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川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

けんちゃんの「二冊の卒業アルバム」

2011-03-02 11:05:26 | こどもたち 学校 教育

3月1日(火)雨

 カツヨシさんが編集してくれる「きいちご」7号の原稿整理で一日くれました。夜は春の旅第二弾(4月)「九州の友人たちを訪ねて」の立案のため、霧島市(鹿児島県)・人吉市(熊本県)・武雄市(佐賀県)などの古い友人たちと交信しました。学生の頃から社会人一年生の頃につきあってもらい世話になった方々です。年齢もみんな同じ。今度はそれぞれの方々の故郷に世話になる旅です。骨格がほぼまとまってきました。有り難いことです。

 あさ、高知のけんちゃんのブログの記事を読んで僕までもくやし涙を流しそうになりました。思い当たることがいろいろとよみがえってきます。

今日は県立高校の卒業式-2冊の卒業アルバム

 

39年前の1972年は、わたしは高校を卒業できませんでした。卒業を前提に前の年の春には卒業アルバムの写真も撮影し、アルバム代も支払っていたので、卒業できなかったにもかかわらず、クラス写真や個人写真にも掲載されています。(略)

 卒業できなかっただけでなく、「連合赤軍事件」も表へ出て、浅間山荘の「立てこもり」だけでなく、陰惨な「仲間殺し」「リンチ殺害の現実」が発覚し、大きなショックを受けたものでした。

 高校の勉学も放り投げ、当時「信仰」していた毛沢東主義が、その「象徴」の1であった連合赤軍。連合赤軍の支持者でもシンパでもありませんでしたが、毛沢東主義者の集団としてでは注目していましたから。それもすべて「幻想」であったことが、このときに明らかになりました。

 自分のしていたこと。努力をしていたことが全く無駄であり、徒労であった事実は、辛く重たいものでした。実に情けない高校生でした。

 主任の担任教師はしきりに自主退学を勧め、大検で大学を目指せ。留年しないでくれ、学校へこないでくれと言いました。15日の追卒業もさせてくれませんでした。一切の連絡もないまま、4月の登校日を迎える有様だったのです。

 それが留年し、大学へ合格してから学校の教師の態度が豹変しました。まともに生徒扱いしてくれました。そして2冊目の卒業アルバムもあります。ですので私には2冊高校の卒業アルバムがあるのです。

 遠い昔のことですが、「昨日のことのように」蘇ります。わたしを悪ざまにのにしった教師たちに街ですれ違うことがあったら、タダではすませないと思います。

 と「熱い気持ち」もありますが、居酒屋で一杯やっても良いとも最近は思うようになりました。年の功なのでしょうか?

●出典http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-c1cb.html


「けんちゃんの今朝の文章(卒業)を読んで悔しくて涙が出そう になっていました。」とメールを送ったらけんちゃんから丁寧な返信
をもらいました。勝手ながらその一部を紹介します。

 
 鈴木さんのような先生が当時の高校におられたら、
わたしは精神的に救われていたことであると思います。

 執拗に私を自主退学に追い込もうとした担任教諭は
当時の県教祖(日本共産党系)の活動家でした。
 彼らは当時わたしのことを「○○高校の反戦トロツキスト」と
ビラに書いて批判していました。そのビラを持参して私は
県教組に「取り消せ!俺は毛沢東主義者であって
トロツキストではない!」とか阿呆な怒鳴り込みをしましたから。

 管理職は独立高等教組系でした。そのどちらの労組からも
嫌われていました。ですので自主退学を執拗に奨めてくれ、
春休み期間中には高校からは一切連絡をいただけませんでした。

 母と2人で連合赤軍がひきおこした浅間山荘事件の
テレビを見ていました。

 当時母は頑張ってくれまして、世間体なんぞ気にせず
「この息子を留年させ、大学へ行かすから!」と啖呵をきりました。

「お母さんそれは絶対に無理です。自主退学して大検を
受けたほうが楽ですから。」と主任教諭は捨て台詞を残しました。

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-03bd.html

 そして新学期になり、4月8日の登校日に高校へ行きました。
「僕はどこへ行けばええがよ。」と職員室へ行きました。
「まさかお前が来るとは!」と言われ、半時間くらい
校長室の応接で待たされました。

「臨時職員会でお前のクラスが決まったぞ。ホームルーム
があるからそこへ行くように。」と教頭がいいました。
 行くとクラスみんなの視線が注がれました。真ん中の席が空席が
あり、そこへ座りました。(以下略)
 

 70年代の初めは社会や政治のあり方に関心をもち、発言をする生徒たちが少なくない時期でした。高知の高校の教師たちの無惨な姿が
浮かび上がってきます。是が現実だったのでしょう。
 ご両親の支えを得てけんちゃんは彼らのもくろみを打ち砕くことができ、今日までの道を切り開くことが出来ました。どなたの支えも得られず、文字通り
「孤立無援」を強いられて退学に追い込まれていく人の方が普通だったのです。東京でも事態は余り変わらなかったのではないかと思われます。

 ぼくが働いていた池袋商業高校でもこの年は珍しく校内でビラまき等をする生徒が数人いました。72年3月の卒業式当日にはどうしても卒業式には
出たくないと言います。それで生徒部生徒会担当だった僕は卒業式には出ず、彼女らの教室で行われたいうならば自主卒業式に出席しました。
M・MさんとH・Mさん、二人の姿は今も憶えていますが、ほかにもいたのかどうか。どんなことを話し合ったかは記憶していません。僕も学校や教師のあり方に
根本的な疑問を抱いて自分なりの闘いをしている最中だったのでそれなりの信頼関係はあったのかもしれません。自分で考え行動することが大事で
政治組織のコマにはなるまい…などと語り合ったのかもしれません。
お二人はその後どんな人生をあるいたのか。
 けんちゃんのブログに出会ってそろそろ4年になります。ほぼ欠かさず読ませてもらっています。高校生から大学の頃に身につけた思想ときちんと向かい
合って検証し、どう生きたらよいか、常に考えながら行動している人です。僕の目から見たらこれほどの人はそうはいない超一級の「市民」です。

 この春の旅でけんちゃんやその友人たちにはお会いできるかと楽しみにしています。僕の生徒だったMさんやHさんにもあってみたいものです。この39年を
どんな風に生きてきたか、語り合ってみたいなあ。
 
 


 


