7月16日 梅雨明けの太陽が照りつける野球日和。
本川越~東村山~国分寺~武蔵境~多摩と乗り継いだあと人見街道を1kmぐらい歩くと明大球場です。心が躍るのか足取りも軽く?試合開始15分くらい前には到着。
観覧席はバックネット裏にしかなく一塁側が大島、三塁側が文京です。今年も大島OBの謙一くんが早めに来ていて声をかけてくれました。「どうしますか」と座り場所を心配してくれます。文京側を見回したところ知っている人の姿はないので躊躇無く、謙一くんの隣りということにします。
外野の後方に森があり、彼方に青空が広がる絶好のロケーションです。「白雲なびく駿河台」ではありませんが白い雲が3つ4つ浮かんで画のようです。
試合は「実力の差」というべきか、文京が2回を除く毎回得点で圧勝。大島に同点に追いつくチャンスはついに無いままです。熱戦を期待していたぼくにとってはちょっと残念。文京は都立の野球重点校?の一つになっているようです。引き続き頑張ってほしいものです。
この日は球場の都合なのか「鳴り物」入りの応援は禁止だということで文京のブラスバンドも大島名物のトランペットおじさんも姿をみせないせいか、盛り上がりに欠けるスタンド風景でした。それでも仕事のやりくりをつけて駆けつけたOBが大島側には多いようです。
2009年7月16日 明大球場
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
文京 1 0 2 3 2 1 1 10
大島 0 0 0 1 0 0 0 1
【投手】 文京:篠原→水沢→渡部
大島:板垣→宮本→清瀬→白井
この日、ぼくには嬉しいプレゼントがありました。試合が始まって1時間も経った頃のことですがどことなく見覚えのある方が スタンドの通路から人捜しをしています。旧同僚の田端克敏さんです。
駆け寄って40年ぶりの再会を喜び合いました。「川越だより」を読んでくださって千葉県から3時間もかかってやってきてくれたのです。今日は定期検診の予定を午後にまわしてもらったと言われます。本当にありがたい限りです。
ぼくが大島に赴任したとき、同年ながら先輩教師であった田端さんたちがいろいろとコーチしてくれたことはこのブログでも書いたことがあります。
68年8月、私たちが結婚して妻が来島したとき、五目ご飯を造って歓迎してくれたことは今も我が家の語りぐさです。
私たちが教員住宅に帰ってくると田端さん、中村さん、森さんの3人が五目ご飯を造っている最中でした。慌てたのは3人です。風呂場の金盥を利用していたのです。妻がびっくりするのではないかと「よく洗ってあるから大丈夫ですよ」と一生懸命にいいわけをするのです。
この時の五目飯には感心したと妻は言います。具の椎茸とレンコンがそれぞれに別仕立てに調理されており、椎茸は甘辛く、レンコンは甘酢で酢蓮(すばす)に仕立てられていたのです。調理人たちの心がこもった御馳走を妻が喜んだのは言うまでもありません。
もう40年以上昔のことです。このような同僚に恵まれたおかげでぼくは何とか教員の仲間入りが出来たのです。
田端さんは55歳で教員を辞し、中国・中央アジア・ロシアなどで日本語指導に従事しました。なれぬ地で夫婦が力を合わせて活躍された記録は今でもHPで読むことが出来ます。
済南の風http://genkigaderu.net/contents/essay03/main/index.html
なんと言えばいいのか、ぼくにはとても想像が出来ない最前線での「先生」です。よろこびが多く伝わってきますが並大抵の仕事ではありません。お二人ともそれぞれに健康を損なって引退されました。
病院の約束時間があるので試合中に帰られました。ぼくが思ったより元気なのを喜んでくれました。
機会をつくって田端さんたちのこの10数年の歩みをじっくりと聞かせてもらいたいと思います。中国各地はもとより中央アジア、ロシアなどで若い人たちと暮らした日々は何ものにも代え難い貴重な体験です。
出来ることなら大島で若い日をともに過ごした同僚たちと一緒に。
田端さんご夫妻の健康を祈ります。
