goo blog サービス終了のお知らせ 

川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

カリヨン気仙沼公演 二世代の熱演

2012-08-11 07:32:31 | 出会いの旅

 8月3日(金)

カリヨンの大震災復興支援コンサートが気仙沼・愛耕幼稚園であるというので僕らも観客の一員にしてもらいました。平松あずささんを中心とする若い音楽家たちのグループです。

 幼稚園は夏休み中ですが定刻の10時半にはホールは親子連れでいっぱいです。

 熱演にほだされていつしか幼稚園児になっていました。たまに聞き知っている歌に出会うとどら声が自然に出てきてからだがゆれます。これはこれでなかなかいい。

あずささん一行は川崎から9時間かけてワゴンできたといいます。お連れ合いが運転し、ふたりのお子さんも一緒。お母さんはファッションとお化粧の担当、お父さんはヴィデオ撮影。

家族がひとつになってお友達とともに社会の一員としての務めを立派に果たしています。本当にすごい家族だなあ、あらためて思ったことでした。

あずささんのブログを覗いて見ました。精一杯、ひたむきに生きる音楽家の思いに触れた気がしました。

 あずささんのブログ●http://ameblo.jp/carillon-music/entry-11321450354.html

写真: カリヨン公演の応援団じいさん組

 カリヨン気仙沼公演応援団じいさん組

右はあずささんのお父さん(僕のがん友)、真ん中は気仙沼の村上さん。娘さん夫妻があずささんのお連れ合いの友達だということで村上さんご夫妻がカリヨン気仙沼公演の実行部隊を買って出たようです。カリヨンの公演を支えたのは親の世代であったのです。これもなかなかです。

若い人たちのまっすぐな思いをきちんと受け止めてその公演の成功に力を貸した爺さん婆さん組(ゴメン!)に心から拍手を送ります。

あずささん父君のブログ●http://m-heychan.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/81-3-7bcf.html

 

 

 


復興への胎動  陸中・陸前海岸

2012-08-10 09:14:07 | 出会いの旅

8月2日(木)

宮古から気仙沼まで陸中陸前海岸を走りました。南下につれて津波の被害が深刻です。

①重茂(おもえ)

美しい宮古湾に沿って走った後、重茂半島を一周しました。ここは30年ほど前、家族で訪ねた印象深い土地です。立派に整備された重茂港に昔日の面影はありません。その港が破壊はされたのですが復興は着実に進んでワカメの水揚げも始まっています。

 明治の大津波でやられ学校は高台に移転したとこの碑にはかかれていますが、このあたりの民家は今回もまたきれいさっぱりやられてしまいました。

 ②大船渡

山田・大槌の惨状は筆舌に尽くしがたいものです。町全体が巨大な廃墟となりました。読者が訪問して目にすることをお勧めします。

 大船渡港では瓦礫の山の近くで祭りの準備が進んでいました。御用済みの港湾整備の船を利用してステージが作られています。大漁旗がはためいています。地元のTV局とラジオ局が取材中です。港町らしい祭りの復活です。

③陸前高田

壊滅した街でも松林はそれなりに残っているように感じましたが高田は別です。彼の「一本松」だけが遠くに見えます。このあたりから「立ち入り禁止」です。

 

④気仙沼

港からは遠くない住宅地に押し寄せてきた船は一年5ヵ月後もそのままです。多数の民家が押しつぶされたといいます。

 夜、地元の方の案内で「カリヨン」一行が「家庭料理さかい」で夕食会。私たちも加えてもらいました。

モウカサメの心臓の刺身というものをはじめて食べました。さすが、気仙沼です。ビルの2階にあるお店の天井近くまで津波が来たといいます。

 


子ぐまの歓迎 田老の悲劇 

2012-08-02 08:07:47 | 出会いの旅

8月2日(木)晴れ

 宮古の休暇村にいます。快晴。

昨日は黒崎の定置網漁師さんたちとの交流のあと、鵜の巣断崖展望台駐車場で子熊の歓迎を受けました。

 妻の車が近づくまでこちらを向いていました。写真撮影は残念ながら間に合わず。

8月1日は44回目の「結婚記念日」。よい思い出になりました。

夕方になって宮古市田老の惨状を見ました。街がすっかり消えています。

 

二重三重に防潮堤を張り巡らせたのが逆効果になったといいます。高い堤防のため海の様子がわからず、送られてきた信号をキャッチすることもできなかったのです。また、堤防への信頼が避難を躊躇させた面もあったようです。