紀元節

2011-02-11 16:07:34 | こどもたち 学校 教育

今日は「建国記念の日」です。大日本帝国の時代の「紀元節」を1967年に衣替えして祝日として復活させました。

僕は48年小学校入学ですからもちろん「紀元節」の式典は知りません。しかし、高知県繁藤(しげとう)小学校の「紀元節校長」のことはよく憶えています。

1956年(昭和31年)2月23日の参議院文教委員会での清瀬一郎文部大臣答弁。溝渕校長がやった「紀元節式典」の概要が分かります。

○国務大臣(清瀬一郎君) 本年の二月十一日に高知県長岡郡大豊村のうちの繁藤小学校、この学校は小さい学校で、児童薮が百三十五名、教員が七名、学級数が六ということでございます。校長は溝渕忠広という人でありまして、本年の二月十一日に紀元節の式典のようなことを行なったという報道がございましたから、文部省ではさっそくその取調べをいたしました。衆議院でも報告いたしましたから、こちらも機会があれば申し上げてみたいと思っておったところでございます。
当時やりましたことは、二月十一日の午前十時全校の児童のほかに、村民有志も参列いたしたのでございます。そうして校長は開式の言葉を述べ、かの昭和二十一年の一月一日に人間天皇の御詔書というものがございます。自分は現人神じゃない、人間だ。国民との間は信頼と敬愛で結ばれるのだという有名な詔書でございます。それを読みまして、そこで校長が訓話をいたしております。その訓話の内容は、人間が生れたときには、やはり誕生日を祝うごとく、国が生れた日に相当することについては祝いをしていいのだという趣きの訓話をいたしまして、そのときに来賓が祝辞を述べ、次に紀元節の歌「雲にそびゆる高千穂」という歌を歌いまして、その次に学校の校歌、学校の歌があるとみえまして、校歌を斉唱して閉会の言葉を述べ、当日は土曜日に相当いたしましたから、かれこれでお昼になったとみえまして、子供には帰ることを許した趣きであります。

中2の3学期のことになるわけですが新聞紙上などで賛否が激しく対立していたことを記憶しています。「建国」「愛国心」「紀元節復活」等という言葉が飛び交う中で自分がどう考えたかはこの時期の日記をなくしたため分かりません。ただどういう訳か「雲に聳ゆる高千穂の…」という歌だけは今でも歌えます。下宿の老夫婦が教えてくれたのではないかと思われます。

●「紀元節」http://www.youtube.com/watch?v=2UvYla-aZzc&feature=related

歌詞は難しくて分かりづらいのですが「天孫降臨」や「神武東征」の神話の世界をそれはそれとして楽しんでいたのかなあ。日本史は勉強していたからそれを史実として受け入れるようなことはあり得ません。当時、学校では記紀は神話であることが強調され、中身を学ぶことはなかったと思います。

これから10年後には「建国記念の日」が制定されるのですから、溝渕校長の突出した行動にも保守勢力の根強い支持があったのでしょう。繁藤には溝渕校長と神武天皇の銅像が建っているようです。どういう人がいつ建てたのか、次の帰郷の際には見てきましょう。

●繁藤小学校・溝渕忠広像・神武天皇像http://ameblo.jp/7tv9/entry-10665595611.html

紀元節は明治期の近代天皇制国家確立の過程で作られた祝祭日で、BC660年2月11日が日本国の「建国」とは何の関わりもないことはいうまでもありません。神武天皇が即位したという橿原(かしわら)神宮自体、1890年に新しく作られたものです。

新国家樹立に当たって建国神話をあたかも事実のように国民教育することは政治の常道のようです。

僕の世代は北朝鮮の歴史教育にその典型を見てきました。金王朝誕生の作り話を史実としてすべての国民が生まれたときからすり込まれているのです。笑止千万だと僕には分かりますが北朝鮮の人々は疑うことすら御法度です。その手本が大日本帝国の歴史教育なのかもしれません。

さて、ならば「日本」はいつ建国されたのか?あなたならどう答えますか?

少なくとも「日本」という国号はいつきめられたのか?

網野善彦さんの本には「689年」と書いてあります。「日本」が外国(唐)から認められたのは702年だとのことです。古代天皇制国家が確立していく過程で「日本」と名乗ったと言います。「倭」という国名を使って中国の王朝に朝貢していたヤマトの支配層が律令を定め、中国と対等な自らの帝国を作る姿勢を明確に示したのです。

もちろんこのころの「日本」の版図には東北や南九州は含まれていません。今日の「日本」(北海道~沖縄)となるのは19世紀になってからのことですね。

歴史の本を読み解く力の乏しい僕でも網野さんの『歴史を考えるヒント』は解りやすくて面白い。良かったらどうぞ。

●網野善彦『歴史を考えるヒント』http://www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/600597.html

●「網野善彦氏の歴史学」http://www.scs.kyushu-u.ac.jp/~hatt/amino1.html


朝永振一郎学長の声が聞こえる

2011-02-08 13:57:55 | こどもたち 学校 教育

やや旧聞に属しますが東京教育大学新聞OB会のHP管理人の友人から朝永振一郎元学長の講演記録を登載したと言う知らせを受け取りました。

朝永さんが学長として桐花寮の寮祭に招待され寮の食堂で思い出話をしたのを大学院の学生だった方が録音してあったということです。1962年6月10日、学長の任期切れ直前のことだといいます。

このころ僕は2年生で「教育大学新聞」の編集次長(ニュース担当)でした。次期学長を選ぶ選挙運動期間中で号外を出す日々です。学生が支持する梅根悟教授と後に筑波移転を強行することになる三輪知雄教授の事実上の一騎打ちだったのです。寮に友人もいたのですが誘いを受けた記憶もないのはそういう事情だったのかもしれません。

今このテープを聴いてみると先生がお話しされる表情まで浮かんでくるようです。思えば朝永さんほど学生の尊敬と信頼、敬愛を一身に集めた「学長」はそうはいないでしょう。まるで寄席で落語を聞くような話っぷりのなかに学生たちに対する愛情が満ちあふれているのでした。

僕が朝永さんのお話を初めて聞いたのは入学式の訓辞です。懐かしくなって当時の日記を読んでみました。

1961・4・11(晴・曇)

有能な社会人に!朝永学長訓辞

大学は教育の場であるとともに研究の場である。学者にはならなくても研究者としての態度を忘れてはならず、少しでも学問の進歩に貢献しなければならない。

進歩とは学説を訂正していくことである。自然科学の法則が誤りを正すことによってよりよく進歩を遂げてきたように、諸君も先人の事業を進展しなければならない。

このように絶対正しい学説は存しない。学問をするものは常に謙虚でなければならない。とくに事実に対して。相手の論に十分耳を傾け、自分の論にも誤りがないかと考えてみなければならない。教室に閉じこもっているだけでいいということはない。サークルで自治会で社会人としての修練も積まなければならない。

ただその時にも謙虚な態度を失ってはならない。本学は心から諸君を歓迎する。

 

午前10時、朝永学長は静かに語り始めた。日本最高の自然科学者たるにふさわしいと思った。雄弁というのではないだろう。終始、ほほえみを浮かべて語りかけられた。ほほ骨の突き出た痩身の学長は以前「文春」のグラビアでみたよりも人なつっこかった。

