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川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

<お知らせ・お詫び> 大崎さんの講演について

2009-09-22 21:03:20 | こどもたち 学校 教育
先日ご案内した前高知県教育長・大崎博澄さんの講演時間などに誤りがありました。

 集会名 開かれた学校づくり全国交流第10回記念集会
 
 場所 明治大学(駿河台)リバティタワー3F1031教室 

 時 26日(土)12時 受付開始 13時開会 13時10分大崎博澄さんの記念講演(14時30分まで)

  集会は翌日夕方まで二日間開催されます。
  

 参加はフリーと大崎さんから聞いていましたがそうではなく事前登録制ですでに締め切ったそうです。
 「川越だより」を読んで僕と一緒に参加してくださる方がおられましたらご面倒でも必ず僕にご連絡ください。事務局で入場を取り計らってくれますので一緒に入場しましょう。講演終了後大崎さんと非公式な交流を行います。

 

 


 

大原博澄さんの講演を聴きに行きませんか

2009-09-13 12:46:14 | こどもたち 学校 教育
 前高知県教育長・大原博澄さんの講演を東京で聞くことができます。
 
 大崎さんのことはこのブログで何度も紹介してきましたのでおなじみになった方もおられると思います。まだの方は昔の「川越だより」を読んでみてください。

 http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/d/20080604

 わがふるさとにこんな教育長がいるのかと驚いたものですが、知れば知るほど人として尊敬できる方です。厳しい学校現場でこどもたちと共に生きようと悪戦苦闘している友人たちにぜひとも聞いていただきたいと思います。僕が深く励ましを受けるくらいですから、皆さんには…。

 僕は12時半ころに明大(駿河台校舎 御茶ノ水駅下車)の会場に行きます。ご都合のつく方は是非ご一緒してください。講演の終了時にお会いしてくれるとのことです。楽しみにしています。

   9/26 開かれた学校づくり全国交流第10回記念集会で記念講演 「土佐の教育改革・その敗北と曙光」 13時から 明治大学リバテイタワー3F1031教室 受付は12時から 二日間に亘る集会で参加費は2千円。

  大崎さんのブログ タンポポ教育研究所http://sky.geocities.jp/hirosumi1945/index.html

生徒の生き方から学ぶ

2009-09-08 13:31:55 | こどもたち 学校 教育
 やや旧聞に属しますが高知のコニヤンのブログにこんな記事がありました。長くなりますが紹介させてもらいます。


 「ムシパンの彼との再会・・・シアワセのクッキーのおすそわけ・・・」


 昨夜の9時前に、ムシパンの彼、私の所の卒業生のH.K(19歳)くんが、
わざわざ私の家を訪ねてくれた。
 「先生、遅くなったけど、55歳でね。またクッキーもってきたきね!」・・・と。
 私は、ぐっと胸がつまった。
私の所を卒業してK高校夜間部に進学して以来、
4年間毎年私の年の数だけクッキーを焼いて必ず誕生日プレゼントとして
私の所に届けてくれたのだ。
まさか今年も今になって届けてくれるとは夢にも思っていなかった。

 教師生活33年になるが、いまだかつてそんな教え子に出会ったことはもちろんない。
「教師冥利」につきるなんて、とてもとてもそんな生易しい、
美しい言葉で語れるものじゃない。
一体これをどのように表現したらいいのだろうかとさえ思う。
うれしい。確かにうれしいのだ。
でも、そんな言葉を超越しているのだ。
体全体が「感動体」となっている。

 今から6年前に、前高知県教育長の大崎博澄さんが
高知新聞の山畑だよりに、彼のことを書いてくれた。
それからもう6年の歳月が流れている。
この春に彼はK夜間を卒業し、かねてからの夢、管理栄養士になるべくして、
今は大阪の管理栄養士養成の専門学校に通っているのだ。
 彼が自分の夢を語ったのが、中学2年の時である。
初めて自転車で家まで家庭訪問し、ムシパンをごちそうしてくれたのだった。
あの光景は今でも再現できるほど鮮やかに覚えている。
母を助け、兄弟の協力のなかで、今まで必死になって生きてきた。
 当時は、どちらかと言えば、ひ弱い感じだった彼が、
今では私の身長をはるかに越え、たくましく成長している姿を目の当たりにすると、
時間の流れを感じずにはいられなかった。
 この春の卒業にあたって、私が彼に贈ったメッセージには、
次のようなことを書いている。
「・・・(前文略)・・・Kくん、あわてなよ。
自分の夢をこつこつとマイペースで実現したらえいきね。
『今日も笑顔でボチボチです!』でえいきね。
君のやさしい笑顔が、管理栄養士になって仕事をした時に、
それが周りに広がっていく。
みんなが、君の栄養管理で『食べること』で幸せになり、
そして、笑顔が広がっていく。
そんな『みんなの幸せにつながる未来』をこれからも一緒に作っていこうや!」と。
 そうだ。派手な夢なんかでなくていい。
自分が中学時代に夢見たことをこつこつと実現することを
常に脳に描き、今まで生きてきたのだから。
 私は、彼から一体何を学んできたのだろうか。
平凡なありきたりの言葉ではいえないものをいつも感じていたのだ。
私は、彼の亡くなった父親の代わりだったのかもしれないと。
決して「教師」としてではなく。
そこまで思わないと、毎年誕生日ごとにクッキーを
わざわざ年の数だけ焼いて持ってきてくれるなんてありえないと思ったからだ。
ほんとうにありがたかった。彼の気持ちがうれしかった。
人間としての誠実さがうれしかった。
私は、彼から人間として生きていくのに何が一番大切なことか、
何が一番必要なことかをいつも教えてもらっていた。
「誠実に生きること」「人間の優しさ」
「人間としての感性の大切さ」を彼がいつも身をもって私に教えてくれた。
こんなことは教師を何年やっても人間何年生きてきてもわからない者は
いつまでたってもわからないのだと思う。
でも少なくとも私は違う。
彼の生き方からいつも学ぶことができた。
年が若いからとかは関係ないことだ。

 昨晩の最終のバスで大阪に行くとのことだった。
彼に最後につぶやいた。
「まあ、Kくん、ボチボチやったらえいきね」と。
「先生は、その言葉が好きやねぇ。
はい、ボチボチやります。先生も長生きしてくださいよ。」
そう言った彼の顔がなぜか夜なのにまぶしく輝いて見えた。
今日は、スタッフみんなに、彼のシアワセのクッキーのおすそわけをしたい。   
ああ有情。
(文責:コニヤン/2009.8.28早朝・記)

 出典http://blogs.yahoo.co.jp/gogokoniyan/49259607.html


 心地よい感動にとらわれて僕はすぐにコメントを入れさせてもらいました。

 喜びをおすそ分けしてもらいました。こんな喜びを味わうことができる「先生」がいるんですね。「少なくとも私は違う」とはっきりいえる人生を歩くことができて本当によかった。コニヤンとH・K君に乾杯。


 僕も病気をしてからこの数年来、かつて生徒だった人々に励ましてもらうことがあります。覚えていてもらうだけでもうれしいのに、いま少しでも仲間であり続けてほしいというメッセージを受け取ることはどんな薬よりも僕の命の滋養になっています。
 コニヤンの生徒だったK君の思いというのはどういうものなのでしょう。とても想像がつきません。受け取るコニヤンが「体全体が『感動体』となっている」と言葉を失っているほどです。

 わかっていることは自転車をこいで訪ねてきてくれるコニヤンの思いが深いところでK君を励まし、自分の人生を生き抜く勇気と力を獲得することができたのだろうということです。

 コニヤンは「私は、彼から人間として生きていくのに何が一番大切なことか、
何が一番必要なことかをいつも教えてもらっていた」と書いています。
 
 ここのところが大事なことだと思います。中学生であろうと中学の教師であろうとこの人生をどう生きたらよいかと考え込んだときに出来合いの答えがないことは一緒です。僕などもこどもたちの置かれている現実にたじろいで言葉を失ってしまうことがありました。教えるなどということはできません。ただ一緒にひざを抱えて向かい合うだけです。
 コニヤンは「教えてもらっていた」と書いています。本当はそういうことのほうが多いのかもしれません。しかし、こういう風に言える人はわずかです。
 「先生」になっていく過程で人はどう生きていったらいいのかという根本的な問いかけをしなくなり、何かを教えることだけに夢中になる人が多いのです。そういう人が出世し、今のどうしようもないような学校社会が出来上がったのです。

 「私は違う」という言葉にはコニヤンが自分の人生を納得いくように生きることによって得た確信のようなものが感じ取れます。

 このブログを読んでこの人の人生にいっそう関心を持つようになりました。

 

 

 