「安全神話」がここでも悲劇を大きくしました。ガイドの女性がのどを詰まらせながら話をしてくれました。

ここをたずねるのは40年ぶりです。昭和8年の大津波の被害を受け「万里の長城」とまで言われる立派な堤防を築くなど津波対策で有名な町でした。その堤防が逆効果をもたらした事実を全国民が検証すべきです。

田老では街を高台に移転するようですがどういうわけか14mもある高い堤防を築く計画もあるとか。

今日はこれから宮古・釜石・高田などを経て気仙沼に向かいます。三陸海岸のすばらしい景観と地震津波被害の現実を交互に体験しています。


新造船でがんばる  元マグロ漁師との嬉しい出会い

2012-08-01 07:05:33 | 出会いの旅

8月1日(水)晴れ

岩手県久慈市の山根温泉ベッピンの湯に泊まっています。山里の湯で本当に入るとすぐに肌がつるつるになる気持ちのいい温泉です。目覚めたので深夜にも入りました。

 昨日は暑い一日だったので予定を変更し岩手町から北上山地を横断する国道281で久慈に向かうこととしました。

葛巻高原牧場でゆっくり過ごしました。この町は村おこしに懸命でワインの醸造にも取り組んでいます。昔の北海道池田町を思い起こさせます。自然エネルギーの開発に努めているところは高知県梼原町と同じです。

 平庭高原を経て2時過ぎに久慈の海岸に到着。国家石油備蓄基地に付設の水族館「もぐらんぴあ」は壊れたままのようです。

 近くの海岸で昆布干しをしているおばさんに会いました。津波の後も昆布の生育は順調で流れ寄る昆布を拾い集めて浜に干しているとのことです。せっかくここまで来たのだからと昆布をたくさん持たせてくれました。

 小袖海岸は岩の景観が優れています。高い岩のあちこちにスカシユリが美しい花を咲かせています。

小袖漁港で新品の船の手入れをしている漁師さんに会いました。この港では船はすべて流され粉々になったそうです。今、港は何もなかったように復活していますが船は確かにどれも新造船です。百数十万円をかけて購入し、昨年からあわび・こんぶなどの漁にがんばってきたようです。

 お話をしていてこの漁師さんが若いころに高知県室戸岬のマグロ漁船に乗っておられたと聞きました。山下巌さんの所有する「福丸」?か。久慈の水産高校を出て室戸のマグロ船に乗って大西洋で活躍したのです。室戸の様子も覚えておられます。

 宿毛の貨物船に乗った後、数年前にリタイアーして故郷に帰ったのです。

僕はもうすっかり嬉しくなりました。中川豊さん。60歳になられたとか。一緒に写真をとらせてもらいました。

福丸の船長は「福岡さん」だったといいます。僕の同級にも福岡くんは二人もいるなあ。いつの日か、奥さんと一緒に室戸に来てくださいとお願いをしました。行きたいなあとおっしゃってくれました。

 


陸中・陸前海岸 被災地を訪ねる旅

2012-07-30 03:21:54 | 出会いの旅

昨夕、勝義さんから横浜の新居の住み具合がいいと報せがありました。8月20日過ぎまで旧居の片づけで浦和にもちょくちょく見えられるそうです。暑い最中の転居です。無理がないようにと願っています。

 娘たち夫婦は昨日、国会包囲行動に参加するために東京に来ていたようです。僕は旅に備えて暑い家にこもりっきりでした。

今日はこれから陸中・陸前海岸のたびに出かけます。東日本大震災の被災地のたびの二回目です。

8月2日・3日、がん友.平松さんの娘さん・平松あずささんの復興支援コンサートが気仙沼の幼稚園で行われます。

 平松あずさ先生のプロフィール写真です 

8月1~3日 宮城県気仙沼 復興支援コンサート 葦の芽幼稚園
葦の芽星谷幼稚園
愛耕幼稚園

 

暑いさなかですがそれに合わせて岩手県北部から宮城県北部までの海岸を訪ねることにしました。例によって宿泊地が決まっているだけの行き当たりばったりのたびです。

気仙沼・釜石・宮古・八戸。三陸の港町は祖父たちが世話になったところで幼いときから馴染んだ地名です。40年前に列車とバスと徒歩で今回とは逆のコースをたどったことがあります。震災と津波が大打撃を与えましたが、どんな風になっているのか、この目に焼き付けておきたいと思います。

 いつもながら新幹線とレンタカーの旅です。運転する妻も67になりましたから無理はできません。4時には宿について夕食前にゆっくり温泉を楽しめるようにつとめます。

 Facebookに写真を送るようにします。「川越だより」は出せるかな?

