

 ●「囚人の歌」http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/07/le_galerien_1c36.html

『太陽の子』Ⅲ  キヨシ君の手紙

2010-07-06 06:35:27 | 映画  音楽 美術など
 『太陽の子』(灰谷健次郎著 角川文庫)の書き写し、最終回です。


 キヨシ君がふうちゃんに宛てた手紙(「四十八」「四十九」から)


「……。勇気いうたらなんやということを、ろくさんのおっちゃんにおしえてもろた。勇気いうたら警察で暴れたりさかろうたりすることやない。けんかして勝つことでもない。勇気いうたらしずかなもんや。勇気いうたらやさしいもんや。勇気いうたらきびしいもんや。そんなすごい勇気を持っているのは沖縄の人間だけや。そうおもたら、おれ、沖縄の子やってほんとによかった。沖縄に生まれたことをこうかいして、他人ばっかり(他人どころかかあちゃんまで)うらんどったおれは、人間のカスやった。けど、ふうちゃん。おれはもうカスとちがうでえ。おれは沖縄の子やで。おれも『てだのふぁ』や。そうおもたら、おれ、つらかったけど、うれしかったんや。おれは今まで自分が不幸やとおもとったけど、今はそうおもわへん。幸福いうたらおおかたは不幸をふみ台にしてあるもんやとおもたら、なんやあほくさなって笑えてきた。まえに、ギッチョンチョンが山之口貘(やまのぐち・ばく)とかいう沖縄の詩人の詩をおしえてくれたことがあったやろ。おれ、ちゃんとおぼえてるぞ。
 

 土の上にゆかがある
 ゆかの上にはたたみがある
 たたみの上にあるのが座ぷとんで
 その上にあるのが楽という
 楽の上にはなんにもないのであろうか
 どうぞおしきなさいとすすめられて
 楽にすわったさびしさよ
 土の世界をはるかにみおろしているように
 住みなれぬ世界がさびしいよ

 『座ぶとん』という題やったやろ。はじめてきいたとき、なにをねごとみたいなことぬかしとんやとおもたけど、今やったら、ちょっとくらいわかるような気がする。山之口貘というおっさんは、いっぺんも金持ちになったことがないねんやろ。てだのふぁ・おきなわ亭にくる連中といっしょや。ひとの不幸をふみ台にして幸福になったってしょうがないやないか。そんなもん幸福といわへん。けど、おれは今までそのことがわからへんかったんやなあ。てだのふぁ・おきなわ亭にきて、おれは少しずつそのことがわかってきたんや。ふうちゃん、おれ、ほんまにうれしいぞ……」


「人間いうたら自分ひとりのことしか考えてえへんときは不幸なもんや。そのことがこんど、ようわかった。おれ、ショウヘイになぐられているとき、ずっとかあちゃんのことを考えとったんや。かあちゃんが受けてきた苦しみを、おれは今、少しやけど味わっているんやとおもたら、おれ、ふしぎにしあわせな気分やった。ひとになぐられて、しあわせなことがあるはずがないのに、そのとき、おれ、しあわせやった」


「人間いうたらどんなときでもひとりぼっちやとおもとったけど、そやなかった。たしかに人間はひとりぼっちやけど、『肝苦(ちむぐ)りさ』の心さえ失わへんかったら、ひとりぼっちの人間でもたくさんの人たちと暖こうに生きていけるということがわかったんや。てだのふぁ・おきなわ亭にきて、そのことがようわかったんや。おれは今までなにをしとったんやろ。それを思うとはずかしい。おれはかあちゃんにすまんことをした。死んだねえちゃんにもすまんことした。土下座(どげざ)してあやまりたいー。ふうちゃん。かあちゃんのことを話すからきいてくれるか。ふうちゃんがもう少し大きくなるまで、この話はせんとことおもとったんやけど、きのう、ろくさんのおっちゃんの告白をきいているふうちゃんの眼を見てるうちに、ふうちゃんを子どもあつかいにしたらあかんとおもた。ふうちゃんの眼はきれいやった。きれいだけやない。ふかい海みたいなすごい眼やった。あんな眼ができるおまえがうらやましい。あんなすごい眼ができるふうちゃんにだったら、おれのかあちゃんのことを話してもだいじょうぶや。そうおもた。ふうちゃん、おれのかあちゃんはな。アメリカの兵隊に乱暴されて、そいつの赤ん坊を生んでしもたんや。おれのとうちゃんにすまんというて生んだ赤ん坊やったけど、生まれるとすぐ死んでしもうたそうやから、かあちゃんの決心はなんにもならへんかった。ふうちゃん、おれの生まれた家は、今、アメリカの基地の飛行場の下やて。とうちゃんの人生もかあちゃんの人生も基地のためにめちゃめちゃにされてしもた。アメリカの基地は日本を守るためにあるのやそうやから、おれの家の不幸をふみ台にして日本人は幸福に暮らしとるわけや。ええ気なもんや。そんな幸福はどこかまちごうとる。そうおもわへんか、ふうちゃん。沖縄の人間はもっと日本人に文句をいうたらええーだれでもそう思うところやけど、じっさいはふうちゃんのおとうさんや、ろくさんのおっちゃんみたいに、なにひとつ文句をいわん人が、大部分の沖縄の人間やろ。-けど、ふうちゃん。ふうちゃんのおとうさんやろくさんのおっちゃんの持っているやさしさは、いつかきっと日本人のお手本になるとおもうのや。おれが、てだのふぁ・おきなわ亭にきてだんだんまともになってきたように、日本は沖縄の心にふれて、だんだんまともになっていくのとちがうやろか。そやなかったら日本は死ぬだけや。ふうちゃん、おれ、死んだねえちゃんの死んだ理由を、あれこれとせんさくすることはやめにした。ねえちゃんのことをきいたら、だれもが口ごもりよった。それだけでもう十分や。そのことがねえちゃんの死んだ理由や。そうおもう。ろくさんのおっちゃんに教えてもろた勇気を大切にせなあかん。おれ、ねえちゃんの分まで生きたる」