聾者のダンスショー

2009-08-05 10:47:23 | こどもたち 学校 教育
 ぼくが嘱託として最後の教員生活を送った新宿山吹高校の生徒の文章を思いつくままに時々紹介します。
 一講座あたりの生徒数が比較的少ないので学期に2回は「自己を表現する」という時間を作りました。ぼくの授業には試験がなく、定期試験に該当する時にやりました。
 M・Aさんが夏休みの体験を発表しました。  


  DEAF MUSIC FACTORY
 
                   M・A


 私は 学生でありながら ダンサーという仕事をしている。
 これは夏休みの間に 3回にわたり公演した
 聾者の聾者による聾者のためのイヴェントに参加した時の
 レポートである。

 始まりは小さなものだった。
 仕事で来ていた横浜の街で 車の中から見えた4人組。
 元町の商店街のショーウィンドウを鏡代わりに練習していた
 いわゆるストリートダンサーだ。

 別に珍しい光景ではない。元町にはたくさんのストリートダンサーがいた。
 その中で 何故か 彼女たちだけが 目にとまったのだ。

 それから数ヶ月後、あるコンテストの会場で彼女たちと再会した。
 ゲストダンサーとして 4人のショーを見た。
 ゲストといわれるほどあって 息のあったダンスがすばらしかった。
 何よりもGrooveとかFeelinngとか
 そういった部類の表現力は 抜群だった。

 ショーが終わり すぐに声をかけた。
 するとびっくり 彼女たちは 手で会話していた。
 先ほどのダンスが信じられない。
 なぜ 音が聞こえないのに あれほどの踊りを魅せることが
 できるのか。

 私は興味を持ち、一緒に仕事をしたいと思い、
 「DEAF MUSIC FACTORY」からのオファーを受けた。
 ここで 一つ訂正が… 「彼女たち」と綴ってきたが
 「彼ら」と直そう。

 耳が聞こえない 声が出ない その上 性別まで
 間違えて生まれてしまったのだ。
 「彼女たち」は「元男である女」を売りにしている。
 時に女らしく、時に男らしく それを生きる糧にしているようで
 同情する余地もない。
 彼ら… いや彼女たちを 心から 尊敬した。

 練習には いろんな問題が生じた。
 言葉の壁というのは 通常の倍以上の時間を要する。
 しかし、彼女たちは とても純粋で
 健聴者のように 自分の考えを隠すことはなく
 全てをぶつけてきてくれた。
 それは振り付け師としても演出家としても
 何より 人間として 私には とても嬉しいことだった。

 いざ本番になって 彼女たちは 思った以上に緊張しているようだった。
 ふだんは よく喋る手も 元気がない。
 出番が近づくにつれ、何度も何度も 時計を見る。

 いつも 私は ステージで踊っている最中のことはよく覚えていない。
 ただ すれ違いざまに見える彼女たちの表情は とても 輝いていた。

 ステージを終え 楽屋に戻ると
 自分の左のこぶしと右のこぶしをトントンとぶつける
 仕草を お互いに向かって 行っていた。
 これは“おつかれさま”という手話。

 そんな中 スタッフに ステージに来るように呼ばれた。
 なんと ステージを終えてから10分以上
 拍手が止まないと言う。
 もちろん アンコールに応えなければならない。

 SMAPの“世界に一つだけの花”を
 出演者全員で 手話で歌うことになった。
 するとどうだろう
 観客席の手も歌いはじめ、いつしか オールスタンディングで
 ホールの全てが一体となった。

 ダンサーとして これほどまでに喜ばしい体験は はじめてだった。
 これほどまでに 感動したのははじめてだった。
 彼女たちは 私に何度も“ありがとう”という。
 お礼を言いたいのは私の方だった。

       「前期後半のノートから」(「現代社会」04・10・19)
 
 
 卒業後、文化祭の時訪ねてくれて、浅草で靴職人をしていると聞きました。「訪ねるよ」と約束して時が流れました。近く会えるといいなあ。



 

T・Kさんコメントありがとう。

2009-08-04 21:24:40 | こどもたち 学校 教育
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T・Kさんコメントありがとうございます。元気に活躍されているようで何よりです。

 あなたのいうS・Y校をリタイヤーして2年あまりがたちました。この学校での5年間は退職後の嘱託という立場でありましたのでぼくは社会科の職員の方々とも深く付き合うこともせず、授業を担当する生徒たちとの関係のみを大切にして過ごしました。この学校の教員ではありますが学校のあり方に責任をもてる立場ではないと考えたからです。
 この点、進路指導室に机を与えられたことは大変好都合でありがたいことでした。世情には疎くなりますが教育相談などを通じて子どもたちと深く関わる職員の方々の姿が近くにありました。T・Kさんもその1人です。
 
様々な事情から不登校を体験したり、心を病むところまで追いつめられた子どもたちがいました。ぼくは「倫理」を担当していてこの困難な時代をどう生きたらよいかを考える重責を担っています。
 しかし、ぼくに出来ることはほとんどなく、子どもたちの声に耳を傾けること、子どもたち同志が胸襟を開いて話し合う場を授業の内外に作っていくことに努めました。半期毎に「自己を表現する」時間を作り、2年目だったかに生徒の手でcircle of hearts と名付けられたひろば(同好会)が誕生しました。

 現代社会と学校の闇は深く、救急施設として高知のコニヤンの教育研究所や東京のS・Y高のようなひろばや学校が子どもたちには必要です。そこで働く人たちが子どもたちの現実から深く学び、彼らと共に生きていく道筋を探求する心と力を身につけていかなければなりません。
 能力主義・競争至上主義が教育の世界でも幅を利かせている時代です。そういう時代に育った人が教員になっていくのですから、木に縁(よ)って魚を求めるようなことかも知れません。でも、諦めることはありません。先日の1Gのクラス会で会ったぼくの生徒だった人の中にもそのような歩みを始めている人がいます。いつの時代でも少数ではあっても自分を大切にして生きようとする人はいるものです。

 私たち年をとった者たちも大崎博澄さん(前高知県教育長)のようにはっきりした旗を掲げ自分らしい道を歩いていきたいものです。それがどこかで若い人たちを励ますことになるかも知れません。

 T・Kさんは学校の中核を担う年頃です。こういわれます。
 
 「促成栽培用の化学肥料や除草剤を使わないで水と光を注いで土を耕す旧来の方法で人と付き合っていこうと思います」。

 ご自分の生き方を大切にして子どもたちとともにどこまでも歩いて行ってください。

 どこかで出会うことがあるのを楽しみにしています。

 それにしてもS・Y校にどんな変化が起きているのでしょう。「モラルに悖る」ということですから学校の存立にかかわることでしょう。S・Y校にたどりついて自己確立の道を歩み始めた多くの子どもたちのことを思うと聞き捨てならないことです。

 

 

 

 



 

「俺もてだのふぁになりたいな」

2009-07-22 12:15:06 | こどもたち 学校 教育
 昨日、大崎博澄さんからコメントをいただきました。

 感謝とお知らせ (大崎博澄)
             2009-07-21 14:09:05
拙いお話をこんなに受け止めて頂いて感謝です。田舎者のぼくは、川越がどこにあるか知りませんが、関東かな?と思ってお知らせします。9/26(土)13:10から、明治大学リバテイタワー3F1031教室で開催される 開かれた学校づくり全国交流集会で「子どもという希望・土佐の教育改革」と題して講演します。フリーで入場できます。もし、会場でけいすけさんにお会いできれば、老骨のよき冥土の土産になります。

 19日に久しぶりに大崎さんのブログを開いてこの日掲載されたばかりのお子さんに送る詩を読ませてもらい、20日に「川越だより」に紹介したばかりでした。何というよろこびでしょう。
 9月26日(土)です。暦にすぐに書き入れました。皆さんの中で都合のつく方がいたら、どうですか。今からその日が待たれます。

 資料の整理をしていたら昔の生徒の作文が出てきました。ぼくがHR担任をした1974年度池袋商業高校3年3組と1978年度1年5組のそれぞれほぼ全員の読書感想文です。どういう事情で手元に残っているのか忘れてしまいましたが、今あらためて読み始めました。いずれクラス会がある時に本人に直接返したいと思っています。

 78年1~5は灰谷健次郎の『太陽の子』です。「地理」の時間に読み合いました。今日は出席番号1番の浩二くんの感想文を紹介します。


  『太陽の子』 1年5組 浩二

 太陽の子、太陽の子ふうちゃんはまさしく「てだのふぁ」であると思う。
 だれにでもやさしく、温かい心を持ち、人のことを深く親身になって心配してくれる。

 ほんとうにいやなことばかり起こるこの日本の中にこんなすばらしいお嬢さんがいるなんて思うとなんだか俺はうれしくなってくる。
 ふうちゃんのお父さんを思う気持ちは、なんだか、3年前おやじを亡くした俺と同じ気持ちだと思った。