 

7月30日(月) 大宮=一関   Hサンルート(泊)

   31日(火) 一関~二戸~久慈  新山根温泉・べっぴんの湯(泊)

8月1日(水)  久慈~普代~田野畑~田老~宮古 休暇村陸中宮古(泊)

   2日(木)  宮古~重茂(おもえ)~釜石~大船渡~陸前高田~気仙沼  Hパールシティ(泊)

   3日(金)  平松あずささん公演 ●http://www.carillon-music.jp/concerts.html  休暇村気仙沼大島(泊)

   4日(土)  気仙沼~一関   一関=大宮

 


在りし日の歌志内炭鉱 空知の旅②

2012-07-29 03:01:10 | 出会いの旅

7月10日

 小山義幸くんは僕の最初の生徒の一人で高校生のときからよく付き合ってくれた人です。三つ違いの弟の省悟くんとは東京の学校に転勤してから付き合いが深まりました。いつのころか、二人が炭鉱離職者の家族で故郷が北海道・歌志内だと知りました。

 今回の旅の二番目の目的は二人の育った炭鉱町の昔日の姿を探ることです。1948年(昭和23年)生まれの義幸くんは中二までここで育ち、伊豆の温泉町を経て大島に定住したということです。ちょうど半世紀前のことです。

 僕が義幸くんにであったのは1966年、彼が大島高校3年になったときです。 社会科の教師で炭鉱離職者のことはそれなりに知っていたはずですがそれが義幸くんの人生と深くかかわっていたと気づいたかどうか?「教える」ことに夢中で一人ひとりの生徒の生活の背後に思いをいたす力が備わっていなかったのです。

 人生が終わろうとするときに訪ねて何かの意味があるとは思えませんが親しく付き合ってくれた二人の少年期をふるさとの景色の中で想像してみたかったのです。

 ①チロルの湯 炭鉱跡から湧出する温泉を利用した宿。一泊二食が6000円台と安い上に料理人の行き届いた配慮が感じられる献立。

空知の宿に選んで本当によかったなあ。

 ②住友歌志内鉱 中村地区炭鉱住宅街

迷い込んだ旧炭住街で木戸さんという女性がいろいろと教えてくれた。炭住の土地は市のものだが閉山後家屋は個人が買い取って補修しながら住んでいるという。

中村旧炭鉱住宅 木戸さんのお宅 4軒長屋であったが手前の一軒が取り壊された。取り壊しに金がかかるので人がすまなくなった家が廃屋になっている例が少なくないという。木戸さん宅はほぼ昔の姿のままだという。

 

 木戸さんは歌志内中OG、1947年(昭和22年)の早生まれというから義幸くんより二学年先輩。近年同期会があったという。名簿作りは困難を極めて集まりはこれで終わりにするということになったらしい。

 ③『炭鉱の記憶』http://www.city.utashinai.hokkaido.jp/hotnews/detail/00000346.html

 小山兄弟の育った「東光1区」の情報があるかと市役所によってみた。あそこは産業地区に指定されて人は住めません、とのこと。

あきらめかけていたら『うたしない 炭鉱の記憶 写真集』という冊子を持ってきてくれた。ふるさと納税に協力してくれる人々に配布する写真集だ。

多くはないが小山兄弟が育った昭和30年代の東光1区の写真が掲載されている。これはいいお土産だ。

「うたしない 炭鉱の記録 写真集」の表紙

 

選炭工場の写真

(昭和35年<1960>選炭工場)

東光一区の写真

(昭和30年代 東光一区)

ちょうど市役所に来ていた澤田季孝(すえたか)さんが声をかけてくれた。昔、実家は東光1区で「澤田商店」を営んでいたという。昭和24年の早生まれだというから義幸くんとは中学校の同期生ということになる。同学年が9クラスもあった、同級ではないが近所に住んでいた「小山一家」とかかわりがあるかもしれない、とのことだった。今は文殊に住んでおられるとのことだ。

東光一区

東光グランド(歌志内小学校グラウンド)