 50人の生徒たちのただなかで『太陽の子』を声に出して読み続けた日々の喜びと感動を忘れることはありません。

 灰谷さんが彷徨の果てに獲得した言葉を二人の子どもの言葉として私たちにわかりやすく届けてくれたのです。

 この生徒たちが卒業していくときのアルバムに僕の口から「キヨシ少年の言葉」が発せられるコーナーがあります。

 「たしかに人間はひとりぼっちやけど、『肝苦(ちむぐ)りさ』の心さえ失わへんかったら、ひとりぼっちの人間でもたくさんの人たちと暖こうに生きていけるということがわかったんや。」

 あれから30年の月日が流れて今度はふうちゃんとキヨシ君の手紙を書きうつしました。
書きうつしながら声を詰まらせて泣いていました。どの言葉にも真実があり、真実にたどり着いた人間の喜びと誇りがあります。

 ぎっしりと詰まった文字で読みにくいかもしれませんが、声に出して読んでみてください。

 『太陽の子』http://www.amazon.co.jp/%E5%A4%AA%E9%99%BD%E3%81%AE%E5%AD%90-%E8%A7%92%E5%B7%9D%E6%96%87%E5%BA%AB-%E7%81%B0%E8%B0%B7-%E5%81%A5%E6%AC%A1%E9%83%8E/dp/4043520107

映画『太陽の子』http://item.rakuten.co.jp/neowing-r/ade-519/ 

 


『太陽の子』Ⅱ ふうちゃんの手紙

2010-07-05 05:34:05 | 映画  音楽 美術など
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『太陽の子』(灰谷健次郎著 角川文庫)の書きうつしを続けます。(「四十五」から)

 6年生のふうちゃんが担任の梶山先生に書いた手紙です。




「……。キヨシ君が死ぬかも知れないと思ったとき、わたしは体のまん中が震えてきました。……。あんな苦しいめに二度とあいたくはありません。あんなことが二度あったら、わたしは気が狂うかもしれないと思ってそれから、わたしはぎょっとした。おとうさんや、ろくさんのおじさん、キヨシ君のことを想ったのです。キヨシ君はおねえさんをなくしています。ろくさんのおじさんは、ミチコさんという子どもさんをなくしています。おとうさんは - おとうさんは戦争でわたしが殺されるのではないかと、毎日思いながら暮らしているわけです。わたしはほんとに、あっと思いました。先生、人間っていったいなんですか。おとうさんもろくさんのおじさんもキヨシ君もとてもやさしい人です。気の遠くなるほど恐いめにあってきている人が、とてもやさしいだなんて。わたしもきのう体験したばかりだから、はっきりいえますけど、あんなに恐いめにあったら、もう外のことはどうでもいい、人のことなんかどうでもいい、なんでもいいから助けてくれえといいたくなります。人をうらみたくもなります。キヨシ君がはじめのうち、ぐれていたのも今ならよくわかります。そんな人がみんなやさしくて、他人のことを人一倍考える人だなんて。先生、キヨシ君はね。一回日の手術のとき、まだ元気なときだったんだけど、わたしにどんなことをいったと思いますか。ショウヘイのこと、あんまり悪うおもたんなや、あいつらもおれといっしょで、いろいろあるやつやさかいな - そういうんです。ショウヘイというのはあのチンビラのたいしょうです。あんなにひどいめにあわされているのにキヨシ君は、チンピラをかばっているのです。先生、わたしは今まで、おとうさんやおかあさんをふくめて、わたしのまわりにいる人たちをやさしい人だとは思っていましたが、えらい人だとは思っていませんでした。えらい人というのは、えらい政治家や、すぐれた仕事をした芸術家や学者や、名の残るような実業家というような人たちを思っていました。今わたしは人間がえらいということはそんなことではないと思いはじめています。とても大きな問題なのでうまくいえませんけど、どんなにつらい時でも、どんなに絶望的なときでも、本気で人を愛することのできる人がえらい人なのだと思うのです。キヨシ君やキヨシ君のおかあさんを見ているとそのことがすごくよくわかるのです。キヨシ君は、おかあさんにさからっているけれど、それはおかあさんをほんとうに愛したいと思うからそうするのです。キヨシ君はきびしい人です。人を愛するということはきびしいことなんだなあ、とつくづく思います。学校でよく、人の命は地球より重いとか、人一人の命はなにものにもかえがたいとかお説教をする先生がいますが、そんなことを子どもの前で口先だけで話しているような先生は、ほんとうにそのことばの意味を知らないんだと思います。人の命がほんとうに重いということを知っているのは、キヨシ君のような生き方をした人にだけにわかることなのでしょう。キヨシ君が死ぬかもしれないと思っただけで、わたしは苦しくて苦しくて、麻酔薬でもなんでもうって気絶させてほしいと思ったくらいです。そんなに苦しいことをもっともっと苦しいことを、キヨシ君やキヨシ君のおかあさん、ろくさんのおじさん、それからわたしのおとうさんたちは、ごまかさず、じっと見つづけてきたのです。たくさんの沖縄の人びとはそうして生きてきたのです。えらい人たちというのは、こんな人たちのことをいうのでしょう先生。いたずらをするカラスと仲良く暮らした話とか、台風のとき草花を部屋に入れてあげた話とかをおとうさんからきいたとき、沖縄の人たちはやさしいなと思っただけでしたが、今はもっと深い意味があったことを知りました。沖縄の人がすべての命を大切にするのは、これまでにたくさんのかなしい別れをしてきたからなのですね。ずっとむかしは人頭税というとてもひどい税のために、マラリアという伝染病のために、そして沖縄の戦争のために、たくさんの命が消えていったり離ればなれになったりしたのでしょ。沖縄の人にはそんなつらいかなしい思いがあるのですね。つらいかなしいめにあってきた人ほど、そうしてはならないという思いも人一倍つよいはずですね先生。そんなふうに考えると、沖縄の人がなぜやさしいのか、てだのふあ・おきなわ亭にくる人びとがなぜやさしいのか、少しわたしにわかるような気がしたのです。先生、わたしは二日の間にほんとうにいろいろなことを考えました。この二日に二年分生きたような気がしています。キヨシ君はもう絶対に死にません。それは、先生、もううわっと叫びたくなるほどすばらしいことです。でも、このすばらしさは、わたしや、キヨシ君のためにほんとうに肝苦(ちむぐ)りさになった人たちだけが味わえるすばらしさですね。わたしはほんとうに生きることの意味をこの二日間にいっぱい考えてしまいました。先生、あすから元気に学校にいきます」