 ふうちゃんの心の中にはたえずお父さんの姿が合った。と、同時に、この俺にもあったのだ。
 ふうちゃんは毎日お父さんを散歩に連れだしていた。お父さんの顔にはすでに笑顔がなく、何もしゃべらないような状態だった。それでもふうちゃんはそんなお父さんを見て悲しみをこらえ、お父さんに何か一つでいい、返事を返してもらいたい、そんな感じで色々話しかけていたと思う。

 俺のおやじが入院したとき、俺はまさかおやじが死ぬということなんか知らなかった。時々病院に行っておやじを見舞ったが、おやじの体力が落ちていくのが体に現れ始めたとき俺はもう怖くて、恐ろしくて、でもそんなことあるものかという気持で自分を押さえていた。ふうちゃんもまたそうだったろうと思う。

 ふうちゃんのお父さんは死んでしまったがふうちゃんは泣かなかった。
 
 俺なんかおやじが病室で死ぬ1時間ぐらい前、おやじは「家に帰るんだ!おい」と叫んでいた。俺はおやじに何もしてやれないし、話もかけられない自分のいくじのなさに腹を立てたがどうしようもなかった。ただ涙をこらえるのがやっとだった。おふくろはおやじの顔をじっと見て目が赤かった。そして、おやじが死んだとき、もうそんなことは忘れて赤ん坊のようにみんなして泣いたものだった。

 ふうちゃんも最初は通夜の席でじっとたえていたが、キヨシ少年が呼んでふうちゃんは目を上げた。「これ、やる」キヨシ少年は小袋を突きだして姉の形見のコンパスを出した。それを見たとたん、ふうちゃんの目に涙が浮かんだのだ。けなげなキヨシ少年の心にうたれたのだと思う。
 
 俺はそんなキヨシ少年が大好きだ。

 ちょっぴりひねくれ者だったがふうちゃんのやさしい心をだんだんと理解し、兄妹のようになっていく。キヨシ少年には1人のお姉さんがいたが19歳の若さで自殺をしてしまった。やがてキヨシ少年のお母さんは見つかったがキヨシ少年はお母さんを憎んで口も聞かなかった。
 ふうちゃんはそんなキヨシ少年を見て「キヨシ君のあほ」といった。キヨシ少年はなんだか困ったような顔をしていた。俺はそんなキヨシ少年を見ていると憎めないいいやつなんだなと思った。
 
 不良少年たちと別れるために大ゲンカをして命まで危なくなる傷を負わされたのにもかかわらず、キヨシ少年は「ショウヘイのこと、あんまり悪うおもうたんなや、あいつらも俺といっしょで、いろいろあるやつやさかいな」といった。俺はそれを読んだとき、何か、ジーンと来るような感じがした。

 俺は他の人たちのこともいいたかったが、やっぱり、ふうちゃんとキヨシ少年はその中で一番印象深く考えさせられるところが多いのでそれについて書いた。

 太陽の子ふうちゃん、ふうちゃんばかりでなく、キヨシ少年もてだのふぁだと思う。

  太陽の子 ふうちゃん。

  太陽の子 キヨシ君。

  俺も てだのふぁになりたいな。


 「てだのふぁ」は沖縄の言葉で、「太陽の子」。浩二くんはキヨシ少年も太陽の子だといっています。そういう人間観を持つことが出来た浩二くんがぼくは大好きです。

 大崎さんはこう書いておられます。

   もし、あなたの人生に不幸が訪れたら

        それはもっと深い幸福に出会う機会が訪れたと思ってください

        もっと深い幸福とは、人の心の痛みを受け止める想像力を持つということ

        其のときあなたは、人生で初めて本当の友達に出会うことができる

        その友達があなたを支えてくれる

        不幸を背負うことで、あなたはもっと深い幸福に至る切符を手にすることができるのです


 ふうちゃんとキヨシ少年も「人生ではじめて本当の友達に出会う」ことができたのでしょう。教室でここのところを読むとき嗚咽をこらえるのに精一杯だったことを思い出します。

 31年前の15歳か16歳です。「てだのふぁになりたい」と書いた浩二くんはどんな人になったのかなあ。あって人生の話を聞いたり、したりしてみたいなあ。
 

 

 

 




「おとなになっていくあなたへ」

2009-07-20 08:44:51 | こどもたち 学校 教育

大崎博澄さん(前高知県教育長)のブログを久しぶりに開いたら、こんな詩が飛び込んできました。どうぞ、声を出して読んでみてください。




 おとなになっていくあなたへ

            おとなになっていくあなたへ

            これは私からの最後の手紙です

            今日からもう私はあなたを守ってあげられない

            今日からもう私はあなたを助けてあげられない

            まだ幼さの残る肩で

            あなたは人生をひとりで背負っていかなければならない

            そんなあなたへの、これは最後の手紙です



            小さなものをいとおしんでください

        沖縄には小さ(くうさ)愛さ(かなさ)、小さなものはいとおしい、という古い言葉があるそうです

        なんと美しい言葉でしょう

        小さなものを愛する人生は楽しみに満ちている

        山歩きの途中であなたと探した、人差し指にも足りない草丈の

        チョウセンアヤメの小さな花を忘れないで



        よい本を読んでください

        読み物は巷にあふれていますが、読む価値のあるものは少ない

        でも、心を開いていれば、必ず出会うことができます

        その人にしか語れないことが、誰にも分かるやさしい言葉で書いてある本

        それが読む価値のある本です

        よい本に出会うことは、よい友達に出会うこと



        毎日、朝晩たどる道を、ゆっくりゆっくり歩いてください

        みんな急ぎ足であなたを追い越して行くでしょう

        でも、あわてない

        急ぎ足では、足元に咲いている小さなカタバミの花を見過ごします

        急ぎ足では、頬にあたるさわやかな三月の風を感じられない

        人生に急ぐべきことは何もない



        もし、あなたの人生に不幸が訪れたら

        それはもっと深い幸福に出会う機会が訪れたと思ってください

        もっと深い幸福とは、人の心の痛みを受け止める想像力を持つということ

        其のときあなたは、人生で初めて本当の友達に出会うことができる

        その友達があなたを支えてくれる

        不幸を背負うことで、あなたはもっと深い幸福に至る切符を手にすることができるのです



        小林完吾さんがこんなことを言ってました

        「子どもに生を与えたということは、

        親が付き合ってやれない死を与えたということ

        であれば、生きている一瞬一瞬が生きていてよかったと思えるものであって欲しい」

        私は親として、あなたにそういう一瞬を与えられなかったかも知れない

        ごめんなさい

        でも、人生は与えられるものでなく、自分の手で切り開くもの

        幸福は自分の創り出すもの

        もう、私の手の届かないところへ旅立つあなたへの、これは最後のエールです



                         最新更新日  2009・7・19

   出典 タンポポ教育研究所http://sky.geocities.jp/hirosumi1945/index2.html

 大崎さんが我が子に贈る言葉は確信に満ちています。

 「不幸を背負うことで、あなたはもっと深い幸福に至る切符を手にすることができるのです」。


 なぜ、このように確信を持って言えるのでしょう。精一杯生きてきたご自分の人生の「総括」に基づくからです。

 大崎さんの講演記録を前に紹介し「必読」としたことがあります。読んでいただけたでしょうか。新しい読者の方もおられます。是非読んでみてください。
 
 「川越だより」http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/2d6a3e2b9a7b52e84d86642f10bb4074

  


土肥・前三鷹高校長の裁判闘争を支持する

2009-06-25 04:09:09 | こどもたち 学校 教育
 都教委という公権力を私物化しやりたい放題を続けている一部のならず者たちに対する土肥さんの闘いは裁判という形になったようです。JANJANにこんな記事を見つけました。
 民主主義の原点を守り抜こうという主張にどんな反論があるというのでしょう。とくと聞かせてほしいものです。
 石原都政に対する都民の支持(選挙で圧勝)を背景にウルトラ右派分子が台頭し命令を連発する行政をやってきました。今度の都議選で流れを変えることが出来るのでしょうか。
 土肥さんの声に耳を傾けて下さい。こういう声を孤立させてはなりません。


言論の自由を抑える都教委を「公開討論」の場へ

  東京都を訴えた都立三鷹高校の土肥信雄・前校長に聞く
               三上英次2009/06/16
 

 都立三鷹高校の校長在職中から、「挙手・採決禁止」通知をはじめとする都教委による「言論統制」に異を唱えていた土肥信雄氏が6月4日、ついに都教委を相手どり訴訟を起こした。東京都の非常勤教員への不採用に関し、都教委の教育施策の違法性を明らかにするため、無効確認でなく損害賠償のみを求めたという。訴状を提出した土肥氏に話を聴いた。