歌志内小学校はこの立派なグラウンドの上のほう(今はガラス工場)にあった。学校から長い滑り台がグラウンドまで延びていて在校生ならどなたにも記憶があるはずだ。 グラウンド整備中の校長先生?が教えてくれた。このグラウンドは400mの公認運動場で各種の競技や炭鉱の運動会、大相撲の興行などでにぎわった。

木々が茂っている左側の丘や奥には炭住がひしめくように建っていた、とか。今、歌志内は全国最小の市(人口4200人)で全市からここにかよう小学生も150人ほどだという。最近、学校付近に熊が出没して生徒を集団下校させたとのことだ。

東光一区 旧北炭ー空知炭鉱

旧北海道炭鉱汽船空知鉱は1963年に閉山された後第二会社が運営していたが95年完全にその営みを停止したという。最新式の立坑が昔の姿をそのままに見せている。

 参考●http://www.sorachi.pref.hokkaido.jp/so-tssak/html/parts/16tatekou.html

空知鉱立坑とずり山遠望

周辺には廃棄物処理工場などが立地し、大型トラックの往来が結構激しい。古い写真に見る炭住の風景はどこに行ってしまったのか。想像することもできなかった。

⑥旧歌志内中学校跡

義幸くんが2年生まで通った中学校跡には市民会館が建っていた。翌日が「明日、悲別で」(作・演出 倉本聡 富良野GROUP)

の公演らしい。卒業生のおじさんが学校前の履物店は昔とかわらないよ、と教えてくれた。

この町には「郷土館ゆめつむぎ」があり、炭鉱の町の歴史を伝えているというが「月火」が定休日ということで訪ねることができなかった。

帰ってから義幸くんに電話して故郷の印象を伝えた。近く川越を訪ねてくれるという。実現すれば41年前の春、引越しを手伝いに来てくれて以来だ。

今度は彼の何十年ぶりかの故郷訪問に同行するなどということが起きるか?

北海道の炭鉱について何の知識もなかった僕には空知の旅は興味が尽きなかった。

 

 

 

 

 


芦別炭鉱跡  北海道・空知の旅①

2012-07-28 05:40:06 | 出会いの旅

昨日(27日)は暑かった。3時の気温37度5分、室温35度。水上公園の造波プールで夕方まで戯れました。

 

7月9日(月)

 十勝岳温泉を出て富良野の風光を楽しんだ後、山道を通って(子狐を目撃)芦別へ。空知の(旧)炭鉱地帯を貫いて流れる空知川。

写真: 北海道芦別市を流れる空知川 写真: 根室本線芦別駅 芦別駅 根室本線はローカル線になっていた。

  (旧)三井芦別鉄道炭山川橋梁

これはびっくり(旧)頼城(らいじょう)小学校。炭鉱隆盛時がしのばれる巨大なレンガ造り校舎。今は通信制大学の校舎として活用されている。

体育館には三井炭鉱の絵が掲げられたままだ。写真: 頼城小学校体育館の絵木造のこの体育館がすばらしい。写真: 木造の体育館

少しさかのぼると頼城市街があった。炭鉱時代のマーケットや共同浴場が残っている。あの頼城小学校を卒業したという女性が盛時を語ってくれた。浦山電気店のおかみさん。細々と商売は続いているという。

  

 ちりじりになったひとたちはどうしているのだろう。

 


北山正樹さん  十勝の旅印象記⑥

2012-07-27 07:02:33 | 出会いの旅

7月5日(木)~8日(日)

 北山正樹さん・陽子さん夫妻は(北海道池田町)大森滞在中、ずうっと付き合ってくれました。正樹さんは10年前には本別町押帯(おしょっぷ)の生家跡に連れて行ってくれました。父の鈴木八郎さんは養子に行くのがいやで伊豆の大仁から農林省に直接申請してここに入植したといいます。同世代の中では珍しい開拓2世です。

 70台になった(僕よりはひとつ上です)今回のお話には「養子」という言葉がたびたび出てきます。

 帯広農業高校を卒業して十勝支庁への就職が決まっていたのにもかかわらず、それをキャンセルして陽子さんとの結婚を選び北山家の跡取り「養子」となったのです。お父さんは反対しましたがかわいい陽子ちゃんを守るのが第一と心に決めたのです。