今日から教育大学の学生になった。朝永学長、ほかの教官、先輩たちと学校の歯車になる。ほんとうに嬉しい。新しい生命が喜んでいる。

1,自分に出来ることは何でもやって自分を試してみたい。

2、自分に対して、そしてあらゆる人間と社会に対して責任をもてる人間になりたい。

事実に謙虚たれ。自分に謙虚たれ。他人に謙虚たれ。学長はこういわれた。

桐葉の下に教育大学生として最善を尽くす決意である。頑張るぞ。

 

読み返すと恥ずかしくなるところもあるが朝永先生の語りかけてくれる声が確かに聞こえてくる。

この機会に宜しかったらみなさんも朝永さんのお話に耳を傾けてみてください。

 

朝永振一郎学長の桐花寮での講演記録

(1)第三高等学校理科乙類時代の思い出

(2)京都大学物理学科時代の思い出

(3)湯川秀樹氏との関係
(4)仁科芳雄氏との出会いと仁科研究室について
(5)ドイツ留学時代の思い出

http://members.jcom.home.ne.jp/lionsboy/


池袋商業高校跡地がフランス人学校に

2011-01-08 23:28:17 | こどもたち 学校 教育
 1月8日(土)晴れ

 風もなく暖かい一日でしたが妻の風邪があと一歩なので家事をしているうちに暮れました。

 やや古いニュースですが池商の跡地がフランス人学校になるということです。知らない卒業生も多いと思うので紹介しておきます。

 僕はこの学校で1969年から87年まで18年間、教員生活を送りました。遅まきながら僕にとっては「疾風怒濤」の時代だったと言えるかも知れません。この学校で学んだことが僕の人生を豊かにしてくれました。生徒として出会った人々は今では大切な友人です。喜びと悲しみを分かち合うことができる人々ばかりです。

 2004年3月、牛込商業と統合し千早高校となりましたが、池商の跡地はそのままになっていました。

 学校として再生されるというのはgood news かもしれませんね。


    都立高跡地、仏政府に売却 12年度に国際学校移転
 

 東京都は14日、廃校にした都立池袋商業高校の跡地(北区・板橋区)について、フランス政府に約41億5千万円で売却する方針を固めた。フランス語で教育するインターナショナルスクールが2012年度に移転する予定。都は「外国政府への都有地売却はおそらく初めて」としており、関連議案を21日開会の都議会定例会に提出する。

 移転を予定しているのは、幼稚園から高校まであるフランス外務省管轄の教育機関「リセ・フランコ・ジャポネ・ド・東京」。計約千人が千代田区と台東区の2校舎で学んでいるが、校舎が手狭になったとして07年2月、都に購入を打診した。

 都財務局によると、池袋商高は04年3月に廃校となった。計2万1千平方メートルの敷地のうち、校舎などの建物と土地約1万2千平方メートルを売却。運動場やテニスコートがある約8800平方メートルの土地については、年間4300万円でフランス側に貸し付ける。

                2010/09/14 18:54 【共同通信】

 ●池袋商業高校 http://www.panoramio.com/photo/31803673


●リセ・フランコ・ジャポネ・ド・東京http://www.lfjtokyo.org/fondation/index.php?page=home&hl=jp_JP

スマさんの「母猫」

2010-08-12 10:59:08 | こどもたち 学校 教育
 日航ジャンボ機墜落事故から25年がたったという。25年前のこの日、ぼくは子どもたちと東松山の市民プールで遊んだ。自転車で帰る途中で飛行機を見た。家に帰って事故のニュースを知ってあの飛行機だったのかもしれないと話し合った。

 助かった少女のこと、坂本九のこと、毎年決まって家族の話題になる。今朝も同じだ。

   亡くなった多くの方々の冥福を祈ります。

 昨日は「よさこい祭り」のライブ中継を見ながら古本の第3次処分のため暑い中を動き回った。久しぶりに心は高知に帰って、少し昂ぶったかな。

 夜、高知県前教育長の大崎博澄さんの主宰する「たんぽぽ教育研究所」のHPを覗いてみた。4月の開所以来、心ある人のネットワークは着実に広がっているようだ。大崎さんの人柄を慕う人々が集い、元気になって、静かな革命の担い手になっていくのだろう。

 龍馬ブームだが龍馬の生き方や精神を学び、身につけて生きていくことこそが大事だ。そういう学びの場が今、高知の中心部に生まれた。

 TVで紹介された大崎さんの活動の様子をご覧になってください。

 ○大崎博澄さんhttp://www.tanpopo-k.net/top.html

 8月5日付の「コラム・たんぽぽ野原 No.3 悲しみを幸せに変える魔法の力」という文章の中で、ぼくたちが開所祝いに贈った丸木スマさんの絵「母猫」が研究所の壁に飾られていることを知った。

 「数匹の子猫を抱いた青い親猫の図は、見ていて心の安らぐ不思議な絵で、研究所のお守りです。」とコメントされている。「よかったなあ」。スマさんも喜んでくれるだろう。「お守り」とまで言ってくれて恥ずかしがるかな。

 ○「母猫」http://d.hatena.ne.jp/mmpolo/20080815/1218759018

 ○丸木スマhttp://www.aya.or.jp/~marukimsn/top/suma.htm 

 大崎さんのような方が高知に居られるのかと思うと私たちまで心強く、嬉しい気持ちになる。暑さの日々、無理をしないように気をつけていただきたいものだ。

都立大島高 惜敗

2010-07-15 10:20:46 | こどもたち 学校 教育
 7月14日(水)晴れ

 7時半には家を出て大田スタジアムに向かう。モノレールの大井競馬場前で下り、京浜運河を渡り、大井埠頭中央海浜公園を歩く。50年前僕が大井に住んだ頃にはなかった。この何十年間かで巨木が林立する立派な公園になっている。野球場など品川区のスポーツセンターになっているようだ。

 大井ふ頭中央海浜公園スポーツの森 http://www.tokyobaypark.net/oi_sports/index.html

 10時試合開始直前に三塁側の応援席に着く。今日は保護者のほかには数人の人影しかない。(バックネット裏に自民党の島村代議士の姿があった。両国高校OBか?)


