唯物論者

唯物論の再構築

数理労働価値(序論:労働価値論の原理(2)過去に対する現在の初期劣位の逆転)

2023-03-31 22:56:11 | 資本論の見直し

(1g)初期劣位の逆転

 種族における生体の役割分担は、親子関係と同様に、種族内における一部の生体を種族全体に補完させる。言うなればその一部の生体は種族全体の子供であり、種族の他メンバーは親である。一方で種族全体が補完する一部の生体は、種族全体を統率する役割を果たす。統率者の不在が種族全体に困難をもたらす限り、統率者は種族にとって損耗不能な消費者である。それゆえに種族における損耗可能な供給者が、統率者の消費の面倒を見る。これらの事情は、他メンバーと統率者の親子関係を肉体と意識の関係にする。すなわち他メンバーは種族全体の肉体であり、統率者は種族全体の意識である。意識の肉体への初期劣位に従えば、供給者である種族の他メンバーは、消費者にすぎない統率者に優位する。ところが種族における統率者の形式的役割は、直接にその統率者の他メンバーに対する初期劣位を否定する。また他メンバーが統率者を擁護するのは、それが集団全体を客観的に補完するからである。しかしこの役割は、逆に他メンバーを肉体ではなく意識にする。そして意識の肉体に対する初期劣位は、そのまま他メンバーを統率者に対して劣位させる。さらにその統率者の優位は他メンバーの意識に対し、肉体補完の自己犠牲を指示する。そのような自己犠牲は、統率者と他メンバーの間で前提された補完の役割を完全に逆転させる。この意識の肉体への初期劣位の逆転は、単に肉体を意識に劣位させるだけでなく、意識による肉体の虐待を可能にする。それは意識による自己の肉体に対する初期劣位を完全に否定する。それは意識の形式的優位の具現化でもある。意識は肉体を虐待することにより、自己の形式的優位を現実化する。しかしその意識の優位は、意識と肉体を維持するだけの余剰供給を前提する。それゆえに肉体の損傷が回復困難になり、余剰供給が枯渇すれば、いつでも意識の初期劣位が復活する。その復活では意識の正当性が認められない限り、肉体が勝利する。この場合に意識が肉体に優位する初期劣位の逆転は、やはり仮象である。しかし正当性が意識の側にあるのなら、勝利するのは意識である。このときの意識が肉体に優位する初期劣位の逆転は、仮象ではない。もし意識が正当であるにもかかわらず意識が敗北するなら、肉体も意識とともに敗北する。

[現在と過去の優位関係の逆転]

過去 現在 
環境世界(真)意識(偽)
環境世界(真)意識(真)
表象・肉体(偽)意識(真) 

(1h)目的と手段、および理念

 動物の実存は、肉体の自己自身を目的とし、意識の自己を手段に留める。その意識は肉体に対して初期劣位にある。この初期劣位は意識と肉体の融和により暫定的に否定される。一方で意識の統率者としての優位が、その初期劣位の形式的否定として現れる。しかしその初期劣位の最終的な否定は、意識の真が行う。この過程で肉体の自己自身は手段に転じ、逆に意識の自己は目的に転じる。意識の自己に現れる目的は、自己自身の肉体ではなく、何らかの理念である。それは自己自身の肉体の代わりに、自己意識が犠牲を払う価値の持つ対象である。端的に言えばそれは自己を根拠づける真であり、真の自己である。ただしその対象は、やはり自己自身の肉体から派生する。それは先の説明から言えば、まず子供として現れ、次に種族として現れ、さらに類として現れる。その思想としての形態は、家族や地域、または国家や民族、さらに人類や自然世界への献身となる。そしてその献身の対象を無限定にすると、その不確定な対象に神が現れる。その不確定は神の無限定に従う。無限定とは、全てであると同時に無である。それは限定された何かを語らない。さしあたりその自由は意識の真であり、意識の正当性の抽象的根拠である。しかし無限定な神が要求する献身は、やはり無限定である。それゆえに神への献身は、もっぱら神の代弁者を自称する何者かが限定する。そしてその限定の多くは、神の代弁者への献身である。ただしあからさまな私的利益への誘導は、神への献身の仮象を神の代弁者から引き剝がす。それゆえに神の代弁者への献身も、副次的に神とは別の真理を語る必要を持つ。この必要は思想としての宗教に、再び家族や地域、または国家や民族、さらに人類や自然世界への献身を語らせる。そして宗教の正当性も、無限定な神を媒介にしてそれらの真の限定を語ることにある。むしろこのことが無ければ、誰も宗教に身を投じることは無いし、信頼を寄せない。観念論とはこのような無駄な迂回の論理の総称であり、それゆえに観念論は人間における物理に敵対する。その観念論が得意とする常套手段は、間違った物理を槍玉にあげた物理全体の否定である。