 




『太陽の子』  ろくさんのことば

2010-07-04 20:52:30 | 映画  音楽 美術など
 昨日、朝のブログにヤマモモを採って食べた喜びを書いたら夜になって今度は大粒の立派なヤマモモが届きました。お礼の電話をする前にしっかり味わいました。美味この上なし。

 神奈川県に住む小学校の同級生のIさんがお友達からもらったものをおすそ分けしてくれたのです。

 近頃はあちこちの公園や団地、街路樹などにヤマモモはたくさん植えられていますが、雌雄異株の木であるせいか、実がなっているのにはなかなか出会いません。一昨日は僕としては初めての体験だったのです。

 それにしてもこんな立派な実がなる木があるものですね。品種改良を進めた成果かと思われます。ヤマモモはすぐに饐(す)えてしまいます。生食は今日限りでしょう。

 まだまだたくさん残っています。妻や娘の友人たちにもおすそ分けすることにします。


 午後、図書館の映画会で『太陽の子』(1980年)を見ました。


  映画・『太陽の子』http://movie.walkerplus.com/mv18963/


 灰谷健次郎の同名の小説の映画化です。1978年の一年生の授業でこの大作を読みあったことは前に書きました。

 「俺もてだのふぁになりたいな」http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/828475df05fd1d0b8a79898234c8638c

 浦山桐郎による映画化はそれから間もなくのことですから見ているはずです。しかし、思い起こすことはできません。肝心のふうちゃんやキヨシくんを演ずる役者がぎこちなく学芸会の芝居のような感じがするので印象に残らなかったのかもしれません。

 140分という長さのせいもありますがその後の授業で見せたこともありません。小説のほうがはるかにいい、というのが僕の判断だったのでしょう。

 この映画で一番印象に残ったのはおきなわ亭の常連ろくさんがキヨシくんの病院を見舞ったとき「公平な」取り調べをするといってキヨシくんを犯罪者扱いする警察官に向かって毅然として言葉を発する場面です。

 キヨシ少年が昔の「悪い」仲間と会い、半殺しの目にあっても無抵抗の姿勢を貫いていたのですが「根性ないな、オキナワは」という差別的な言葉を投げつけられたことから、猛然と反撃に転じ相手も怪我をしたのです。

 以下、小説の同じ場面から抜粋します。


       四十七

 「知念君が人に乱暴したのなら徹底的に調べてもらいたい。しかし、なぜ乱暴したのかということも徹底的に調べてもらいたい。」

 「知念君が最初に警察のやっかいになったのは八歳のときだ」

 「小さい子が親から離れて沖縄から大阪に連れてこられた。なにに頼ればいいのかね。預けられた家を逃げ出して野宿のようなことをして夜を明かすこともあったようだね。猫を飼っている家を覚えていて、猫の食べ残した煮干をかじって飢えをしのいだ。いいかい。この食べ物の豊富な時代にだよ。その家の人間が面白半分に、猫の食べ残しをとりにきたたった八歳の子に、頭から水をぶっかけた。その夜、八歳の子は石を投げてその家の窓ガラスをわったんだ」

 「おれが親ならその子をほめてやるね」

 「知念君が最初てだのふぁ・おきなわ亭にきたとき、たしかに荒れていた。けれど、わしたち沖縄の人間は、そんな知念君がかわいかった。時間をさいて、みんなで手分けして知念君のことを、あんたがたが知念君を調べるのとは反対のやり方で、知っていったんだ。沖縄の人間はそうしてひとを愛してきた」

 
 <これから後は全文紹介です>


 (刑事)「せっかく無抵抗だった知念が、オキナワは根性がないといわれただけで凶暴になったのは、過剰な郷土意識を持っていたからではないのかね」

 その言葉が終るか終らないうちに、ベッドのキヨシ少年が暴れた。
「くそ!」
振り向いた男にキヨシ少年は、ペッと唾をかけた。

「このガキ。なめやがって」
男たちはキヨシ少年のほうに殺到した。

「やめてください!この子は病人です」
悲鳴のようにお母さんは叫んだ。

 ろくさんとふうちゃんがキヨシ少年をかばって立った。

「あんたたちは、この子のかなしみがわからんのか。沖縄のかなしみがわからんのか」
ろくさんははじめて大声を出した。

「法の前に沖縄もくそもない。みんな平等だ!」

「そうか、平等か。ほんとうに平等かね」
その時初めてろくさんの眼がぎらっと光った。怒りで手が震えていた。


   四十八
「この手を見なさい。よく見なさい」
 ろくさんは上着をとり、寒いのにシャツまではいだ。浅黒い皮膚が出て、その胴には手が一本しかついていなかった。

 ろくさんは見えない左手を突きだした。ほとんど根元からその手はなかった。十分な手当てが受けられなかったのか傷口がいびつだった。

「手榴弾で吹っ飛ばされた」
 ろくさんはいくらかたじろいでいる男たちの前でいった。

「敵の手榴弾ではない。わしはただの大工で兵隊ではなかった。沖縄を守りに来てくれていた兵隊がわしたちに死ねといった。名誉のため死ねといって手榴弾をくれた。国のためテンノウヘイカのため死ねと彼らはいった。わたしたちはみんなかたまってその真ん中で手榴弾の信管を抜いた」

 ふうちゃんは大きく眼を見開いた。いつかギッチョンチョンの家で見た集団自爆の写真の中に、ろくさんがいたということではないか。

「そして、みんな死んだんだ」
 
 ふうちゃんが吐き気をもようしたあのむごい光景が、今またそこにあった。
 ふうちゃんはしっかり眼を見開いていた。悲鳴をあげたり吐いたりするのではなく、いましっかりとその光景を見なくてはならないと、ふうちゃんは思った。