 都教委の施策に広く審判を仰ぐのが目的

 記者 今回のことは、「前校長が教育委員会を提訴」と聞けば、事情をよく知る人はともかく、初めての人は驚くでしょう。また、私も、非常勤教員不採用の無効確認訴訟かと思っていましたが、どうやらそうではないということで、今日は訴訟の理由、そのねらい、あるいは広く土肥先生の考える望ましい教育行政などについてお話をうかがえればと思います。 



 土肥 まず、訴訟の内容ですが、表向きは非常勤教員の不採用等による慰謝料1,850万円を求めたものですが、実質は今までの都教委の教育施策に対する審判を仰ぐものと私は考えています。都教委は、本来民主的であるべき教育現場には「言論の自由」を認めず、都教委に都合の悪いことはことごとく抑えて表に出さないという方針でやって来ました。

 都教委の「挙手・採決禁止」通知は2006年4月に出されましたが、私は現職中の07年秋頃から、「これは学校から言論の自由を奪うものだから撤回してほしい、撤回できないのなら、通知の理由や根拠についてきちんと説明してもらいたい」と言って来ました。08年5月以後は、外の社会に向けても同様のことを言い、「公開討論」も呼びかけました。しかし、都教委は、それについて一切の説明を拒んでいます。 

 私が都教委に公開討論をお願いしたのは、「挙手・採決禁止」通知をはじめ、都の教育施策が、どういういきさつで決まり、何をねらいとするのか、全く「藪の中」だったからです。しかし、教育は、国の将来を決める大事な事業なのです。健全な青少年を育てられなければ、その国は滅びます。健全な青少年を育てる施策が不健全であってよいはずがない。私は自分の独断で「都教委が不健全だ」と決めつけるのではなく、健全か不健全かについて、より多くの人と問題を共有し、公正な判断を仰ぎたいということです。 

 提訴の理由についても、私は自分自身の不採用そのものを問題視しているのではなく、不採用は都教委の不健全さの一部だととらえています。その不健全さを正すには、一部にだけ焦点を当ててはいけません。都の教育行政のありかたそのものを問うというねらいで、今回の訴訟を決断したのです。 

 記者 裁判になれば、都教委としても応じないわけには行かない。つまり土肥先生が前から求めていた「公開討論」ということですね。 

 土肥 そうなんです(笑)。おおやけの場で意見を戦わせることが大事なんです。そうすれば、都民だけではなく他府県の人も、つまり国民全体が都教委の実態を知ることになるし、それだけではなく、情報を共有することで、より望ましい方向をみんなで模索していくことができる、これこそ民主的なあり方だと思いませんか。 

 パワハラや「見せしめ」への異議申し立て

 記者 そう思います。土肥先生にとっては「裁判に勝つかどうか」ではなく、「公開討論」「問題の共有」が、目的なのですね。 

 土肥 私は、自分の考えに信念を持っていますから、裁判に勝つに越したことはありません。けれども、さきの「岩波ブックレット」でも言いましたが、私は自分だけが正しいとは思いません。より多くの人、つまり裁判所や国民などが、都教委のやり方を支持するなら、私はそれでいいと思います。そうではなく、都教委の一部の人間が、…ここが大事なのですが…、私は「都教委」「都教委」と、都教委全体が悪いように言っていますが、正確には、都教委の、ごく一部の人間が、都の教育施策を私物化して来たのです。それを正していかなければなりません。 

 記者 私物化と言えば、非常勤教員への不採用も、全く恣意的で、理不尽なものでした。 

 土肥 そうですね、むちゃくちゃですよ(苦笑)。私の聞くところでは「日の丸・君が代」不起立者以外は、定年後ほとんどが非常勤教員に採用されています。昨年の採用率は98.66%ですよ。私は、法令違反などにより処分を受けたことはありません。都教委の出した通達や通知にも従っていますし、三鷹高校では、もちろん職員の意向を尋ねるのに、挙手や採決は行っていませんでした。 

 記者 それが土肥先生らしいところです。先日お会いした際も「日本は法治国家だから、法令に従った上で、現状を変えていくよう声を上げる」という姿勢をうかがいました。先生は、極端な革命思想家でもアナーキストでもないのですね(笑)。 

 土肥 善良な小市民ですよ、声は大きいですが(笑)。だから、私は都教委の施策に従った上で、「将来の日本のためにならない」と考えて公平に意見を戦わせる公開討論を求めたり、書面による質問などをしたりして来たのです。間違ったことをしている組織(都教委)を批判したことで不採用にするなんて、納得できない。それは権力の濫用であり、パワハラであり、まわりへの萎縮効果をねらった見せしめだというのが、私の意見です。 



 基本的人権、言論の自由を互いに認め合うよう教えてきた

 記者 土肥先生には、以前お尋ねしたことがあります。「これから教育現場に入ってくる若い教員に何かアドバイスはありますか」という質問に対して、先生は「生徒たちのために、汗をかける教員になれ」――それはすなわち「子どもたちのために労苦を厭わない教師であれ」というようにお聞きしました。今回の訴訟は、今の高校生、広くはこれからの子供たちのためのアクションだということ、先生は、まだまだ「子どもたちのために汗をかき続ける」ということでもあるのですね。 

 土肥 そのつもりでいます。自分に対して、何かちょっかいを出されたぐらいで、私は怒りませんよ(笑)。でも、私にそういうちょっかいを出す相手というのは、他でも同じことをやって来たし、誰かが止めなければ、これからもやるんです。だから、もし改めるべきことがあるのであれば、それは、将来の子どもたちのため、ひいては将来の日本のためということです。 

 それから、ぜひもう1つ言わせて下さい。私は教員になった時から、教頭、校長になっても、「基本的人権」を生徒たちに教えて来ました。中でも政経の教員として、私は、民主的な社会を築いていく上で「言論の自由」を最も大切なものとして位置づけています。そして、彼らには次の2つを繰り返し言って来たのです。 

 それは、「自分が正しいと思ったことは、相手が誰であれ、きちんと発言せよ」と、「お互いが言論の自由を行使し合うことで、相手がこちらに納得することもある。向こうが正しいと思えば、それに従えばいい」という2つです。 

 この2つを私が生徒にやかましく言っているからには、私自身が実践できていなければなりません。私が権力の前に平伏したり、自分の信念に従ってものを言わなかったりしたら、私は生徒に対して責任がとれません。 

 私は将来の子どもたちに望ましい教育環境を用意するためにも、そしてまた、私が教えて来た生徒たちに対して責任を果たすためにも、「言論の自由」を封じ込めようとして来た都教委の姿勢について、異を唱え続けるつもりです。 

 第3者機関設け、教委と教員がオープンな発言を

 記者 最後に、これからの適正な教育行政についてお聞きします。先生は08年秋に東京都の公益通報者保護条例に基づいて、都教委の「業績評価実施要領」違反を告発されましたね。 

 土肥 そうです。00年4月に導入された校長の教員に対する業績評価も、実施要領では「絶対評価」でよいと定めながら、「全体の20%は悪い評価にせよ」と言って校長の裁量を認めず、こちらからの書類をつき返して来るわけです。そして、そういう都教委の実施要領違反を告発しようと思っても、告発書類は、都教委関係機関が受理することになっていて、結局「告発不受理」になってしまいました。こんなおかしなことはありません。 

 記者 考えてみると、国民は、行政不服申し立てができることになっています。ところが、教員は、人事権を握った教育委員会に対して表立った「不服申し立て」や「抗弁」をする制度が、確立されていないように思うのです。例えば、地域住民や保護者等から成る「学校運営協議会」の制度が、2004年からとりあえず始まりました。この制度は、校長にのみ意見を言える「学校評議員」制度よりもさらに一歩進んで、教育委員会にも意見を言えるという、ある意味では、画期的な制度です。同様に、校長が、教育委員会にもっと物を言える制度が必要だということでしょうか。 

 土肥 直接教育委員会にものを言えなくてもいいですから、教育委員会からも校長からも中立な、第3者機関は絶対必要だと思います。そういう機関を作って、お互いに意見を出し合えば、そんなに極端な考え方だけが幅を利かすことはなくなるはずです。とにかく、問題をオープンにして、誰もが自分の意見を言えるようにする教育環境が必要なのです。 

 記者 そのお考えは、よく理解できます。引き続き、裁判の経緯については見守って行きたいと思います。ありがとうございました。 

    出典http://www.news.janjan.jp/living/0906/0906155123/1.php

「甲子園の心」 佐藤道輔さん

2009-06-24 12:51:48 | こどもたち 学校 教育
高校野球の夏の大会が近づいてきたので大島高校野球部にかかわる記事を検索したらこんなニュースが飛び込んできました。

     元東京都高野連理事長の佐藤道輔さん死去
                朝日・2009年6月20日3時0分

 佐藤 道輔さん(さとう・みちすけ=元東京都高校野球連盟理事長)が16日、脳梗塞(こうそく)で死去、71歳。通夜・葬儀は近親者で行った。

 都立高校の社会科教諭で、32年にわたり硬式野球部監督を務めた。78年と85年には東大和高を率いて夏の西東京大会で準優勝。退職後もペルーの子どもたちに野球用具を贈る活動などを続けた。04~06年、都高野連理事長。著書に「甲子園の心を求めて」(報知新聞社)など。