本川越~東村山~国分寺~武蔵境~多摩と乗り継いだあと人見街道を1kmぐらい歩くと明大球場です。心が躍るのか足取りも軽く?試合開始15分くらい前には到着。
観覧席はバックネット裏にしかなく一塁側が大島、三塁側が文京です。今年も大島OBの謙一くんが早めに来ていて声をかけてくれました。「どうしますか」と座り場所を心配してくれます。文京側を見回したところ知っている人の姿はないので躊躇無く、謙一くんの隣りということにします。
外野の後方に森があり、彼方に青空が広がる絶好のロケーションです。「白雲なびく駿河台」ではありませんが白い雲が3つ4つ浮かんで画のようです。
試合は「実力の差」というべきか、文京が2回を除く毎回得点で圧勝。大島に同点に追いつくチャンスはついに無いままです。熱戦を期待していたぼくにとってはちょっと残念。文京は都立の野球重点校?の一つになっているようです。引き続き頑張ってほしいものです。
この日は球場の都合なのか「鳴り物」入りの応援は禁止だということで文京のブラスバンドも大島名物のトランペットおじさんも姿をみせないせいか、盛り上がりに欠けるスタンド風景でした。それでも仕事のやりくりをつけて駆けつけたOBが大島側には多いようです。
2009年7月16日 明大球場
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
文京 1 0 2 3 2 1 1 10
大島 0 0 0 1 0 0 0 1
【投手】 文京:篠原→水沢→渡部
大島:板垣→宮本→清瀬→白井
この日、ぼくには嬉しいプレゼントがありました。試合が始まって1時間も経った頃のことですがどことなく見覚えのある方が スタンドの通路から人捜しをしています。旧同僚の田端克敏さんです。
駆け寄って40年ぶりの再会を喜び合いました。「川越だより」を読んでくださって千葉県から3時間もかかってやってきてくれたのです。今日は定期検診の予定を午後にまわしてもらったと言われます。本当にありがたい限りです。
ぼくが大島に赴任したとき、同年ながら先輩教師であった田端さんたちがいろいろとコーチしてくれたことはこのブログでも書いたことがあります。
68年8月、私たちが結婚して妻が来島したとき、五目ご飯を造って歓迎してくれたことは今も我が家の語りぐさです。
私たちが教員住宅に帰ってくると田端さん、中村さん、森さんの3人が五目ご飯を造っている最中でした。慌てたのは3人です。風呂場の金盥を利用していたのです。妻がびっくりするのではないかと「よく洗ってあるから大丈夫ですよ」と一生懸命にいいわけをするのです。
この時の五目飯には感心したと妻は言います。具の椎茸とレンコンがそれぞれに別仕立てに調理されており、椎茸は甘辛く、レンコンは甘酢で酢蓮(すばす)に仕立てられていたのです。調理人たちの心がこもった御馳走を妻が喜んだのは言うまでもありません。
もう40年以上昔のことです。このような同僚に恵まれたおかげでぼくは何とか教員の仲間入りが出来たのです。
田端さんは55歳で教員を辞し、中国・中央アジア・ロシアなどで日本語指導に従事しました。なれぬ地で夫婦が力を合わせて活躍された記録は今でもHPで読むことが出来ます。
済南の風http://genkigaderu.net/contents/essay03/main/index.html
なんと言えばいいのか、ぼくにはとても想像が出来ない最前線での「先生」です。よろこびが多く伝わってきますが並大抵の仕事ではありません。お二人ともそれぞれに健康を損なって引退されました。
病院の約束時間があるので試合中に帰られました。ぼくが思ったより元気なのを喜んでくれました。
機会をつくって田端さんたちのこの10数年の歩みをじっくりと聞かせてもらいたいと思います。中国各地はもとより中央アジア、ロシアなどで若い人たちと暮らした日々は何ものにも代え難い貴重な体験です。
出来ることなら大島で若い日をともに過ごした同僚たちと一緒に。
田端さんご夫妻の健康を祈ります。
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