 ろくさんがキヨシ少年の苦しみを分けて担おうとしたように、今ここでろくさんの話に耳をふさいだり、眼をそらしては沖縄の子ではない、ギッチョンチョンのいう『てだのふぁ』(太陽の子)ではないとふうちゃんはけんめいに耐えた。

「ええか、この手をよく見なさい。見えないこの手をよく見なさい。この手でわしは生まれたばかりの吾が子を殺した。赤ん坊の泣き声が敵にもれたら全滅だ。おまえの子どもを始末しなさい、それがみんなのためだ、国のためだーわしたちを守りに来た兵隊がいったんだ。沖縄の子どもたちを守りに来た兵隊がいったんだ。みんな死んで、その兵隊が生き残った。…この手をよく見なさい。この手はもうないのに、この手はいつまでもいつまでもわしを打つ」

 ふうちゃんの眼に涙があふれた。しかし、ぎゅっと唇をかんで、ふうちゃんは耐えた。

「あんたはわしとあんまり年も変わらん。きっとやさしい子どもがいてるだろう。わしはこうして見えない手に打たれてひとりぼっちで生きている。同じ日本人だ。これで平等かね」
「………」

「あんたは子どもを殺したわしに手錠をかけることができるかね。悪いことをしないで平和に暮らしているひとたちのしあわせをまもらなくてはならないとあんたはいったね。わたしたちはなにも悪いことはしないで暮らしていたんだがね。あんたが悪い人だとは思わない。しかし、あんたを見ていると、日本の国を守るといいながら、罪もない人たちを殺していかねばならなかった日本の兵隊を思い出す」

 さすがに男たちはことばをなくしていた。

「法の前に沖縄もくそもないとあんたはいった。そのことを心から望んでいるのが沖縄の人間だと知ったら、あんたがたはなんというだろう。失業率は全国最高、高校就学率は全国最低だけれど、あんたがたはそのためになにかやったかね。ま、そんなことはいうまい。しかし、知念キヨシというひとりの少年を見るだけで、かれの人生の中に不公平な沖縄がいっぱいつまっているということを知ってもらいたい。あんたがたは知念キヨシという少年の人生を見る気持ちはないかね。あんたの人生がかけがえのないように、この子の人生もかけがえがないんだよ。ひとを愛するということは、知らない人生を知るということでもあるんだよ。そう思わないかね」

 以下(略)『太陽の子』(角川文庫)より

 この小説が理論社から世に出たのは1978年,映画化は80年です。30年たったことになります。

 日本政府の手で沖縄の復興・振興のために確かに大金が投入されましたが、「不公平な沖縄」が解決されていないことは基地問題を見るだけで明らかです。

 前の宰相が更迭されてから沖縄の基地問題はなかったかの如く参議院の選挙が進行中です。虚しいとしか言いようがありません。

「これで平等かね」ろくさんの毅然とした問いかけは今この瞬間にも私たちに突きつけられています。私たちの人間的荒廃はどうしようもないところに来ているというほかはありません。

 ろくさんを演じた松田豊昌(ほうしょう)という人は俳優ではなく沖縄戦を体験した印刷屋さんだったそうです。「体験を伝えるのも生き残った人間の役目」と応じて映画に出ることになったといいます。

 灰谷健次郎と兄http://www.asahi.com/travel/traveler/TKY200802160063.html

映画「クロッシング」 泣くことしかできない悔しさ

2010-06-15 05:36:28 | 映画  音楽 美術など
 6月14日(月)雨 梅雨入り

 昼前に癌研有明病院の主治医の定期診断がありました。「血液検査にもX線検査にも変化は見られず、右肺に転移した癌は小さくなったまま。これまで通り生活を楽しんでください」。この夏も病気を忘れて?元気に過ごせそうです。

 午後、「銀座シネパトス」で映画「クロッシング」を見る。7月に川越で上映されるまで待つつもりだったがこの映画を配給したアジア映画社の朴炳陽社長の熱い思いに打たれて先行鑑賞となった。(古くからの知己に僕も少しは協力しなければ…、そのためにはともかく見ておきたい…)。

 目を背けたくなる場面の連続にまいってしまうのではないか?そんなおそれは見事に吹き飛ばされた。
 
 車 仁杓(チャ インピョ)が演じるヨンスという主人公とそのこどもジュニを中心に展開する迫真の物語に釘付けになった2時間だった。目を背けたくなる現実は確かに描かれているが引き裂かれた家族の互いを思いあう力の方が僕の心に食い込んでくる。

 この映画のビラに掲載されている<ストーリー>

 果たされなかった父と息子の約束

 北朝鮮の炭鉱町に住む元サッカー選手のヨンスは、妻ヨンハと11歳の息子ジュニとともに、貧しいながらも幸せな日々を送っていた。しかし、ヨンハが肺結核に倒れ、ヨンスは治療薬を手に入れるため中国へ向かう。決死の覚悟で国境を越えたヨンスは、必死に働いて薬を手に入れようとするが、北朝鮮では夫の帰りを待ちながらヨンスが静かに息を引き取る。孤児となってしまったジュニは、父との再会を信じて国境を目指すが……。


 映画を見ていない方々に結末を知らせるわけにはいかないが父と子の約束はどれも永遠に果たされなかった。
 子は父に「母を守る」と、父は子に「必ず帰る(薬とサッカーボールをもって)」と約束して別れたのだ。

 ジュニの遺体にほほをすり寄せて慟哭する父・ヨンス。僕も声を押し殺しながら泣いた。
今も書きながらこみ上げて来る思いをどうすることも出来ない。

 この映画のビラにペ・ドゥナという女優の言葉が載っている。

「知っていながら知らんぷり、目をふさいで、ごめんなさい。一緒に泣いてあげるしかなくて、本当に本当にごめんなさい。」

 目をふさいでいるつもりはない。でも僕もこの父の思い、この子の思いを想って泣くことしかできない。それが悔しくてならない。

 しかし、不思議なことにぼくに元気がわいてきた。一人でも多くの友人たちにこの映画のことを知らせようとおもう。みんなもまた勇気と元気をもらえるかもしれない。

 この映画は物語には違いないが想像を絶する独裁体制のもとで,今この瞬間も、無数のヨンスとジュニ、そしてヨンハが互いを思い合いながら苦闘を続けているのだ。

 朴炳陽さん。思っていたよりなおイイ映画でした。頑張って輸入した甲斐がありましたね。ありがとうございます。自分に出来ることはやらせてもらいます。


 ○川越だより「車 仁杓(チャ インピョ)さん」http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/750bec4279cc40a6bed83f46788aee6b 