 北山家は陽子さんの祖父の代に石川県から利別川のほとりの大森に入植しました。手取川ダムの建設でおじいさんの村は湖底に沈んだといいます。

 結婚以来半世紀、畑作一筋に励んで農地を拡大し北山農場は人がうらやむような成功を収めました。もともとが十勝でも恵まれた肥沃な土地であったところに北山さんの叡智が付け加わったのです。それでも人目には順調そのものに見えるだろうが「養子」の身にはいろいろと心を砕くところがあったのだよ、と僕には聞こえました。義父は神様のような方だったとも聞きましたがー。

 今は農地を知人にゆだねて悠々自適の身です。6日朝には里山の「正樹の森」に連れて行ってくれました。カラマツの森をナラなどの落葉樹の森に作り変えました。明るい臨床にキリギリスがたくさん棲めるようにするつもりです。十勝でもキリギリスは帯広のデパートで買う時代になっているのです。池も三つ。涼しい風が吹き渡る別天地です。

 大事な決断をするときには生家跡のナラの木の下にいったと聞いたことがありますが、老境に入ったこれからは正樹の森が大切な場所になっていくのでしょう。ブルを入れて切り拓いた道が開通したばかりでした。

 7日(土)には正樹さんご夫婦が十勝の丘・真鍋庭園・帯広競馬場などに案内してくれました。長くばんえい(輓曳)競馬の馬主であった北山さんには帯広競馬場はホームグラウンドのようなところでしょう。

 初めて見るばんえい競馬。馬も大変だなあ、生きるというのは。

北山さん夫妻は7日の夜、「北物語」で小宴を開いてくれました。森田房子さんと高橋義一さんが加わってくれました。

房子さんは隣の本別町負箙(オフイビラ)から二つ年上の驍(たけし)さんのお嫁さんになって以来酪農もやる農家ですからそれこそ休みなく働いてきた方です。驍さんが体調を崩して酪農はやめ畑は知人にゆだねていますが家の周りの自家菜園はただならぬ広さです。毎年、手塩にかけたジャガイモを我が家にも送ってくれます。  

 義一さんは50年前に初めて大森に世話になって以来、私たちを受け入れる窓口役を続けてくれた方です。学生時代にここをたずねてフォークダンスのひと時をすごした清水さんのことを懐かしがっていました。半世紀間僕もお会いしたことのない後輩です。今は東京で弁護士をしているはずです。

 広尾の石沢さんのことをよく知っておられました。十勝の森林組合の組合長同士で義一さんにも印象深い方のようです。別々に出会った方が知り合いだったのです。情の厚い人ならではのことでしょう。

 僕はいつも感心しています。政治的な考えや立場を異にする人々がここでは互いを認め合って協力しています。北山さんと義一さんの関係もそうです。義一さんが年上ですが互いを尊敬しながら地域の活動をともにしています。

 僕もこの半世紀、おかげで心置きなく大森の方々の世話になり、少しは人間の幅を広げることができたのです。来年は池袋商業高校の生徒たちが世話になるようになって40年になります。何人かでも顔を見せてくれるといいなあ。

 


驍さんの笑顔に会えた  十勝の旅印象記⑤

2012-07-21 07:52:38 | 出会いの旅

7月5日(木)~7日(土)

 <5日> 広尾を出たあとは大津で十勝川の河口の景観を眺めました。遠い昔、松浦武四郎もここから十勝に入ったのでしょう。整備された土手の上を池田方向にドライブしました。サイコーです。

 

 池田では片桐正一さんと竹島篁・美智子夫妻を訪ねました。

片桐さんはこの町の元教育長です。1962年僕が大学生だった時から池田の人々と私たちを結びつけてくれた方です。竹島ご夫妻には1973年夏に世話になりました。私たちの家族4人が美智子さんの実家でもある隣家を借りてひと夏を過ごしたときに片桐さんの奥さんと共にあれこれと面倒を見てくれたのです。息子は生後7箇月、娘は3歳でした。

 僕は池田駅から汽車に乗って生徒たちが世話になっている大森8線の駅(池北線の簡易乗降駅)に毎日通いました。

奥さんと息子さんをなくされた片桐さんですが、今は日本全国を飛び回って縁のあった人々との交流を楽しまれています。先年、川越にも来てくれました。お元気そうでなによりです。

 竹島篁さんは国鉄マンでした。民営化、池北線・機関区の廃止‥。幾たびかの転職を余儀なくされたのですが昔と変わらぬ笑顔で迎えてくれました。

 あれから来年で40年です。 「ワインのまち」も今は過疎のただ中で静かです。いつまでもお元気で!