 《試合結果》
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
両国 0 0 1 0 0 0 0 2 0 3
大島 0 0 0 1 0 0 0 1 0 2
【投手】両国:鈴木
大島:清瀬
【本塁打】大島:下村

 きびきびしたいい試合だった。好機に一打が出た両国が勝った。大島は8回裏、HRで一点を返した後、一死二三塁と攻めたてたが中心打者にヒットが出なかった。

 試合途中から京華高校の野球部の一団が現れ大島応援団に変身した。トランペットおじさんが回が変わるごとに演奏する校歌などに和して力強い響きが球場にこだました。先日、文京に負けた学校の一団も現れたがこちらは静かに観戦していた。

 二校はこの日試合があるわけではない。一二年生の部員が研修に来ていたんだろうか?
帰りに偶然あった京華の生徒に「ありがとう」を言うことが出来た。

 もう一つうれしいことがあった。
 
 球場を出たところに勝った両国の選手たちがたむろしている。その中に謙一くんの息子さんがいた。
 大学院に通いながら母校のコーチをしていると聞いていたので声をかけてみたのだ。ジュニアーはやはり父親にもよく似ていて昔から知っている人のような親しみを感じた。

 父の母校と戦って勝利したのはいいが、愛する島の学校が負けて複雑な気持ちのようだった。次は足立新田との3回戦だ。健闘を期待して握手して別れた。

 文京も岩倉に負けたという。これで僕の今年の応援は終わった。こどもたちの一人一人の人生をかけがえのないものだと思う。頑張って欲しいものだ。

 まだ昼前なので大田市場に行ってみた。昔の生徒の健治くんに会えるかもしれない。

 大田市場http://www.shijou.metro.tokyo.jp/tonai/01/m03.html

 市場内のお店(仲卸)に着いたらシャッターが下りていた。隣の店の方に聞いて今日が休場日だと知る。お互いよく知っている間柄のようでメッセージを託す。

 近くに東京港野鳥公園があるというので訪ねる。大田市場に隣接しているはずだが入り口がわからず難渋した。これも散歩だと思って歩く。着いたときには脚は棒のようになっていた。

 東京港野鳥公園 http://www.birdfan.net/gallery/live/tokyoko/



都立大島・文京 ともに勝ち進む

2010-07-09 19:52:32 | こどもたち 学校 教育
 高校野球のシーズンがきました。昨日は青梅線の東中神駅の近くの昭島市民球場に向かいました。偶然にも僕が在職中世話になった二つの高校の試合が連続して行われるというのです。

 この日の結果です。

 高校野球・東東京大会(1回戦) 昭島市民球場(9日)

             
朋優学院 0 0 0 0 0 0 0 0 0
文  京 2 0 1 1 0 0 2 1x 7


              
大  島 0 0 0 3 0 0 0 0 1 4
高  島 0 1 0 1 0 1 0 0 0 3


 木々の緑に囲まれた気持ちの良い球場です。僕がついたのは文京が4点目を入れた時です。部員とその保護者でなる応援団が盛り上がっていました。知り合いの顔はないのでバックネット裏の文京側で観戦。

 相手校にすきいるチャンスを与えることなく8回で文京が快勝。後半には背番号10番台の選手が次々に登場し、場内アナウンスやスコアボールドが混乱するほどです。次の試合に備えてみんなに本番のチャンスを与えたのでしょう。


 文京の応援団が去ったあとがそのまま大島の応援席です。こちらは高校生の姿はなく?、在京のOB・OGたちが数十人、一人、また一人とやってくる感じです。バックネット裏に近い僕の席の隣には大学生と思われるOBが数人陣取ります。始まる直前には今年も謙一くんが到着しました。多忙な仕事の合間に遠くからやってきたのです。気づいたらしくすぐに隣に来てくれました。

 ホームランで逆転した後追い付かれる接戦となりましたが9回の表の得点が効いて大島の勝利です。久しぶりに応援の喜びを味わいました。

 両校(文京・大島)が昨年対戦するのを見たことはすっかり忘れていて謙一くんに言われてやっと思い出すほどです。

  川越だより・09・7・16http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/af6d0eafc3390bd9dcd5efba3faa15cb

 
 両校の次の試合予定です。応援に行こうというOB・OGや元同僚の方がいたら教えてください。遠くても誰かに会えると思えば楽しみが倍加します。

 
 ○文京高 12日(月) 9時 (相手) 岩倉高校 神宮球場

 ○大島高 14日(水)10時 (相手) 両国高校 大田スタジアム

 
 埼玉大会も始り、川越初雁球場でも試合があります。来週はこちらのほうも観戦に行きます。

 相撲の中継はなくなったけれど白鵬には全勝を、魁皇には引き続き健闘を期待します。

 参議院の選挙の方は僕の考えに近い人が見つからず、困っています。旧勢力(自公など)の復活だけは阻止しなければならないと思いますが、与党側に「日本」を見据える骨太の候補者がいるのでしょうか。

五木の子守唄

2010-04-12 07:06:34 | こどもたち 学校 教育
 4月11日(日)曇りのち晴れ

 昼過ぎになると晴れ渡ってきたので旧市街地の花の名所を廻ってきました。新河岸川、喜多院などは「散り始め」と言ったところで、今年最後の花見をする人々で賑わっています。中院のしだれ桜はとうに葉桜。

 我が家の「一応庭」のコリンゴが花をつけ始めました。小さな苗を買ってきて植えておいたのが今は2階の屋根に届きそうな勢いです。屋根に干した布団に寝て「春日八郎」を聞く僕の目の前に見事な花を見せてくれるのも間もなくです。

 妻と一緒に「遊びの学校」に行っていたAくんは調子が良さそうです。夕食までの小一時間パソコンで唄の授業をしました。

 ①五木の子守唄http://www.youtube.com/watch?v=Q28LZgrqAmY

 ②正調・五木の子守唄http://www.youtube.com/watch?v=Wnj-tz8i8n8

 ③竹田の子守唄http://www.youtube.com/watch?v=oOYXS9dTtno

 ④島原の子守唄http://www.youtube.com/watch?v=ixzZRyZ2m9o

 ⑤ロンドンデリーの歌http://www.youtube.com/watch?v=QtvTJqPSENM

 ⑥すべての人の心に花をhttp://www.youtube.com/watch?v=sxO-X2Of96Q

 ⑦見上げてごらん夜の星をhttp://www.youtube.com/watch?v=eLmhRMl4kJk&feature=related 


 これらの歌のいくつかは僕の「倫理」で紹介するはずですがAくんの年には僕が入院・手術となって12月以降の授業ができなかったため、耳にすることがなかったようです。

 唄が好きでその道に進みたいとも思っている人でも「五木の子守唄」を聞いたことがないといいます。

 A君は不登校の時期が長かったためやむをえないのかと思いますがそうでない子供たちも同様ですから小中学校で教えていないのでしょう。

 そんなことでいいのかと、つい思ってしまいます。

「孤独」に耐えて生きてきたAくんには心に響きすぎる唄ばかりです。それでもお気に入りもあったようです。

 僕は「ロンドンデリーの歌」を中学か高校の時こんな歌詞で習いました。日本語の歌が見つからず、授業は他日を期すことにします。

  わが子よ いとしの汝(なれ)を 父君の形見とし
  こころして 愛しみて 今日まで育てあげぬ
  ふるき家を 巣立ちして 今はた 汝はいずこ
  よわき 母の影さえも 雄々しき汝には 見えず


 