 ○川越だより「クロッシング」 http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/2e5081679026b34f49b5e6720a646a20

○銀座シネパトスのほかワーナー・マイカル・シネマズ板橋(東武練馬 19日から)・吉祥寺バウスシアター(26日から)・ワーナーマイカル市川妙典(19日から)などでも上映が始まるようです。連絡をいただければビラを必要なだけ送ります。
  
 keisukelap@yahoo.co.jp

 ○立川反戦ビラ弾圧事件元被告のブログ「クロッシング」http://hansenbira.blog.so-net.ne.jp/2010-05-23-2

映画 「裸の島」

2010-06-06 06:35:48 | 映画  音楽 美術など
 夕べ、佐賀の山下さん(池袋商業高校時代の同僚)からメールをもらいました。その中の一節です。

 偶然ってあるものですかね。つい先日、私も「にあんちゃん」の故郷の大鶴炭坑
の跡地を訪ねて来たとこです。特になんてこともなかったのですが、前に弘子と
行った所に急に行きたくなっただけなのですが。今は、炭住の跡もすっかり更地
になっていて、「にあんちゃんの里」の石碑だけが、ぽつんと建っていました。
わたしの家から40分ぐらいで行けます。是非ご一緒したいものです


 お連れ合いの弘子さんが亡くなられて3年になります。寂しい日々が続いたのだと思います。地元にとって大切な人だから暇にはさせてもらえなかったに違いありませんが、そうだからといって紛れるとは思われません。

 私たちが訪ねたとき弘子さんが夜、いろは島の宿に来てくれました。カツヨシさんと同じ上州のうまれですがすっかり佐賀の人になって貫禄が付いていました。このときにはまだ「にあんちゃんの里」の碑は出来ておらず、確かな場所を探し出せなかったのかもしれません。

 また、カツヨシさんを誘ってお邪魔させてもらいたいものです。そんな日があることを楽しみに僕も日々を生きます。

 今日は東京に出て自転車行をします。



 6月5日(土)晴れ

 夕方、川越公園を散歩。若者たちが三人で桑の実を採って食べていた。珍しい風景だ。「おいしいですよ」と言われたので僕も久しぶりに手を伸ばしてみた。結構甘い。

 土曜日とあって芝生の広場には家族連れが多い。小さいこども二人と若い夫婦がサッカーボールに興じている。大きい方のこどもはお姉さん。世の中は確かに変わった。

 「にあんちゃん」と一緒に鶴ヶ島中央図書館で借りてきた映画「裸の島」を見る。

 1960年に新藤兼人監督が瀬戸内海の三原市沖の宿祢島を舞台につくった。登場するのは音羽信子と殿山泰司、それに二人の男の子役。全編を通じて台詞というものがほとんどない。

  裸の島http://plaza.rakuten.co.jp/rikakutaro/diary/200807050000/

 水のない島でサツマイモや麦を作って暮らす。夏の日々、朝から晩まで他の島から水を運んできては急峻な崖道をのぼってサツマイモの苗に水をやる。

 音羽信子と殿山泰司がそれぞれに天秤棒(高知では<おく>)の両端に水桶をぶら下げて崖道を登っていく風景が圧巻である。特に音羽信子がおくをしならせて上手に均衡をとりながら水を運ぶ演技は素人離れをしており、瀬戸内の美しい風景と相まって見るものを飽きさせない。こんなシーンが延々と続く。

 「詩情豊かな美しい映画」。しかし、新藤さんはどうしてこんな映画を作ったのか。僕には全く理解できなかった。

 瀬戸内の島の生活がどんなに苦しかったとしてもこんな無理な生活をした家族が本当に居たとは思えない。舞台設定があまりにも現実離れしている。

 この映画がモスクワ映画祭でグランプリを獲得し、「日本映画の新しい可能性を示した」として世界中で上映されたという。そのせいか、ぼくも映画の名前はよく覚えていて今回見てみようということになった。

 何があたらしい可能性なのか?いくら考えてもよくわからない。それが率直な感想である。

 

映画「にあんちゃん」

2010-06-05 11:52:49 | 映画  音楽 美術など
 6月3日(木)晴れ

 朝のうちに映画「にあんちゃん」を見た。

 北林谷江さんの逝去を聞いてからの宿題だったが鶴ヶ島中央図書館にVTRがあり、借り出すことができた。

 1959年の作品だから高校生の時に見たに違いないが、教員になってからも一度は見たのではないか。映画の場面場面を思い出しながら見ることが出来たのだ。

 北林さんは冒頭の「哭(な)き女」として登場するばかりでなく、安本一家と関わりの深い人物としてたびたび登場してくる。

 僕は「ごうつくババア」という言葉を思い起こした。

 パソコンで調べてみるとこうあった。

 
「この、ごうつくババぁ」の「ごうつく」は、「業突く」です。
「業突張り」なお婆さんということで・・・。

「業突張り」とは、「業をさらす」ことで、強情な人や貪欲な人を罵っていう言葉です。
本来は、あまり良い意味では使わない言葉ですが、使い方や使う人によっては、“愛情”ある言葉になるかもしれませんね。

 出典http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1232120177

 朝鮮戦争が休戦になった頃の炭坑のムラは不況のどん底、エネルギー革命(石炭から石油へ)が拍車をかける。そんな時代を生き抜く庶民の姿の一つだ。
 リアリズムの極限を表現しているが、“愛情”がないとはいえない。

 北林さんという人はすごいと改めて思った。40くらいの年頃でこんな在日コリアン一世の姿を見事に演じているのだ。

 安本さん一家が居た大鶴炭坑はこの映画を作る頃にはすでに閉山しており、ロケは対岸の炭坑で行われたらしいが、今となっては貴重な炭坑の風景が記録されている映画でもある。
 