 片桐さん           竹島さん夫妻       JR十勝池田駅

写真: 片桐正一北海道池田町元教育長 写真: 池田町竹島さんご夫妻 写真: Jr池田駅

 

<6日>昼過ぎ、北山正樹・陽子ご夫妻と森田驍さんを見舞いました。

 74年は北山さん、75年は森田さん。僕は両家に厄介になって二週間を過ごしました。だからふた組みのご夫婦は僕の農業の先生です。

体調を崩して帯広の病院に入院していた驍(たけし)さんが庭を散歩していました。畑仕事に忙しい房子さんも気づいてやってきてくれました。

 これが今回の旅の最大の目的です。驍さんはいつもの笑顔を見せてくれました。出会ってから50年、万年青年の面目躍如です。

私たちは同い年です。今少し、元気に生きて今度は農業と農村、そして日本の未来について語り合いたいものです。


三親牧場42年 十勝の旅印象記④

2012-07-20 09:39:04 | 出会いの旅

昨日は部屋の中でも34°を記録する始末でしたが夕方から急降下、夜になると寒さを感じる程でした。今日は25°で夫婦とも旅の疲れを癒しています。雨もようなので首相官邸前の行動は欠席です。

 妻の67才の誕生日です。三河の娘夫婦からメロンが届きました。一日ゴロゴロして夕食後にいただくことにします。白駒池の駐車場入口で露天のお兄さんに買った甲州桃が安くて(一個100円)美味。桃が欲しくて甲府盆地を通って帰るつもりだったのが猛暑と言うことで麦草峠廻りにしたのです。諦めていた桃、こちらもビッグプレゼントです。

 

7月4日(水)

 夜はモヤシさんの手料理を満喫しながら遅くまでお二人の話を聞きました。1980年夏、池商の生徒たちと一緒に私たち家族4人が世話になって以来32年ぶりのことです。

 ゴリさんは私たちの訪問を心待ちにしていてくれたようで入植以来42年のあゆみと思いのたけを聞かせてくれました。おそらくはどなたにも打ち明けたことのない心の奥を披瀝してくれたのですから例えようもなく嬉しく、また身の引き締まるひとときでもありました。

 中学を終えて佐賀の農村から「金の卵」として東京の大企業に就職した時から、前人未到の大地を拓いて見事な牧場を作り上げてくるまでの半世紀にわたる人生の物語です。北海道広しといえど、今の世にこのような人がいるとは思えません。

 この夫婦の偉いのはそれだけではありません。私たちに対してそうであったようにこの牧場は人々の教育の場として開かれ続けて来たのです。特に親や学校・社会が持て余し、排除してきたこどもたちとゴリさん夫婦が生活を共にしながら歩んだ歴史は日本史の宝です。

 ゴリさん夫婦になぜこうしたあゆみができたのか?この日のお話を含めて僕はあれこれと想像しています。入植は1970年、ゴリさん23才です。私たちの時代が生んだ最良の人生がここにある、僕はそう思ったものです。

 7月5日(水)

 

3年後には45周年のお祝いをするとか。その時にはかつての生徒たちや我が家のこどもたちとお祝いに駆けつけたいものです。

ゴリさんの好きな言葉。

 「Boys, be  ambitious 、like this old  man」(クラーク博士の言葉と伝えられる)

ゴリさんたちの事業を受け継ぐ有志にも会いたいものです。

 

 

 

 


苔の森 2200mの別天地 白駒池

2012-07-19 10:34:26 | 出会いの旅

7月18日(水)☼

 尖石(とがりいし)縄文考古館を訪ねて「縄文のヴィーナス」に会いました。

  縄文のビーナスの斜め写真

諏訪の小学生たちが学習に来ていました。原発事故に遭った私たちは自然と人間の関わりの原点に帰ってどう生きたら良いのかを考え直さなければなりません。人間が第一の自然観を克服しなければ未来はありません。縄文人の暮らしを知ることは大いにヒントになるはずです。

出典●http://www.city.chino.lg.jp/ctg/07050030/07050030.html

涼を求めて麦草峠・白駒池へ。

池のほとりの木道をゆっくり歩きました。ハクサンシャクナゲはこれからです。コケの森が面白い。標高2200mの別天地の池です。

宿が二軒あります。8月になってからならシャクナゲもいいはずです。


信州・富士見高原

2012-07-18 08:28:33 | 出会いの旅

車山高原での妻の同窓会を終えて昨日は富士見高原で過ごしました。

ユリの花盛りには程遠いのは残念ですが富士山や南アルプスの眺めがすばらしい。日本の標高一位と二位(北岳)を同時に見られる珍しい体験をしました。

 