佐藤さんはぼくの前任者です。61年4月から66年3月まで5年間に亘って大島高校の社会科の教員を勤められています。野球部の指導にあたるとともに舎監として寮生と起居を共にされました。佐藤さんが転任されたあと66年4月にぼくが赴任したというわけです。一度もお会いした記憶はありません。
 高校野球の指導者として当時から知られていたのか、そのお名前は忘れたことはありません。大島の一年先輩であるバタやンやモリさんはその人柄をよくしっていることでしょう。

 『甲子園の心を求めて』という著作があるそうです。


     『甲子園の心を求めて』
http://maglog.jp/benkei-books/index.php?module=Article&action=ReaderDetail&article_id=101970


 いま、大島高校『創立50周年記念誌』をひもといてみると、佐藤さんのこんな文章があります。

 大島高校にはいい生徒たちがいっぱいいた。私の若さにまかせた強い要求に応えて、自らの道を切りひらいていった優れた青年たちを、私は数多く知っている。…。今でも、あの頃のチームが、最も高校生らしく、強かったと私は考えている。ユニホームを泥まみれにして闘う球児たちは、私の胸のなかに輝いて残っている。


 退職の1年半後に書かれた文章です。教員生活の一番最初に出会った大島の高校生たちのチームが「最も高校生らしく、強かった」と述べておられます。甲子園にでたわけではありません。それでも「強かった」のです。佐藤さんはこの言葉で私たちに何を伝えようとしたのでしょう。

 『甲子園の心を求めて』を読めばその心が分かるかも知れません。野球部の顧問の仕事はアンテツさんが受け継いだのではなかったかと思います。民主主義の原理に忠実な方で批判精神にもあふれていました。アンテツさんは佐藤さんの心をどう読みとっていたのでしょうか。お聞きしてみたいと思います。

 夏の大会の東東京大会は7月11日から始まります。大島高校は16日になんと都立文京高校とあたります。
 ぼくが最初に世話になった学校と退職を迎えた学校の対戦です。どこに座って応援するか、難問です。
 部員も100人を超す文京は自慢のブラスバンドつきの大応援団です。対する大島はどんなチームなのでしょうか。応援団は例年だと大先輩のトランペット一つです。在京のOBOGたちが仕事の都合をつけて参じます。
 両校のOBOGの皆さん、7月16日(木)10時、明大球場です。

 両校に『甲子園の心』はやどっているのでしょうか。佐藤さんのご冥福を祈ります。(合掌)









閉校・「山びこ学校」

2009-03-21 04:16:29 | こどもたち 学校 教育
 先日、坂戸のふるさとの湯で読んだ『読売新聞』のコラムで山形県上山(かみのやま)市の山元中学校が3月22日に閉校することを知りました。
 私たちの世代の人なら記憶にある「山びこ学校」が姿を消していくのです。日本中、至る所で進行している過疎・少子高齢化の現実がもたらしたものですが、ぼくのようなものにもさびしさを感じさせます。無着成恭(むちゃくせいきょう)と山元中学校の生徒たちが精一杯作り上げた学びの精神は「ふるさと」が滅びていく今こそ、省みられるべきではないかと思われます。
 
 「毎日新聞」(09年3月6日・山形版)の記事です。


「山びこ」の響きは…:半世紀経た山元中学校、冬から春/1 
 

 ◇古里・山元を知る--地区調べ「誇り持たねば」
 
 人間のねうちというものは、「人間のために」という一つの目的のため、もっとわかりやすくいえば、「山元村のために」という一つの目的をもって仕事をしているかどうかによってきまってくるものだということを教えられたのです。(無着成恭編「山びこ学校」より)

 風も冷たくなった昨年11月中旬の上山市山元地区。狸森(むじなもり)集落の山元中体育館は、ソバの香りと、地区の住民数を上回る約500人の熱気に包まれた。「でわかおり」の収穫に合わせ、新ソバを味わう「山元そば祭り」。今年で25回を数える。

 主婦に交じり、配ぜんや呼び込みを手伝った山元中3年の3人は集まった人に呼びかけた。「『ふるさと山元を知る』の発表を始めます」

 00年に始まった総合学習。今まで古代米や雑穀を育て、文化祭で振る舞っていたが、今年3月の閉校を前に「地区を見つめ直そう」と調べた。生徒が3人だけのため文化祭が中止され、発表の舞台がそば祭りに移った。

 江口奈々恵さん(15)は「山元の食」を調べた。農家から話を聞き、食用ほおずきケーキとワラビおこわを作った。「料理しても素材の味が感じられる」とまとめた。

 「山元の緑」を調べたのは伊藤亜子さん(15)。植林された杉が多く、近年の国産材の需要減で手入れする人も激減した現状を知った。「このままでは山が荒れてしまう」と警鐘を鳴らした。

 「緑は豊かで人は温かい。でも、携帯は通じず店は遠い。大人は地区をどう感じているのだろう」。田代耕大君(15)は「山元で生きる人」をテーマに大人に聞いて回った。「東京は便利だが水も空気もまずい。山元は不便だが畑で汗をかいてもおいしい水が飲める」「農林業はすべての土台だ」。みな誇りを持っていた。「一生暮らすつもりさ」の言葉に「僕も誇りを持たなければ」と思った。

 「山びこ学校」で、山元村のために仕事をすることが大切と学んだ当時の子供の何人かが、その通りに仕事を続け、今の子供たちに誇りを伝えた。

 かっぽう着姿で聴き入った中ノ森集落の団体職員、大宮裕子さん(48)は「地区には良さもあるし、課題もある。それを考えてくれて頼もしいし、うれしかった」と話した。白壁忠彦校長(54)は「生徒たちは地域から学んできた。地域にお返しをしたかった」と語る。

 ずっと山元地区で育った3人。改めて気付いた地区の良さを胸に、4月から山形市の高校に進む。

  ◇  ◇

 「山びこ学校」の舞台・山元村立(現上山市立)山元中学校は22日に閉校する。冬から春の山元地区を訪ねた。【細田元彰】=つづく

  出典http://mainichi.jp/area/yamagata/news/20090306ddlk06040124000c.html

 ぼくは手術後の抗ガン剤治療が一段落した06年5月、待ちかねたように山形に連れて行って貰い、偶然、「山びこ学校」を訪ねることが出来ました。当時の記事です。(『木苺』128号 06・7)

  列島ところどころ ⑫   山びこ学校
鈴木啓介(新宿山吹高校)
 
5月18日から山形県の置賜(おきたま)地方に連れて行ってもらった。飯豊(いいで)町の「源流の森センター」では〈草木塔〉というものの存在を知った。草木にも魂が宿るという信仰(?)から森林を伐採したあとに建てたものらしい。置賜という地名がアイヌ語に由来するというという説と共に自然と共に生きてきたこの地方の人々の精神世界を垣間見るようで興味深かった。

 20日、蔵王に向かう途中で、車窓に〈山元〉という標識が見えたような気がして、車を止めてもらった。近くに山元小中学校があった。地図でどんなに探しても見あたらなかった、あの「山びこ学校」に偶然、行き当たったのだ。ぼくは「山元」という学校の名前さえ忘れていて、上山市の地図とにらめっこすれば思い出すかとやってみたがダメだった。山元村が消えてから山元という固有名詞は地図のうえから消えていたのだ。

 興奮がまださめないうちに狭い校地内を探索してみたが「山びこ学校」のしるしは見つからず、歴史の彼方に消されてしまったのかと思った。この日は土曜日で、ものをたずねる人影もない。車に帰ろうとして学校の入り口にきたとき、尊徳像のそばに大きな石があるのに気づいた。
 それが「〈きかんしゃ〉から起つ鳥」と命名された山びこ学校の記念碑だったのだ。片方の面に「2004年8月吉日  無着成恭」の署名入りで『〈山びこ学校〉の合い言葉』が刻まれている。 


     おれたちはきかんしゃだ    きかんしゃの子どもは
いつも力を合わせていこう   かげでこそこそしないでいこう  
いいことは進んで実行しよう  働くことがいちばんすきになろう
なんでもなぜ?と考える人になろう
いつでももっといい方法がないか探そう
 
もう一方の面には佐藤清之助さんの〈山〉。

私は学校よりも山がすきです
それでも字が読めないと困ります
 

そばに〈山びこ学校の碑について〉という説明文の石碑もある。
 

 文集〈山びこ学校〉は、昭和二十六年三月に青銅社から発行されました。この本は昭和二十三年四月、山元中学校に入学した四十三人の生徒が、師範学校を出てはじめて教師になった当時二十一歳の無着成恭先生の指導のもとで三年間にわたってつくられた学級文集〈きかんしゃ〉(全十五号)を底本にして編集されたものです。