 僕は1980年頃に筑豊を訪ねたことがあるが閉山して久しく炭住やホッパー跡などがわずかに往時をしのばせてくれるだけだった。それでもボタ山はあちこちにあり、その一つ二つに登ってみた。

 ほんの半世紀前の日本の社会に確かにあった炭坑とそこに生きる人々の生活さえ、歴史の彼方に消し去った「現代日本」。その報復は人間の劣化という形で確実に人々をむしばんでいる。

 映画「にあんちゃん」は歴史の彼方から生きるとはどういうことかを私たちに問いかけてくれる貴重な作品である。

 「日記」を書き残した末子さんはもちろんのことだがそれをもとにして映画を作ってくれた人たちにも感謝したい。

「にあんちゃん」の著者・安本末子さんが通っていた入野小学校のHPに気づいた。「にあんちゃん」を今のこどもたちに伝えようとするこの学校の先生の姿が尊い。

 唐津市立入野小学校「にあんちゃん」http://www2.saga-ed.jp/school/irino-es/index.html

 01年8月にカツヨシさんと佐賀に住む旧同僚・山下さん夫妻を訪ねたとき、いろは島というところで泊まった。今地図で見ると入野というところは行けない距離ではなかった。意識はしていたはずだがなぜか寄れなかった。

 山下さんを思い出したので午後になって娘さんが働いている川越の学校に行ってみた。この5月の連休に帰ってきたばかりだという。

 お母さんが亡くなって3年が経つ。お父さんは故郷の町の世話役で手帳のカレンダーは真っ黒だという。そうだろうなあ。安心するやら、うらやましいやら。

 また何時か訪ねることが出来たら今度は「にあんちゃんの里」にも寄ってみよう。

  にあんちゃんの里http://blog.goo.ne.jp/moritobio33/e/ae18571f21c07d4efe0dbf90340ee7ad

川越だより「北林谷江さん にあんちゃん」http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/2ef4d30b3f5852e88628711e0acd8065

北林谷栄さん 『にあんちゃん』

2010-05-07 06:52:42 | 映画  音楽 美術など
 北林谷栄(たにえ)さんが亡くなられました。

 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100506-00000606-yom-ent


 北林さんといえば遠い昔から何かお世話になってきたおばあちゃんという感じです。ぼくは芝居は見ないのでもっぱら映画の世界ですが…。

 『にあんちゃん』に出ていたのを思い出します。

 ○http://www.youtube.com/watch?v=b4ONPuYwQpg

 ○http://monpa2003.hp.infoseek.co.jp/nianchan.htm

 残念ながらこれらの場面には北林さんは写っていません。映画の冒頭部分で炭坑町の朝鮮人のおばあちゃんとして出てきたのではないかと思います。

 久しぶりに古いビデオを探し出して見てみたくなりました。

 『にあんちゃん』は高校生の頃、NHKのラジオドラマで聞き、日活の映画を見、そして本を読みました。

 ぼくの想像も付かない世界で生きる人達の物語ですが同じ時代を生きるぼくにも人を思う気持ちや人生の希望を育くんでくれたのではなかったかと思われます。

 映画の出演者を見ると北林さんだけでなく本当に豪華な俳優たちが出ています。こんな人達に世話になって青春の危機の時代を生きることが出来たのかとありがたい気持ちになります。殿山泰司、芦田伸介、小沢栄一…。

 にあんちゃん・キャストhttp://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD26425/cast.html
 

 末子さん兄姉の近況にもふれたブログがありました。

 http://www.yoyokaku.com/sub7-31.htm

 北林谷栄さん、ありがとうございました。(合掌)

韓国映画『クロッシング』

2010-02-17 17:50:37 | 映画  音楽 美術など
 脱北者の救援に東奔西走している友人から映画『クロッシング』のビラが届きました。遅れに遅れていたが4月から東京でも上映が始まるようです。

 「東京新聞」によればアジア映画社が上映に尽力したようです。

 この映画社の朴炳陽(パク・ピョンヤン)社長は古い友人です。1970年代に川越のご近所さんでした。神戸に帰ってからアジア映画社をおこすなどの活躍をされましたが震災で長男の竜寧くんを亡くされました。小学生の竜寧くんが遊びに来て息子たちと戯れていた日々を思い起こします。

 「李三郎」の名で映画にも出ていましたが、僕が知り合ったころには在日コリアン芸術家協会のたち上げに尽力していました。歌手の朴保(ぱくぽー)くんを世の中に出したのも「三郎」さんです。

 あれから30年の時が流れましたが、こうして古い友人の活躍を知ることは嬉しいことです。民族差別と闘う運動の中で出会った友人たちのうちで今日、北朝鮮の人権問題にかかわって出会う人は皆無に近いからです。

 「東京新聞」の記事には二つあって小さい方の記事にはこんなことが書かれています。『新潮45』が発売されたら朴さんの文章を読んでみたいと思います。

 

 ≪記事紹介≫(2010年2月14日 「東京新聞」 朝刊)

  ①「延期は北の対日文化工作」

       配給会社代表 月刊誌に手記

 北朝鮮の実態を告発する映画「クロッシング」を昨年買い付け、全国公開につなげたアジア映画社(神戸市)の朴炳陽代表が十八日発売の月刊誌「新潮45」三月号に、「クロッシング」の公開延期は 「北朝鮮による対日文化工作と言わざるを得ない」とする手記を寄せていることが十三日明らかになった。

 この中で朴代表は、最初に映画を買い付けたシネカノンが「映画を使って極めて北朝鮮に有益な 行動を取り続けている」と、具体例を挙げて指摘。韓国の制作会社との契約を守らず、結果的に一年以上映画を「封殺」したと批判している。

 これについてシネカノン側は本紙に「担当者がおらずコメントできない」と回答した。


   ②『幻の脱北映画』やっと日本公開 棚ざらし1年、配給会社変更

北朝鮮を脱出する住民(脱北者)や北朝鮮内にある収容所の実態をリアルに描いた韓国映画「クロッシング」が四月に日本で公開される。韓国では二〇〇八年に公開され数々の賞に輝いたが、日本では上映されず「幻の映画」となっていた。関係者が正式契約し、一年以上かかって日本公開が実現した。 (外報部・五味洋治)