温又柔(おん ゆうじゅう)さんの講演  

2010-03-10 06:25:09 | こどもたち 学校 教育
 昨日は雪になり、閉じこもりの一日でした。今朝見ると塀の上の雪は10センチはありそうです。でも、今日からは晴天が続き、寒い日々とはお別れと予報されています。
 明日あたりから野に出られるかと楽しみです。

 僕も会員になっている研究会のお知らせです。公開の研究会ですから関心がある方はどうぞ。僕も出かけられるかな。


   多文化共生教育研究会   第31回定例研究会のお知らせ

  揺れながら生きる・・・外国につながる子どものアイデンティティを考える

今回の研究会では、第Ⅰ報告に、江戸川区立葛西中学校で日本語学級を担当され
ている小川郁子さんに報告していただきます。小川さんは日本語支援に長く取り
組まれており、生徒を前にしての実践力は素晴らしいものがあります。その熱心
な姿勢は葛西中学・日本語学級へ多くの見学者がいることからもわかります。公
立中学の日本語学級で何ができるのか、何ができないのか、その可能性と限界に
ついて実践報告をしていただきます。
 

 第Ⅱ報告では、第33回「すばる文学賞佳作」を受賞された温又柔(おん ゆ
うじゅう)さんをお招きします。温さんは台湾生まれで3歳のとき父とともに来
日、その後都内の公立中学を出て、東京都立高校に通いました。自分の母文化、
母語と日本との関係について、また自分自身の心の揺れや悩みについて、子ども
時代のことから小説を書くにいたった経過などお話しいただきます。外国につな
がる子どもたちはどのようなアイデンティティ確立をしているのか、お話しいた
だき学びたいと思います。
みなさまのご参加お待ちしております(会員以外の方の参加もできます)。

《内容》

午後2時00分 ~ 第Ⅰ部 

テーマ 江戸川区立葛西中学での歩み 生徒たちと出会った日本語学級

報告者 小川 郁子さん (東京都江戸川区立葛西中学校・日本語学級教員)

午後3時00分 ~ 第Ⅱ部 

テーマ わたしが日本語で小説を書く理由
- 異なる文化と文化の間を揺れながら生きる心を表現したい -
 
講演 温又柔(おん ゆうじゅう)さん   (作家・すばる文学賞佳作受賞)

1980年台湾・台北生まれ。父の日本赴任により1983年より東京在住。
渋谷区立広尾中学校を卒業後、中国語が学べる環境に惹かれて都立飛鳥高校に進
学。2006年修士論文「日本人として生まれなかった日本語作家・李良枝(イ
・ヤンジ)の作品と主題」を提出し、法政大学大学院を修了。

 参考http://d.hatena.ne.jp/onmymind/20091022/p2
日時 2010年3月22日(月・振替休日)
   午後2時00分~5時30分

場所 立教大学 12号館地下会議室
      (東京都豊島区西池袋3-34-1)
       池袋駅西口徒歩8分

主催  多文化共生教育研究会

   http://www.j-mce.org/
     
連絡先 080-6515-2261               
tabunnka-e@jcom.home.ne.jp

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たんぽぽ教育研究所 オープン近し

2010-03-07 17:53:08 | こどもたち 学校 教育
 不順な天候続きで気が滅入りそうです。それでも昨日は「啓蟄」だったといいますから、春の日差しも遠くではありませんね。あれこれと楽しい想像をたくましくして自分を励ます日々が続きます。


 今朝のコニヤンのブログで大崎博澄さんの「たんぽぽ教育研究所」の概要が紹介され、発足の日が近いことを実感しました。

 コニヤンのブログhttp://blogs.yahoo.co.jp/gogokoniyan/50318895.html

 HPを開いてみると大崎さんの声が聞こえてきそうです。

 たんぽぽ教育研究所http://www.tanpopo-k.net/
  

 <たんぽぽ教育研究所がめざすもの>

すべての子ども達が、私達の住んでいる社会全体の希望です。
すべての子どもたちが、心豊かに育って欲しい。
そのために、人々のやさしさが路地裏の隅々にまで息づいている、
あたたかい地域社会が必要です。
そのために、私達ひとりひとりの小さな意思、小さな有機を積み重ね、
市民のゆるやかであたたかいネットワークを創りたい。
たんぽぽ教育研究所は、そんな人々の心の拠り所になることを目指します。


 高知県教育長として取り組んだ「土佐の教育改革」は失敗だったと総括して、今度は一市民として教育の創造に取り組むのです。

<人々のやさしさが路地裏の隅々にまで息づいている、あたたかい地域社会が必要です>

 今では夢のような願いかもしれません。しかし、それなしに人はまっとうに育つはずはありません。大崎さんの周りに集まる人々のネットワークがまずは「あたたかい地域社会」の第一歩になっていくことでしょう。

 高知に住む友人たちが大崎さんのテレパシーに感じてはせ参じてくれるといいのですが…。

  支えあうという関係がいたるところで崩壊し、子どもたちが「人を信頼する」という生存の条件自体が脅かされている社会です。

 先日は「山びこ学校」の無着さんの夢の実現を目指して河口湖畔に「教育村」を作るという庄司さんからコメントをいただきました。

 やり方はそれぞれですが、お二人の方の熱い志に励まされる思いです。

 4/1  たんぽぽ教育研究所 高知市南はりまや町にオープン !!




 







「君が代」の強制と裁判

2010-03-06 10:27:21 | こどもたち 学校 教育
 僕が卒業式に出たのは2003年3月が最後です。「嘱託」として働いていた最後の5年間のうち3回は卒業式の日を出勤日とせず、出席を回避していました(1回は手術後の休職中)。

 東京の公立学校では2004年3月の卒業式から君が代の斉唱を拒否すれば懲戒処分が下されるようになり、僕のような「嘱託」は4月から再雇用を解かれ、職場から追放されるようになったのです。

 僕は卒業式という場で君が代を「職務命令」で強制されて歌うことはできません。それでいて、学校での仕事は許される限りやりたい。やむを得ず、当日を勤務がない日ということにしたのです。

 少なくとも一年間、授業を受けてくれた卒業生たちの門出を祝いたい気持ちは人並みにあります。僕が働いていた山吹高校には不登校を体験した生徒も多く、「卒業」の重みは格別です。「よくがんばったねえ」と言ってやりたいのは誰もが同じでしょう。

 僕の授業を受けた生徒たちの中に文化祭で「君が代」について発表した人たちもいました。まじめに考えれば「強制」に疑問が出てくるのは自然なことです。校長との話し合いもしたのではなかったかと思います。