その頃の日本は敗戦という憂き目にあい、経済的にも文化的にもたいへん貧しく、学校教育も混乱の中にありました。一方で新しく始まった〈民主主義〉が新鮮な響きを持って迎えられた時代でもありました。そうした世相の中で刊行された〈山びこ学校〉は、新たな日本を構築する独創的な教育の実践として広く報道され、映画化されたり、中国語や英語に翻訳されるなどして、外国にも紹介されました。

そして半世紀を過ぎた今日でも〈戦後民主主義教育の記念碑〉といわれ、多くの人に読み継がれています。この碑はその意義と足跡を後世に伝えるだけにとどまらず、新しい世代に向けての日本の教育や文化、そしてこの地域、山元の発展の礎となることを願い建立したものです。

なお〈碑〉に刻んである六つのことばは〈きかんしゃ〉の創刊号に掲載された無着先生の詩の中にあるもので〈山びこ学校〉のすべてを貫く精神であり信条ともいえるものです。  平成十六年(2004)八月

 ぼくは感動に浸りながらこれらのモニュメントを建てたのは誰かという疑問にとりつかれた。説明文の下方に『〈きかんしゃ〉の同人』として43人の姓名が当時の姓のまま刻まれている石版があるのでこれらの人々なのであろうか。教育委員会や学校はどういう風に関与したのだろう。
そんなとき自転車に乗った一人の少年が近づいてきて挨拶してくれた。43人の一人、江口俊一さんの孫で昴志君といい、小5だという。
今春から山元小学校は休校となり、今は別の学校に通っていること、中学も近く休校となる見込みであることを教えてくれた。冬の雪の深さや友達のことを語る昴志君の表情や仕草は恥じらいを含みながらも聡明さを感じさせ、今時こんな子供がいるのかとぼくは心から嬉しくなった。
ぼくらが学校に近い谷間の村を車で一周して帰ろうとするときに自転車でまたあらわれて見送ってくれた。昴志君にあって山形の旅はぼくにとって印象深いものとなった。

 うちに帰ってから新宿区立の図書館にある山びこ学校に関わる本を借りて読んでみた。『山びこ学校』(角川文庫),『遠い〈山びこ〉―無着成恭と教え子たちの四十年』(佐野真一著 文芸春秋社)、『山びこ学校ものがたり―あの頃、こんな教育があった』(佐藤籐三郎著 清流出版)、『続山びこ学校』(無着成恭著 むぎ書房)。  
 ぼくは山びこ学校について何も知っていなかった。そして、無着成恭と43人の子供たちの3年間の営為に深く感動した。子供たち一人一人が生活の現実を刻んだ作文を教材として認識を共有し、深め、解決のための行動を模索する。子供たち一人一人の生活の現実ときり結ぶ無着の生き方は子供たちの大きな励ましになり、生き方を考える原点になったのだろう。

40年たち、50年たち、無着成恭の実践の不充分さを指摘する人もこの人と出会うことの出来た喜びを隠そうとはしていない。ぼくは教員生活を終えようとするときに山びこ学校と出会った。もう少し早かったらという思いがある。刺激にもなり、点検軸にもなる〈戦後民主主義教育の記念碑〉である。


※ここまで書き終えてから本棚の奥に百合出版(1966年5月10日第9版)の『山びこ学校』を発見した。1966年2月27日の『朝日ジャーナル』の記事(「山びこ学校」杉浦明平)がはさみこまれているところを見ると、大島高校に就職した年に読んだものと思われる。横戸惣重「私たちが大きくなったとき」の「私の家には財産があり、機械があるというだけで、頭を下げられたり頼まれたりするのだ」のところに線が引いてある。今回も同じところに線を引いたのである。

明日の閉校式には無着さんや山びこ学校のリーダーだった佐藤籐三郎さんなども参列されるのでしょうか。これらの人々の友と村と社会を思い、どう生きたらよいかを考え、自分たちに出来ることに挑戦し続けた営みは、学ぶとはどういうことかと問う人々にヒントと励ましを与え続けるに違いありません。

「日本一あったかい北高校」

2009-03-02 08:24:20 | こどもたち 学校 教育
 今朝は高知のコニヤンのメールを読んで「喜び」や「嬉しさ」をしっかりと堪能する世界に引き込まれました。その事情を皆さんにも紹介します。

 <コニヤンからのメール>
拝復。
メールをありがとうございました。
すばらしい
昨日の感動の卒業式の
模様をアップしましたので
ぜひご覧下さい。
取り急ぎお礼まで。
コニヤン

 <さっそくに開いたコニヤンのブログ>

 宜しかったら皆さんも下の青い文字群をクリックしてみてください。3月1日に何があったか、が、コニヤンのこみ上げる喜びとともに知ることが出来ます。

 「感動の高知北高校定時制昼間部・夜間部の卒業式」

 http://blogs.yahoo.co.jp/gogokoniyan/47220099.html


 コニヤンがお子さんの卒業式のあと、保護者を代表して教職員に「謝辞」を述べることはその朝、知らされており、ぼくはお祝いのメッセージを送ったのでした。重なりますがコニヤンの「謝辞」を再録します。


   謝辞

保護者を代表しまして僭越ではございますが、一言ご挨拶をさせていただきます。

 私たち保護者は、子どもが日本一あったかい北高校で学んだことを誇りに思

っています。これも、ひとえに、北高校教職員の皆様のいつもあったかい、心

のこもったご指導、ご支援のおかげであると心より感謝申し上げます。



 さて、この場で、個人的なことを申し上げることをお許しください。

 私の息子のことをふりかえってみますと、北高校に入学するまでの道のりは、

親としても苦しかったし、それ以上に、息子自身は悩み、苦しんでいた時期がありました。

入学後も1年間は、私と、いろいろとぶつかりあうこともたびたびでした。

しかし、2年3年と歳を経るごとに、北高校で、あたたかい仲間や先生方と出会い、

息子は少しずつですが、人間としての幅を広げて大きく育ちました。

北高校で息子は、ほんとうに人間として生きていくために大切な「優しさ」を育んでいただき、

人間として生きていくために必要な「感性」を磨かせていただきました。

そして、「人間力」としての経験値が著しくアップしました。

 このことは、将来どのような苦しいことがあっても自分からやっていこうとする確かな

「自分づくり」となったと私は思っています。このことは、親としましても「宝物」だと思っています。

子どもの成長とともに私自身も親として、ずいぶんと成長したように思います。

私は、息子から、苦しいことがあっても、前向きに生きていこうとする

「肯定脳」という「魔法のメガネ」で世の中を見ていくことのすばらしさを教えてもらいました。

希望をもって前向きに生きていくことを教えてもらいました。

そうした、日々の心の耕しをていねいにしていただいた北高校教職員の皆様にあらためてお礼を言いたいのです。



ほんとうに北高校に行って学べてよかった、

ここにおいでの保護者のみなさんの共通の思いではないかと思います。

子どもも保護者もこの北高校で共に成長させていただきました。

本当にありがとうございました。

              

多分途中で泪のために私は、つまるだろうと予想される。

それでいいと思っている。

とにかく生のオヤジの思いを姿を

息子に伝えること。

こういう機会を与えてもらったことを

うれしく思っている。


  <お祝いのメッセージ>ぼくがコニヤンに送ったメール

息子さんが自ら選んで学んだ
学校である。この学校の何がどんな風に素晴らしかったかはぼ
くにはよく解っていないが、本人がよしとしているのであれば
その選択は正しかったのだろう。晴れの日を迎えた子と父に心
から祝福のメッセージを送りたい。
 コニヤンの言葉を受けて北高校の職員は大きな励ましを受け
ることだろう。大崎さんの心にかなった学校を創っていってほ
しいものだ。


 コニヤンの息子さんが進んだ高校が定時制昼間部の学校であることを初めて知りました。そこにはコニヤンの所を終えて入学する人たちも多いのですね。東京で言えばぼくが勤めていた新宿山吹高校のような学校です。
 コニヤンの息子さんは中学までは私立の進学校に通っています。高校生になるとき、自ら北高校を選んだとこのブログで読みました。15の少年がどんな思いから決断したことでしょうか。
 ぼくも私立の中学校の卒業生です。何時の頃からであったか学校のあり方に疑問を持ったことがあります。自ら強く望んで進学したにもかかわらず、これでいいのかという違和感のようなものを感じたのです。しかし、その疑念の根源を言葉に出来るようになるまでにはその後長い月日を要しました。
 コニヤンは北高校を「日本一あったかい」といい、「優しさ」を育んでくれたと述べています。学校の具体的な姿は見えませんがコニヤンが言っているからには社交辞令ではありません。<「優しさ」を育む>という言葉ほど、今の学校に縁の遠い言葉はないでしょう。見せかけの優しさは氾濫していますが。
 父親と葛藤しながらも父の仕事を尊敬していた15歳の息子さんの心が見えるような気がします。このまま進学したら見失ってしまうかも知れない「優しさ」という価値に彼は気づくことが出来ていたのでしょう。