 映画の舞台は北朝鮮にある炭鉱の町。サッカー選手だった男性は、妻の病気の治療代を稼ぐため中国に行くが、韓国亡命に追い込まれる。その後、妻は病死。男性は韓国で懸命に金を稼ぎ、北朝鮮に残されホームレスとなった息子を救い出そうとする。

 制作に当たったキム・テギュン監督は、脱北者百五十人以上に会い、一年半かけてシナリオを練り上げた。モンゴルや中国で秘密撮影を敢行し、細部まで迫真の仕上がりとなっている。

 韓国では観客百万人を動員。韓国の映画評論家協会賞を受賞したほか、〇九年の米アカデミー賞外国語映画賞韓国代表作品にも選ばれた。厳しい監視をかいくぐって決行される脱北や、暴力が横行する北朝鮮内の収容所の実態を本格的に描いた作品。

 脱北ルートであるタイや、人権問題に関心の高い米国で自主上映されている。

 日本では、映画「フラガール」「パッチギ!」などを制作した映画制作・配給会社「シネカノン」(東京都渋谷区)が買い付け、〇九年春からの一般公開を予告したが、棚ざらしになっていた。

 シネカノンは結局、資金繰りが悪化して今年一月末に負債四十七億円を抱えて民事再生法の適用を申請し、事実上「倒産」。上映を望む人たちと配給会社のアジア映画社が正式契約し、四月十七日から東京・渋谷の「ユーロスペース」を皮切りに全国公開されることになった。

 韓国統一省によると、二〇〇九年に韓国入りした脱北者は推計で二千九百五十二人。総数は一万八千九人となり、今年中に二万人を超す見通しだ。

 公開決定にあわせて来日したキム監督は、「非常に敏感な問題であり、政治的な非難を受けないよう事実に即して制作した」と説明。「北朝鮮や脱北者問題に関心の高い日本で公開が実現し、うれしい。日本の人たちにも脱北者の苦痛、閉鎖社会に住む悲しさを感じていただけたら」と期待を寄せた。

 『クロッシング』のHPです。4月になったら見に行きます。

 http://www.crossing-movie.jp/

相原求一朗 北の十名山

2010-01-06 06:20:01 | 映画  音楽 美術など
 1月5日(火)晴れ 風やや強し

 川越市立美術館で「相原求一朗<北の十名山>」の特別公開が始まるというので早速行ってみた。僕が二番目の入場者、か。

 広くもなければ狭くもない部屋に<北の十名山>が並ぶ。ほかの絵はない。


○春の岳稜 トウムラシ山、○雪の平原 十勝幌尻岳、○春宵 斜里岳、○山頂残雪 雄阿寒岳、○水ぬるむ 雌阿寒岳、○錦繍装う 羅臼岳、○早暁 十勝岳、○山峡新緑 羊蹄山、○山麓紅染む 旭岳、○潮騒に屹つ 利尻岳

 一つ一つの絵に言い知れぬ感動がある。十枚の絵に囲まれているといつまでもいつまでも立ち去りがたい。まるで大自然のただなかにいるみたいだ。

 ほとんどの作品が1995年からの一年間で描かれたもののようで、作家の最晩年の作品だ。
 この方は徴兵によって21歳からの5年間を中国東北部やフィリピンで過ごし九死に一生を得て奇跡的に生還したという。画風に迷う時期があったが、1961年狩勝峠からの雄大な景観に感動した時から北の大地に取材した作品を発表するようになったとのことだ。

 大自然に魅了され救われた作家の感動と喜びが伝わって来て涙が出そうになる。

 今も川越にある「埼玉糧穀」という会社の経営をしながら絵を描き続けたという。生まれは元町二丁目というから我が家からも近い。
 

  苦悩の軌跡・晩年結実の半生たどる http://www7b.biglobe.ne.jp/~koedo-shimbunsha/Pages/AiharaKyuichirouten.html

 感動が冷めやらぬまま、伊佐沼のほとりで昼食とする。どういうわけか、伊佐沼には水がない。魚たちはどうしたのだろう。

坂本直行の絵・十勝中札内

2010-01-04 08:17:46 | 映画  音楽 美術など
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 1月3日(日)晴れ

 箱根駅伝を見たり、ひばりの昔の歌を聞いたりして過ごす。昼寝をして夜、NHKの大河ドラマ「龍馬伝」を見る。
 どんな展開になるのか、今年は楽しんで見られるのだろうか。いくらその地に愛着があるといっても昨年の川越を舞台にした朝ドラはあまりにひどいので一、二回で見なくなった。

 1968年の大河ドラマ「竜馬がゆく」は大島の3年目だったが教員住宅にはTVがなく、街の食堂などでとぎれとぎれに見た。司馬遼太郎の原作は楽しんで読み、その後、故郷・土佐にかかわる作品を注目して読むようになったのではなかったか。
 「坂の上の雲」「ウェルかめ」と四国に縁のあるドラマが続く。朝ドラのほうはもう見なくなった。大金をかけてどうしたらこうつまらないドラマを作れるのだろう。

 龍馬といえばなぜか坂本直行という人の絵を思い出す。池田の森田さんに連れて行ってもらった帯広郊外の中札内の美術館で見た。雪の日高連峰の絵など鮮烈な印象がある。龍馬一族の子孫である。
   
 坂本直行の絵http://matsuyama.web7.jp/chokou/aburae/index.html
 


 ここには川越出身の画家・相原求一朗という人の絵もたくさんあった。北国の山の風景に魅了された。

 川越に美術館ができて相原さんの絵にはいつでも会えるがやはり、十勝の原野のただなかにある美術館で見るのとは違う。
 
 相原求一朗の「斜里岳」http://cardiac.exblog.jp/6392417

 龍馬の子孫の絵と川越出身の相原求一朗の絵が同時に見れる中札内というところは僕にとっては忘れられない大切な地の一つになった。

 中札内 http://azusamaya.web.fc2.com/tetudou/satunai.html

 追記 川越市立美術館で相原求一朗の<北の十名山>全十点の特別展が明日から3月28日まで開催されます。中札内の美術館の代表的な作品だが川越では初公開だといいます。

 