 そういう人たちの卒業式であっても僕は勤務がない日としました。教員としては「失格」といわれても仕方ありません。それでもやむを得ない選択だと考えたのです。

 2月23日に東京高裁において「君が代」解雇裁判の控訴審判決(奥田隆文裁判長)がありました。

 04年3月の卒業式の際、「君が代」斉唱を拒否したため、すでに決まっていた「嘱託」を一方的に解雇され4月から職場を追放された人々が、その解雇が無効だと訴えていた裁判です。
 当事者の方々は僕よりは二つ若い人々で現職最後の卒業式に臨み「国歌斉唱」時にそれを拒否して着席したのです。
 
  一審に続いて訴えは却下されましたが「判決文要旨」には次のようなことが書いてあります。
 

 「本件不起立行為は、控訴人らにとっては、その思想及び良心に基づく行為であるが、一般的には、それらの思想ないし良心そのものと不可分に結びつくものではなく、職務命令に基づき他の参加者とともに国旗に向かって起立し、国家を斉唱するという外部行為を求めることが、直ちにその思想及び良心自体を否定することになるものではない。」
 「他の参加者とともに国旗に向かって起立し、国歌を斉唱するという外部的行為を求めることが、国旗及び国歌に関する多数な思想のうちの特定の思想を有することを外部的に表明させることにはならず、特定の思想を強制又は禁止し、特定の思想の有無について告白を強要するものでもないから、憲法19条に反しない。」

 裁判官の言っていることの意味がわかりますか。僕にはさっぱりです。「文学部社会科学科法律政治学専攻」というところを卒業したことにはなっていますが授業にはほとんど出なかった罰があたったのでしょうか。

 こんな判決を書ける裁判官に訴えるしかない人々の思いとはどんなものでしょう。上告してさらに闘うといわれます。

 3月に入ってから懲戒処分を受けたことがある現職の人たちが新たに訴えを起こしました。これで裁判を起こした被処分者は700人を超えるということです。

 僕の古い友人が記者会見で思いを述べています。videoのところをクリックして視聴してみてください。

http://video.labornetjp.org/Members/YUMOTO/videos/3jisosyou.wmv/view


 日本国憲法第76条3項にはこう書いてあります。

「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。」

 最高裁判所の意思(判決)に忠実なあまり意味不明の言葉が並ぶ「判決」ばかりが目につきます。これらの裁判を担う裁判官に憲法76条をよく読んで自分の言葉で判決文を書いてもらいたいものです。

 虚しいことを書いてしまいました。

 検察の闇に迫る闘いがこのところ注視されるようになってきましたが司法の闇はいまだ深く手のつけようがないくらいです。

 どうしたら司法を民主主義のルールの下にコントロールできるか、新政権を誕生させた機会に取り組まなければならない喫緊の課題です。

性同一性障害

2010-02-12 09:25:05 | こどもたち 学校 教育
 昨日まで風邪で寝ていた妻が今朝は元気になって朝食の準備をしています。ありがたいことです。

 けさ、こんなニュースがありました。5年前Aくんに出会ってから僕はこの種の記事を切実感を持って読むようになりました。

 <引用開始>


<性同一性障害>小2の秋から「女の子」…性切り替え容認

                        (2月12日2時32分配信 毎日新聞)

 埼玉県の公立小学校が性同一性障害(GID)と診断された小学2年の男児(8)に対し、学年の途中から女児としての登校を認めていることが分かった。全校児童や保護者にも事情を公表している。専門家によると、小学校入学時に学校と相談し戸籍と逆の性で登校を始める例は学会で数例報告されているが、在学途中で生活上の性別を切り替えるのは初めてとみられる。これまで光が当たらなかった子どもの性同一性障害とどう向き合うか、議論が活発化しそうだ。

 ◇埼玉の公立小

 家族によると、児童は幼稚園の段階から体が男であることへの違和感があり、小学校入学後は男児用の水着を着たり立って小便することへの苦痛を激しく訴え、不眠がちになった。このため昨年2月に埼玉医科大のジェンダークリニックを受診、翌月GIDと診断された。主治医の塚田攻医師は診断書に「就学等の適応を阻害しないために女性として扱う配慮が望ましい」との意見を記した。

 学校側は主治医や親と相談し「本人の苦痛を取り除くことを最優先しよう」(校長)と判断。夏休み明けの同年9月、校長が全校児童に、母親がクラスの保護者に説明し、女児としての学校生活が認められた。

 児童は学籍は戸籍通り男児のままだが、男女別に整列する際や体育の授業などでは女児のグループに入っている。「からかわれることもあるけれど、スカートをはいて学校に行けるのがうれしい。女の子の友だちもたくさんできた」と話す。

 子どものGIDが公になることはまれだが、岡山大の中塚幹也教授らが当事者661人に聞き取り調査したところ、約8割が小学校高学年までに身体的な性別への違和感を覚えていた。さらに全体の約7割が自殺を考え、約2割は未遂などの経験があった。自殺を強く考えた時期は中学生が37%で最も多く、小学生も約13%。

 中塚教授は「今も多くの子が誰にも相談できず悩んでいるのでは」と推測する。GIDの当事者でつくる「性同一性障害をかかえる人々が、普通にくらせる社会をめざす会」の山本蘭代表は「個々の学校の対応に任せず、国として実態を把握し、教育現場の指針を策定してほしい」と話している。【丹野恒一】

 ◇性同一性障害

 身体的な性別と心理的な性別が一致せず、体に強い違和感を覚えて悩む疾患。正確な統計はないが、国内に少なくとも1万人以上いると推計される。04年に一定の条件を満たした成人に対し、戸籍上の性別変更を認める特例法が施行され、08年までに1263人が認められている。

  出典http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100212-00000005-mai-soci


 僕はAくんの学校時代は「Aさん」と呼んでいました。女性だと思っていたのです。書類の上では女性ですが本人は小さい時から悩んでいたのです。この少年と違ってほとんど天涯孤独の身ですから真剣に相談に乗ってくれる人もいなかったのでしょう。中学は不登校です。

 「自殺を強く考えた」… そうだろうなあと今は思うことができます。

 でもそれは今のことであって、それまではほとんど苦しみを想像することもなかったのです。僕よりは理解のある娘や妻につないで相談相手になってもらいました。

 皆さんはいかがですか。

 Aくんは長い熟慮の果てに性転換手術を受けることになりました。それ自体簡単なことではありません。高い費用と長い時間を要します。

 僕にはまだ本当のところ「そこまでしなければならないのか」という思いもあります。
 しかし、本人が決断したことです。僕も少しは勉強してA君の人生を応援していきたいと思っています。

 学校や社会の対応の遅れは深刻です。

 追加<引用>

 性同一性障害:理解求め手探り…女児として登校

         (毎日新聞 2010年2月12日 2時33分)

 「なぜ私は女の子なのに、男の子の体なの?」。性同一性障害(GID)に苦しみ眠れない夜を過ごしてきた埼玉県の小学2年男児(8)が昨年秋から学校に女児としての通学を認められ、元気に登校できるようになった。「学校に認めてもらえなかったらフリースクールを探すしかない」と覚悟していた母親(46)はひとまず胸をなで下ろすが、悩みは尽きない。【丹野恒一】