 父と子がどう生きたらいいのかと切磋琢磨する世界をのぞき見て、いい思いをさせて貰いました。
 


万感胸に迫る絶唱 田月仙さん

2009-02-14 13:07:53 | こどもたち 学校 教育
 13日。昼寝をして体調を整えてからほぼ2時間かけて都立小山台高校に行きました。小山台高校定時制の第7回「こや定ふれあいスクール」に出席するためです。生徒たちが教員や大学院生と連携しながら人権について学びを深める「学校」です。
 今回のテーマは「家族の思い 人権は国を越えて」。
 
 最初に横田滋(しげる)・早紀江(さきえ)ご夫妻のお話。いつものように滋さんがめぐみちゃんがいなくなった日から今日までの経緯を話し、早紀江さんが母としての思いを語ります。03年7月20日に僕たちが主催した集会でお聞きしたのと骨格は変わりません。あれからでももう6年です。来る日も来る日も日本中を駆け回って協力を呼びかけるご夫妻の姿にぼくは合わせる顔がないような気持です。
 
 同胞が罪もなく拉致されたというのに政治家も国民も力を合わせて動こうとはしません。この日も早紀江さんが言っておられました。戦争以外のあらゆる方法で北朝鮮の独裁政権の手から拉致被害者を取り戻すことができなければ「日本」は融けて流れます。「国民」の実体、人間の核心の抜けた幽霊のような集団に化していくに違いありません。娘を奪われた一人の母親としてその胸ははち切れんばかりの筈ですが、一人の日本人として、一人の人間として、そのあり方を冷静に問う早紀江さんのきっぱりとした姿勢にぼくは心から共感します。
 国会の拉致問題特別委員会は何をしているのでしょうか。北朝鮮人権法に基づいて国民大集会を開くなどということは出来ないでしょうか。スローガンは一つ、「拉致被害者を帰せ」。場所は皇居前広場。呼びかけは全政党。この日は仕事を休み全国から100万人以上の参加を目指します。国民の怒りの心を結集し、独裁者に見せつけることが闘いの基本であるはずです。これに反対する政党があるのでしょうか。

 第2部は田月仙(チョン・ウォルソン)さんの独唱。4人の兄を北朝鮮の独裁政権に奪われ、3人が非業の死をとげています。在日コリアン二世のオペラ歌手です。引き裂かれた親子・姉弟・恋人…の思いを謳う絶唱が続きます。
 
 『夜明けの歌』『山河を越えて』『桜の悲しみ?』『歌劇 蝶々夫人から ある晴れた日に』『浜千鳥』『ふるさと』『故郷の春(韓国語)』

 あふれる思いを抑制して歌に託し、舞台に立つ姿はほんとうに凛々しい。ぼくは深い感動にとらわれ嗚咽寸前です。心の奥底から励ましを受けたともいえます。力強いのです。
 横に座っておられる早紀江さんも目頭を押さえています。中学生のめぐみさんが『流浪の民』が好きだったという早紀江さんのお話をふと思い出しました。

 横田さんご夫妻の目の前で歌うことは田さんにとってまたとない喜びではなかったかと思います。三つの心は響き合って深いところで固く結ばれていったのでしょう。そのようなまたとない場にいることが出来て私たちは最高の学びをすることができたのです。

 この企画を立て実行した生徒たちはどう感じたのでしょうか。それを知りたいのですが今日はここまででした。
 この企画は公開されており、保護者や卒業生も見えているようでした。残念なことは小山台高校の全日制の教師や生徒の姿が見られないことです。冒頭に校長の挨拶がありましたが、昼間の人々への呼びかけは為されたのでしょうか。このような機会を生かそうとしないでどうやって学校に命を蘇らせることが出来るのでしょうか。これは校長に聞いてみたかったことです。
 カツヨシさんと精さんと3人で遅くまで語り合いました。家についたのは一時前です。お陰で元気いっぱいです。
 
 

横田さんご夫妻と田月仙さん

2009-02-09 17:55:41 | こどもたち 学校 教育
 嬉しい報せが飛び込んできました。都立小山台高校の生徒たち(定時制)が企画した講演とコンサートの会です。

 横田ご夫妻を知らない方はおられません。田月仙(チョン・ウォルソン)さんは在日コリアンのオペラ歌手ですがお兄さんたちが北朝鮮に帰国した後に非業の死を遂げました。


田さん『海峡のアリア』の紹介 野村進さんの文章がぼくのお薦めhttp://www.wolson.com/books/wolson-Aria-media.html 


 こういう企画を立て実行する生徒たちと教職員がいる都立高校があることをぼくは誇りに思います。その願い応えて冬の夜に足を運ぶ横田ご夫妻と田さんには深い敬意をいだきます。学びの機会を与えてくれてありがとうございます。喜んで参加させて貰います。知友の皆さんご一緒しませんか。         
                   



                  東京都立小山台高等学校長
                             矢 作  洋

     人権教育公開授業のご案内


 余寒の候、ますますご清祥のこととお喜び申し上げます。平素より本校の教育
活動について、ご理解とご支援を賜り、感謝申し上げます。
さて、文部科学省人権教育研究指定校の取り組みである、第7・8回「こや定ふ
れあいスクール」を下記の通り実施いたしますので、ご案内申し上げます。今回
は、「家族の思い・人権は国を越えて」をテーマに、横田めぐみさんのご両親で
ある横田滋様、横田早紀江様ご夫妻のお話しとオペラ歌手として活躍されていら
っしゃる田月仙(チョン・ウォルソン)様の歌をお聴きします。
 ご多用中、誠に恐縮ではありますが、皆様のご参加をいただきたくご案内申し
上げます。

              記

1 授業テーマ 「家族の思い・人権は国を越えて」

2 日 時  平成21年2月13日(金) 
         17時30分~20時30分  

3 内 容  17時30分~18時15分 アニメ「めぐみ」上映
                      (地歴・公民科)
       19時00分~19時40分 横田滋さん、早紀江さんのお話
       19時50分~20時30分 田月仙(チョン・ウォルソン)さ
                     んの歌

4 場所   17時30分~ 本校視聴覚教室 
       19時00分~ 小山台会館3階ホール 

   小山台会館http://members3.jcom.home.ne.jp/sjk1962/conference/map_tokyo.htm



           
   
             

三鷹高校長への卑劣な仕打ち

2009-02-04 08:47:03 | こどもたち 学校 教育
<川越だより>
過去1週間の閲覧数・訪問者数(日別)


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  都立三鷹高校長:定年後の非常勤教員選考で不合格に
              (毎日新聞 2月1日)
 

 東京都教育委員会が職員会議で挙手・採決を禁止した06年の通知の撤回を求めている都立三鷹高校(三鷹市)の土肥信雄校長(60)が定年後の非常勤教員の来年度選考に応募したところ、不合格にされていたことが分かった。31日、土肥校長が都内で開かれた自身の支援集会で明らかにした。土肥校長は不合格を不服として取り消しを求める訴訟を検討する考えだ。

 土肥校長によると、今年3月末に迎える定年後も教育相談を受けたり、若手教員の支援に当たろうと、昨年12月に応募した。都教委から1月16日付で不合格を通知されたが、理由は不明という。土肥校長は「処分を受けたこともなく、何も悪いことをしていない。ぜひ不合格の理由を知りたい」と話している。

 土肥校長は都教委の06年の通知について「学校現場で言論の自由が失われている」と主張し、昨年5月からはメディアを通じて撤回を訴えてきた。都教委は同11月に一連の言動を問題視し、反省を促す措置を講じる方針を決めていた。【木村健二】


 あきれ果てる仕打ちである。都教委はならず者の集団と言う他はない。

 
東京都教育委員会委員は、次のとおりです。

(1月8日現在)
    委員長       木村 孟

    委員長職務代理者  内館 牧子  
    委員長職務代理者  坂 節三
    委員        竹花 豊
    委員        瀬古 利彦
    教育長       大原 正行

 朝青龍の品格を非難する内舘という人とマラソンランナーであった瀬古という人以外は思い起こすことが出来ません。内舘という人が並はずれた品格の持ち主であることはぼくにもわかります。瀬古さんも同列のならず者なのでしょうか。
 どうしたらこのような卑劣な決定を取り消させることが出来るのか、東京の教育に関わりを持つ全ての人が考えなければなりません。
 とりあえず、土肥さんに励ましの声を届けましょう。教育委員に抗議の声を届けましょう。自由な言論を封じたらどんなことになるか、学校現場で進んでいる荒廃を想像すれば、恐ろしい限りです。