 夜、近くに住む典子さん(大島高校OG・1967年卒)がホテルを訪ねてくれました。息子さんが監督を務める高校野球やお孫さんの少年野球の応援などで忙しい日々のようです。

  写真: 典子さんと

 梅雨明けで厳しい暑さが続いているとか。今夜はその川越に帰ります。


蹄耕法   十勝の旅印象記③

2012-07-15 10:24:53 | 出会いの旅

昨日から川越は真夏です。川越公園の河川敷の林を散歩したり、池畔で昼寝したりして消夏につとめました。北海道から帰ったばかりですからかなりこたえます。それでも旅の疲れはすっかり取れ元気です。

 

7月4日(水)

夕方になって三親牧場を訪ねました。えりも国道から東広尾川を遡ること6Kmあまり、隣家から数Kmの奥地です。畑仕事中のゴリさんが早速車で牧場を案内してくれました。32年前に池商の生徒たちと世話になったときには森だった奥地にまで牧場が果てしなく伸びています。ここはゴリさん自慢の別天地です。

 

  近くにはこんな熊笹の森が広がっています。自然の森に放たれた牛たちが熊笹の芽や葉を食べていくうちに次第に笹が淘汰され、やがて牧草の種を蒔くと綺麗な牧場に変貌していうということです。これを「蹄耕法」と言うそうです。なるほどなあ。21世紀の十勝で牧畜が始まった遠い昔の人と自然の関わりを学んだ気がしました。たしかにここは原生林の一角なのです。

 

 三親牧場は肉牛の繁殖が目的です。9箇月を過ぎた雌牛50数頭はこの自然の牧場で生活しています。ゴリさんにもらうのは塩だけです。美味しい湧き水を飲み、草や葉を食べて過ごしています。冬も同じです。自然の牛に近い育ち方をしているのです。それでも二日に一度くらいは牛舎の近くに顔を出すそうです。  

 

ゴリさん。森田誠さん。65歳。佐賀県出身。TVや新聞の取材は「お断り」している方です。「川越だより」は特別です。無断掲載ですが‥。


襟裳岬の森は蘇った  十勝の旅印象記②

2012-07-14 04:51:46 | 出会いの旅

7月4日(水)

襟裳岬には「風の館」という立派な施設ができ、アザラシの生態を望遠鏡で観察できるようになっていた。これはこれで良く出来ている。

 

一番見たかったのが襟裳岬の森の恢復状況。市街地近くの遊歩道や百人浜を歩いてみた。

砂嵐の吹きすさぶ荒涼たる風景はどこにもなく蘇った森が広がっていた。人の力の凄さを思った。

僕は50年前に大学の友人たちと初めてここに来た。32年前には高校生たちと来た。明治以後の和人の入植と開発があっという間に原生林を砂漠に変えていた。8月15日に砂嵐に吹き付けられて寒さに震えた。

それがなんということか。地元の昆布漁師さんたちの地道な取り組みがやがて林野庁を動かして松の森を見事に作り上げた。昆布の水揚げも順調に回復しているとか。

 日本中の学校の教師たちは一度はここを訪れるべきだ。自然の破壊がいかにあっけなく進行するか。その恢復がどんなに困難か。それでもあきらめる必要はないことを教えてくれる。

 未来に生きる人々に伝えていきたい近来の快挙ではないか、そんなふうに思った。

黄金海岸はすっかり変わって立派なトンネルの連続。あの風光は視野から消えてしまった。広尾町美幌で石澤宗一さんを訪ねた。32年前、池商の生徒たちと三親牧場にひと夏を過ごしたとき、昆布干しなどを体験させてもらった。この時の縁で貴子母子をずうっと気にかけて来てくれたと聞いている。

 80を過ぎた宗一さんは残念ながら入院中だったが奥さんのはなさんが訪問を喜んでくれた。宗一さんは近年になって昆布漁からは引退し、好きな旅行を楽しんでおられる、とか。健康が恢復したら川越にも来て下さるかもしれない。

  

 

昆布干場に上がっていって驚いた。その広いこと。

 石澤さんの後輩漁師さんが相手をしてくれた。今年の昆布漁は15日から始まるという。