 昨年9月の始業式。校長は全校児童の前で語り始めた。「2年生に、体は男の子だけれど心は女の子の児童がいます。そのせいでずっと苦しんできましたが、思い切って女の子としてみんなの前に出てくることになりました。温かく見守ってください」

 母親は保護者懇談会で子どもがGIDと診断されたことを打ち明けた。「どうしても女の子として学校に行きたいと言っています。希望をかなえてやりたい。お願いします」。異論は出ず、女児としての生活が始まった。

 児童はもともと男女どちらでも通用する名前で、呼び名を変える必要はなかった。トイレは女性教員用を使っている。秋の運動会では、入場行進やダンスは女児のグループ。でも徒競走は「体力差がある」との理由で、男児と一緒に走った。母親は「髪を伸ばしているので男の子たちの中にいると目立ってしまい、一部の保護者に『あの子よ』と指をさされ、可哀そうだった」と振り返る。

 今後の心配は体つきや声が変わってきた時のことだ。西日本の小学校では周囲の児童や保護者に公表せず女児として入学した男児が高学年になっているが、水泳の授業はフリルの付いた水着を着て下半身を隠し、宿泊行事の際は寝間着が乱れても困らないよう、就寝後に教師が女児たちの部屋から運び出したという。一方、埼玉県の児童の場合は周囲も事情を知っている。学校側は学年が上がってからも、他の子たちとの関係がうまくいくような支援を手探りで考えていくことになる。

 母親は「心配なことを挙げればきりがないが、誰もが当然のように経験していくことをその都度クリアしていけるよう、精いっぱい手助けしたい。これをきっかけに、社会の理解が進むといい」と願っている。

【関連記事】
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 出典http://mainichi.jp/select/wadai/news/20100212k0000m040102000c.html

「15になった君へ」 

2010-01-07 07:24:16 | こどもたち 学校 教育
今朝のコニヤンのブログに職場の同僚の三浦さんという方が20年前に自分の生徒に送った詩が紹介されています。

 「教育支援センター」(不登校の子どもの教室)で働くようになった三浦さんの活動の原点を知るような気がします。

 今日は1月7日です。松の内のうちに私たちが生きていくときに何を大事にしていかなければならないかを問いかけてくれる言葉に出会いました。今年も元気に生きていくぞ、感謝の気持ちを持って紹介させてもらいます。声に出して読んでみましょう。

(こういう方と一緒に仕事ができるコニヤンは幸せですね。喜びの気持ちがブログから伝わってきます。)


「15になった君へ」 三浦文隆 

15の誕生日おめでとう
15の女の子にしては
心細いかと思われる道を歩いている君
だけど心細いと思わないでほしい
その道はとても大切な道
自分が自分であるために
AさんがAであるために
どうしても通らなければならなかった道
君にその道を歩かせたのは
弱い心やいじけた心じゃない
君にその道を歩かせたのは
君の生きる力
その他大勢ではなくて まず本当の自分
みんなに合わせて てきとうにするのではなく
本当の自分でどうしてもありたいとした
君の生きる力
その力にもちろん君は気がついていないだろうけれど
人間にとっては一番大切なもの
うまく上手に生きるのではなく
いかに自分らしく生きていくか
これは真剣に生きようとする人が
みんな持つテーマ
他の人より少し早く その苦労を知ってしまった
けれど
それはムダな回り道じゃない
とても有意義な回り道
将来、自分の足でしっかりと立って
ステキな人生を送るための
とても大切なステップ
せっかくの回り道
せっかくの時間
豊かな回り道にしてほしい
そして その道を歩いているのは
君一人じゃない
    1990.12.1記

  出典 コニヤンのブログhttp://blogs.yahoo.co.jp/gogokoniyan/50002104.html

原田敏章 東京高裁裁判官

2009-11-04 17:52:30 | こどもたち 学校 教育
 昨日は11月3日で「文化の日」ということで祝日でした。祝日法によればその趣旨は「自由と平和を愛し、文化をすすめる」となっています。1946年に憲法が公布された日ですから、その日を意識したものなのでしょう。
 元々は明治天皇の誕生日で明治時代は「天長節」、1927年(昭和2年)からは「明治節」とされていた日です。明治節は四大節の一つで天長節などとともに戦前戦中の国民意識(「忠君愛国」)涵養の柱をなす祝日でしたから新憲法の公布もこの日を卜したのかと思われます。

 このほかにも天皇や天皇制と関わりのある祝日はいくつかあります。元旦、建国記念の日、春分の日、昭和の日、海の日、秋分の日、勤労感謝の日、天皇誕生日などです。

 国民主権の国になったとはいえ、近代天皇制国家の伝統を祝日という形で受け継いでいることに驚きませんか?民主主義の時代になぜ?と思う人がいても不思議ではない日もあると思います。

 国歌「君が代」についても同じです。今の時代に国歌としてふさわしくないと思う人がいても不思議ではありません。民主主義を担う人材の育成を職業とする、学校の教師にそのような人が少なくないことはむしろ健全なことではないでしょうか。

 過日、こんな報道がありました。ぼくの目からすれば教育委員会はもちろんのことですが東京高裁の裁判官も常軌を逸していると思うのですが…。皆さんはどう思われますか。

  
 国歌斉唱時に不起立、再雇用不合格で元教員逆転敗訴
 

 東京都立高校の卒業式で、国歌斉唱の際に起立しなかったため、定年後の再雇用選考で不合格にされたのは違法だとして、元都立高教員の申谷(さるや)雄二さん(62)が、都を相手取り、不合格処分の取り消しと損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決が15日、東京高裁であった。


 原田敏章裁判長は「卒業式での不起立という職務命令違反を軽視することはできず、不合格は裁量権の乱用とはいえない」と述べ、211万円の支払いのみを命じた1審・東京地裁判決を取り消し、請求をすべて退けた。申谷さんは上告する方針。

 同種訴訟の原告団によると、国歌斉唱や起立をしなかった教職員の再雇用拒否を巡っては6件の訴訟が起こされ、高裁判決は初めて。1審段階では「適法」と「違法」とで判断が分かれている。

 判決によると、都教委は2003年10月、国歌斉唱の際の起立を義務付ける通達を出したが、申谷さんは翌年3月、都立高の卒業式で起立せず、戒告処分を受けた。申谷さんは定年退職の前年の06年10月、都教委に再雇用を申請したが、不合格になった。

 1審判決は「起立しなかったのは1回だけで、不合格は不当だ」と判断したが、この日の判決は「処分からさほど時間も経過しておらず、合理性を欠くとはいえない」と指摘。思想・良心の自由を保障した憲法に違反するとの主張についても、「個々の教諭が自己の心情や信念のみに従って行動したのでは、学校教育は成り立たない」と退けた。