 文化資源としての<炭鉱>展

2009-12-28 15:25:00 | 映画  音楽 美術など
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 12月27日(日)晴れ

 招待券をもらっていた「文化資源としての<炭鉱>展」が今日までなので目黒区美術館に行ってみました。

 僕は70年代の初めに上野英信という人を知りました。

 『追われゆく坑夫たち』 岩波書店〈岩波新書〉、1960年 / 岩波同時代ライブ             ラリー、1994年

 『地の底の笑い話』   岩波書店〈岩波新書〉、1967年 / 2002年

 京都大学を中退して炭鉱夫となり、やがてこれらの作品を発表した人です。「知識人」といわれるものがどう生きたらよいのかを教えてくれた大切な人です。「人々の中で生き、考え、表現する」…そういう生き方をしっかり身につけていた方ではないかと思います。

 そのころ同時に炭鉱の人々の生活を描いた山本作兵衛という方の絵も知りました。
  山本作兵衛の絵http://www.mmjp.or.jp/pole2/yamaniikiru.htm 

 授業では上野英信・文 千田梅二・絵の「親と子の夜」という版画物語を紹介しました。炭鉱を舞台にして人が何を大事にして生きなければならないかを問いかける作品です。

 千田梅二の版画http://showzan.exblog.jp/3753200/
 


 山本さんも千田さんも上野さんが世の中に押し出したのではなかったかと思います。

 これらの人々の作品に会えるかなと思って珍しく二時間もかけて「美術館」というところに出かける気になったのです。

 千田さんの版画作品(「炭鉱仕事唄板画巻」)はもちろんですが山本作兵衛さんの作品(「筑豊炭鉱絵巻」)がとてもたくさん展示されています。すぐに疲れてしまうのでゆっくりというわけにはいきません。それでもなぜか懐かしいような気になりました。怖い絵は避けて飴売りや芝居の風景などを見ました。

 二階に上がると「北の炭鉱町」という大きな油絵があります。歌志内の風景だということですが気に入ってしばし見とれました。僕の最初の生徒の小山くんはこの炭鉱町から大島にやってきたのではなかったか。「誘えばよかったなあ」。

  浮田克躬 北の炭鉱町(1959年)http://www.google.co.jp/imglanding?q=%E6%B5%AE%E7%94%B0%E5%85%8B%E8%BA%AC&imgurl=http://www.art-kaitori.net/contents/img/ukita.jpg&imgrefurl=http://www.art-kaitori.net/artist/000792.html&h=295&w=400&sz=41&tbnid=qI8N6Yf6iEGr3M:&tbnh=91&tbnw=124&prev=/images%3Fq%3D%25E6%25B5%25AE%25E7%2594%25B0%25E5%2585%258B%25E8%25BA%25AC&hl=ja&usg=__n01v9S9wA6Z4RU3zhOI8fAckse4=&ei=o9s3S8XSEIvW7AOXp9iIBA&sa=X&oi=image_result&resnum=5&ct=image&ved=0CBoQ9QEwBA&start=0#tbnid=xekzHOOc6i3-RM&start=13

 長崎の軍艦島を描いた大作「風巣」の作者を見ると「滝 純一」となっています。遠い昔、僕が東京教育大の学生だったころ、出会ったことがある方です。笑顔の素敵なやさしくて温和な人という印象があります。

 こんなところで再会できるなんて、何となくうれしい気持ちになります。「滝くんの作品に出合えただけでも来た甲斐があったなあ」。

 滝純一さんhttp://www.kanzan.net/shujin/02/tanbo.html


 筑豊の炭坑地帯は80年代の初めに二度訪ねました。二度目には友人たちの計らいで家族4人で廃屋となった炭住で一泊させてもらいました。家が傾いて床が波打っていました。ボタ山にも登りました。

 今はもうこういう追体験すらできないのかもしれません。しかし、近代日本の「発展」の裏側でそれを支えて生きた人々の姿や思いを想像する力を養うことはますます重要になっているのかなと思います。

 人は何によって生きるのか。どんな人生が本当に素晴らしい人生なのか?60年代から70年代にかけて上野さんたちが発し続けてくれた問いをあらためて思い起こさせてくれる一日でした。

 『親と子の夜』http://store.shopping.yahoo.co.jp/7andy/01885077.html

映画 『炭鉱に生きる』予告編http://www.montage.co.jp/yama/movie.html

春日八郎「山の吊り橋」

2009-12-27 06:11:19 | 映画  音楽 美術など
 一昨日「一応庭」の手入れをしました。

 コンポストでできた腐葉土を木の下などに撒き、今年の落ち葉を空になったコンポストに入れます。ほぼいっぱいになりました。一応庭の落ち葉はゴミになることはなく土に帰っていきます。

 この後、この一年で2m以上に伸びた萩の茎を根元から切ります。これを束ねてゴミ回収に出す準備。これで終わりです。

 小さな小さな「庭」ですからあっという間に終わります。それでも腐葉土をばらまくのは何年振りかです。息切れがするので敬遠していたのです。疲れ果てたのですが一息入れれば大丈夫、宿題が片付いて気持ちよく新年を迎えられます。

 疲労回復がてら二階の屋根に干してある布団に寝て「春日八郎」を聞きました。

 午後、眠気がなく気分や体調が良い時にする習性です。

 たくさんの曲の中で「山のつり橋」や「月の嫁入り舟」などが特に好きです。

   山のつり橋http://www.youtube.com/watch?v=uaMdVOd0gsk&feature=related

 岩手の山村でマタギのような生活をしたことがある隣のおじさんや四国の那賀川の上流に住む田村さんの姿を思い浮かべたりします。

 田村好さんhttp://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/911843aec7b6b10aca42481155c4e535

 「月の嫁入り舟」のほうは物語の世界に入って太鼓をたたく青年の思いにいつの間にか浸っています。

  月の嫁入り舟http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=FySuMX2OVDY


 夜になって劉暁波さんに対する中国独裁政権の野蛮な仕打ちが伝えられてから心の平和が打ち破られてしまいました。