 1月31日の集会の様子を報告するHPがあります。土肥さんの姿も映っています。http://wind.ap.teacup.com/people/2967.html

 





必読・大崎博澄前高知県教育長講演

2009-01-29 10:01:59 | こどもたち 学校 教育
 高知のコニヤンが大崎博澄さんの講演記録を送ってきてくれました。読んでいて心が震えました。
 「川越だより」を読んでくださる全ての方々に読んでいただきたいと思います。こういう知己を得た(?)ことをぼくは生涯の誇りとするでしょう。


 高知市教育研究所保護者会講演要旨 
     08/9/19 講演時間60分

 演題  <子どもの心に寄り添う>  大崎博澄

 今日は、不登校の子どもの心にどう寄り添うか、というテーマでお話したい・それは現代社会の中で、様々な悩みを抱えた子ども達にどう向き合うか、というテーマに共通する・お話することは一個人の意見であることのお断り

 ①不登校をどうとらえるか

 不登校は悪いことではない・不登校は、本人がそのために苦しんでいるのならつらいことだが、不登校そのものが悪いこと、マイナスイメージを持って評価されるべきことではない・現代のような競争社会、経済的利益最優先社会、様々な格差を容認する社会の中で、子どもが学校へ行かない、行けないことは、人間が健やかに生きていくための生物としてのきわめてノーマルな反応、健全な自己防衛反応、自己防衛行動

 不登校は本人の責任ではない・不登校になりやすい資質というものはあるかも知れない・しかし本人の資質は本人の責任ではない・集団に適応しにくい性質や性格というものはあるだろうが、それはその人の人間性の欠点ではない・人付き合いが下手、ということは少しも悪いことではない・私はそういう人が好き

 不登校は家族の責任ではない・家族の育て方は不登校という結果の原因ではない・私の息子の不登校は、私の遺伝子の責任ではない

 不登校はすべてのケースが違う・一律にくくるものさしはない・原因も結果も千差万別・最善の対応マニュアルは誰も知らない・尊敬する渡辺位先生の講演会で、子どもがテレビを壊した時、再びテレビを買ってやるべきか、否か、という親としては切実な質問が出た・渡辺先生の答えは、ひたすら子どもに寄り添え・その意味を後年になって私は理解した・ただし、今助言を求められれば、何が正しい対処か分からなくても、家族の決断を後押しする助言をする・それで家族の気持が休まればそれでよい

 不登校は、本人が学校に行けるような形にする、つまり、本人の病気を治す、という考え方に立たないことが大切・本人を治す、のではなく、不登校というような社会現象を引き起こしている社会や学校のあり方を治す、という考え方に私は立つ

 ②親としてどう向き合うか、私は不登校にどう向き合って来たか

 我が家のケース・誰も助けてくれる人はいなかった・今は「教育研究所」を設置している市もあり、県教委の「心の教育センター」もあり、思春期の問題を扱う「精神科医」もあるが、十五年以上前には、相談できる機関はなかった・誰も助けてくれなかった・松永佳子さんがリードしてくれていた「学校へ行かない子を持つ親の会高知」が唯一の支え・不登校の子を持つ親同士の「ピア・カウンセリング」がすべてだった・このグループは現在も元気に活動している

 親としての反省・そんなにつらいなら登校しなくてもいいよ、人生は学校がすべてじゃない、と、積極的に登校を止めた・本人は行けたかも知れない・その判断は限りなく難しいが・それ以上に、もう一歩も二歩も子どもの気持に踏み込んだ支援をしてやれなかったわたしの弱さを悔やむ

 不登校で得たもの・自分の生き方の芯ができたこと・いつ、いかなる時も社会的弱者の側に立つという確信が生まれたこと・人生の問題のすべてに、パーフェクトに対応することはできない・自分にできるベストを尽くせばよい・それしかない・人との出会いを大切にする・必ず理解してくれる人はいる・出会いの中で、人間への信頼を回復する、自分の心を豊かにする、人を愛する喜びを認識することができるようになったこと

 ③保護者は学校とどう付き合うか

 不登校は教員や生徒によるいじめなど、学校に責任があるケースも多いが、学校に責任がないケースもある・学校は信用できないし、誰かのせいにしたいが、すべての責任を誰かに負わせる発想は、問題をよい方向に進めることにつながらないことが多い・いろいろな人の力を遠慮なく借ること、しかし、自分で背負い切る覚悟も大事・パーフェクトである必要はない・ベストを尽くせばよい

 不登校に対する学校の認識は、まだまだ低いことが多い・学校という組織の欺瞞性はどうしようもないが、学校に敵対することでも、問題は解決しない・それは本人と親にとって一層つらい孤独な闘いになることも多い

 学校はオールマイティではない・もともと不完全な存在・すべての問題解決は学校にはできないものと、あらかじめ考えておく・ しかし、個々の教員の中には、本当の誠意、善意があることはしばしば・それには大いに頼ろう

 ④学校は不登校とどう向き合うか 

 学校が不登校の問題に真剣に向き合うことは、学校が教育の本質をつかむことができるチャンス・よい学校を作るチャンス・そうとらえると展望が開ける・他の教育課題に向き合う時も同じ・しかし、残念ながらそう受け止められる学校は少ない

 学校として、大切なことは、どんなに拒否されても、「学校はあなたを忘れていない」、というメッセージを送り続けること・その裏づけとなる、あたたかい仲間のいる学級を作ることに全力を注ぐこと・そして待つこと

 教育の本質は、はぐれた一頭の子羊を見捨てないこと・はぐれた一頭を見捨てる牧童は、群れ全体を見失う・常に、弱い立場に置かれている子どもの味方であるという認識に終始立ち切ること

 対症療法的対応には限界・スクールカウンセラー頼みでは、不登校問題の根本的解決はできない・それは、どんな教育課題にも共通する原則・教育課題の根本的解決は、三つの経営改善を通じた、ひとりひとりの子どもを大切にする学校づくりを通じてのみ可能性が開ける・三つの経営改善とは、教科経営、学級経営、学校経営の改善・その方法論はある

 ⑤行政は不登校とどう向き合うか

行政の認識もまだまだ低いレベル・ごまかす、かわす、逃げ回るのが行政の本質、宿命・それをどうやって乗り越えるかが、いつも行政に問われている・それを乗り越えるために孤独な闘いを挑む役人はほとんどいない・高知市教育研究所はその意味では特異な存在

 不登校問題は、不登校対策では解決できない・やはり、根本解決の道を追求すべき・それは、学校における三つの経営改善の取り組みに加えて、人、施設、予算など、教育環境の改善にお金を惜しまない政治の選択から・その選択をさせるのは、私達市民の責任・教育や政治に関心を持とう

 ⑥私達は人生をどう生きるか

 子ども達の不登校の問題は、私達おとなが人生をどう生きるかという問題・このチャンスを自分の人生を変えるために生かしたい

 不当な格差や差別を容認する世の中は間違っている・なればこそ、人生は生きるに値する・間違った世の中に組しない生き方を選ぼう・我が子の不登校から、自分の生き方を変える方向性を見つけよう

 心の傷は癒せない・生活の周辺に小さな楽しみを見つける・小さな楽しみの発見、その積み重ねが心の傷を覆う・傷は消えなくても、痛みはやわらぐ・小さなものを愛する好奇心と想像力が人生のピンチを救う

 ⑦最終テーマは「社会を変える」

 私の最終テーマは「社会を変える」・間違った世の中を変える努力をしよう・しかし、政治的な運動では社会は変えられないことは実証済み・新しいやり方を考える・目の前の困っている人を助ける・人間のやさしさ、市民の小さな意思を積み重ねていくことで、社会は変えられる・そう信じて生きよう

 出典  大崎博澄さんのたんぽぽ教育研究所http://sky.geocities.jp/hirosumi1945/

 コニヤンたちの職場で保護者を対象に行った講演だと言います。どことはいえません。ことごとくにぼくは同意し、深く共感します。

 ◎不当な格差や差別を容認する世の中は間違っている・なればこそ、人生は生きるに値する・間違った世の中に組しない生き方を選ぼう・

 ◎目の前の困っている人を助ける・人間のやさしさ、市民の小さな意思を積み重ねていくことで、社会は変えられる・そう信じて生きよう


 こんな力強いメッセージを送ることが出来る人が高知県の教育長だったのです。この方のリーダーシップで高知県の教師と親は少しは変わったのでしょうか。結局のところ大崎さんを追いつめ辞職においこんだのでしょうか?

 大崎さんがその人生を通じて得た生きることの喜び・人間への信頼は、しかし、揺らぐことはないでしょう。こういう方が土佐の高知におられるという事実はぼくを元気づけてくれます。大崎さんのHPを教えてくれたコニヤン、ありがとう。