        (2009年10月15日21時11分 読売新聞

 出典http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20091015-OYT1T01042.htm


 一回でも起立しなかったら教員として不適格で再雇用はしなくてもよいと都教委の不合格処分にOKを出したのです。
 ぼくも2001年3月の最後のHR担任の時、卒業式の国歌斉唱時に着席しました。04年以後だったら山吹高校での教員生活はなかったことになります。
 裁判官は「自己の心情や信念のみに従って行動」したかのごとく判決していますが、それは事実に反すると思います。
 ぼくの場合は自分の行動について生徒と保護者に手紙で説明し、当日は静かに座っただけです。学校教育全体のことを考えて行動したつもりです。後日、保護者から先生の行動はよく理解できたと手紙を貰ったり、ぼくのために「謝恩会」を開いて貰ったりもしました。学校教育は成り立たないとはどういう現実を指すのでしょう。民主主義の学校はいかにあるべきか、裁判官もよく考えるべきです。

 ぼくはその後も文京高校で一年勤めた後、定年後の再雇用で5年間働きました。こどもたちが心優しいのか、「不適格」と言われたことはありません。定年退職の時に、全校生徒が歓声をもって送り出してくれました。履歴書に書く「賞罰」欄は空白ですが、ぼくの心のどこかにありがたい出来事として刻まれています。

 人間ですから、神でも仏でもありません。様々な誤りを犯します。しかし、ぼくが知る限り、再雇用を拒否された人々が学校教育を成り立たせなくしたという事例はありません。むしろ、困難な状況の中で成り立たせようと努力してきた人が多いと思われます。

 原田敏章という裁判官はまさに「自己の心情や信念のみに従って」判決文を書いたのではありませんか。ぼくのような教員が「非国民」に見えるのです。そんな教員の存在を許せないのでしょう。
 しかし、これでは司法は成り立ちません。その適格性が問われるべきです。

 なお、この問題の根底には「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」という学習指導要領の一文があります。
 
 法律でも、政令でも省令でもない、文部省の役人が書いた一文が日本の教育を支配しているのです。このこと自体の問題点について改めて議論し見直すべきです。

 学習指導要領http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/11/09/990906h.htm

大崎博澄さん

2009-10-01 15:16:17 | こどもたち 学校 教育
 今日は10月1日です。夕べのうちに娘が新しいパソコンを使えるようにしておいてくれました。ノートパソコンにはかわりがありませんが画面が大きくなり利用しやすくなりました。体調も回復してきましたのでまたまた駄文をつづることができそうです。

 9月26日(土)大崎博澄さんが講演をされるというので明治大学に行きました。「開かれた学校づくり」全国交流第10回記念集会の冒頭で記念講演をされました。
 「子どもという希望 土佐の教育改革と私」

 大崎さんが高知県教育長として取り組んできた「土佐の教育改革」について総括と展望を語るものですが70分間僕は身じろぎもせず耳を傾けました。緊張感のみなぎる心のこもった講演だったのです。

 この改革運動は失敗だったとしてその原因を明らかにし、今後の課題に言及されました。僕は「土佐の教育改革」についてほとんど何も知りません。橋本大二郎知事のもとで「開かれた学校づくり」運動が10年近く展開されたらしいというだけです。大崎さんはその2年目くらいから教育長となり、責任者として全力を投入して運動を導いていきました。その運動が失敗だったというのです。

 メモをとるということをしない僕のことですから講演の内容を紹介することはできません。いずれ発表されるでしょうからそれをご期待ください。

 僕の印象に残ったことは自分が主導した運動の失敗をはっきりと認め、その原因を解明し、未来に生かそうとする誠実で熱い思いがそこに満ちていたことです。

 失敗や誤りを認めることは私たちただの人でも容易なことではありません。あれこれの成功例をあげて何とかごまかそうとしがちです。大崎さんは教育行政の責任者です。あちこちの学校であげた成果を紹介して胸を張ることもできるのかもしれないのです。しかし、それらの優れた実践は「突然変異」であり、誰が校長であってもできたといえなければ成功とはいえないといいます。

 改革の目的は子どもたちが行きたい、子どもたちが楽しいと思える学校を作ることです。このことなしに「学力の向上」などということもあり得ません。この究極的な目的を実現するために「ひらかれた学校づくり」が全県的に繰り広げられたのですが成果は乏しかったというのです。学校はなかなか変わらなかったということでしょう。

 僕には全県下の学校を「子どもたちが楽しいと思える学校」につくりかえようとした教育長がいたということが奇跡的なことに見えます。そしてそれがうまくいかなかったといってその責任を自ら明らかにしようとしているのです。
 
 ぼくは40年も教員をやって大崎さんと同じような願いを持って仕事をしてきたつもりですが、一つの学校はおろか一つの学級もそのその目的に近づけたとはいえません。それでも、定年になってまあまあ精一杯やったか、と自足しているところがあります。

 大崎さんは教育長ですから責任の大きさが違うのかもしれませんがその総括の厳しさに頭が下がります。職を解かれた後も大崎さんを慕う人々から届く子どもたちの声にならない声が大崎さんの心を揺さぶり続けるからでしょうか。いじめ、不登校など、げに学校は何一つ変わってはいないのです。

 講演が終わって挨拶したのですが一瞬僕は言葉を発することができませんでした。困難な課題に挑戦する大崎さんの誠実な生き方に感動して胸がいっぱいになったのです。

 勝義さん、精さん、妻と4人で大崎さんを東大前の「馥苑(ふうえん)」に誘って夕方まで交流しました。誰もが初めて会う人同士です。大崎さんは同じ時代を生きてきたとはいえ僕には想像することさえ困難な人生を歩いて自己を確立してきた方です。過去と現在をオープンに語る大崎さんに触発されて誰もが心の扉を開いて交流します。

 大崎さんからメールが届きました。

 いやいや、東京では大変お世話様になり、ご馳走になり、ありがとうございま
した。鈴木さんにお会いできたこと、お話を聞いていただき、お聞きすることも
できたこと、本当に嬉しいことでした。
 (略)
 ついつい肩に力が入りすぎる性格ですが、ぼつぼつブレーキも踏みつつがんば
ります。
 また、高知で再会できればと願っています。ああ、感謝(コニヤン風)


 かつて「こういう知己を得た(?)ことをぼくは生涯の誇りとするでしょう。」と書いたことがあります。

 必読・大崎前高知県教育長講演記録http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/2d6a3e2b9a7b52e84d86642f10bb4074

 今、実際にお会いして「知己を得た」喜びをかみしめています。これからは本当にぼちぼちやってほしいものです。大崎さんを応援する実業家の協力で来春には高知市のど真ん中に「たんぽぽ教育研究所」がオープンする運びだとか。子どもが行きたいという学校を作る草の根の市民のよりどころになっていくことでしょう。