[現在と過去の目的・手段関係の逆転]

過去 現在 
目的(真)手段(偽)
手段(偽)目的(真) 

(1i)事実と観念の対立

 観念論が敵視する人間における物理は、観念論の自己都合で擁立した非合理であり、エセ物理である。そのようなエセ物理は、そもそも物理に値しない。一方で迂回した理念において再び神が現れるのは、単なる悪循環である。したがって観念論が擁立する理念に再び神が現れてはならない。このときに役割を終えた神は、理念から消失する。また神の無限定な真から言えば、神は消失することでのみ神となる。無限定な真は、そのまま無だからである。しかしこの神の消失は、神を代弁して生活する宗教にとって危険な事態である。一方で理念の対象に家族や地域、または国家や民族、さらに人類や自然世界が直接現れる思想は、既に唯物論に入り込んでいる。神の媒介を排除したそれらの理念は、合理的に、さらに言えば物理的に事態の調停と融和、または安定と解決を図る。ここで言う物理は、暴力的解決を指すものではない。それは物理的根拠を示して事態を解決する合理としての物理である。そこに神の出番は無く、宗教は不要である。むしろそれは物理の阻害物である。そこで役目を外された宗教は、唯物論に敵対する。加えて神の自称代弁者への私的利益誘導の形式は、経済的軍事的イデオローグの私的利益誘導の形式と合致し、それらの多くは宗教と一体化している。そこでは存在しない経済的軍事的危機が語られ、特定の経済的軍事的集合体への私的利益誘導が行われる。それは川中島の上杉軍と武田軍のように、演出した対立を実体化させ、相互の私的利益誘導に役立てる。しかしその対立はもっぱら経済的軍事的利害集団同士の対立であり、人の類的対立ではない。とは言え因縁をつけられる側に対立を避ける余裕はなく、ついには擁立されただけの仮象の危機が本物の危機に転じる。ここでも宗教は仮象の対立を擁立する精神的支柱の役割を果たす。さしあたりその宗教的主張に部分的な真が含まれているのは、驚くことではない。しかし宗教を筆頭にして観念論は、その全体において虚偽を体現する。結局その理念が目指すものは、宗教及び経済的軍事的イデオローグへの私的利益誘導であり、その私的な世界支配の永続である。その虚偽はもっぱら支配者による事実隠蔽とプロパガンダに現れる。一方で事実は自ら動かずして、虚偽を否定する意識の真である。その事実と虚偽の対立は、そのまま唯物論と観念論の対立を表す。

(2023/03/31)
続く⇒序論(3)供給と消費の一般式   前の記事⇒序論(1)生体における供給と消費

数理労働価値
  序論:労働価値論の原理
      (1)生体における供給と消費
      (2)過去に対する現在の初期劣位の逆転
      (3)供給と消費の一般式
      (4)分業と階級分離
  1章 基本モデル
      (1)消費財生産モデル
      (2)生産と消費の不均衡
      (3)消費財増大の価値に対する一時的影響
      (4)価値単位としての労働力
      (5)商業
      (6)統括労働
      (7)剰余価値
      (8)消費財生産数変化の実数値モデル
      (9)上記表の式変形の注記
  2章 資本蓄積
      (1)生産財転換モデル
      (2)拡大再生産
      (3)不変資本を媒介にした可変資本減資
      (4)不変資本を媒介にした可変資本増強
      (5)不変資本による剰余価値生産の質的増大
      (6)独占財の価値法則
      (7)生産財転換の実数値モデル
      (8)生産財転換の実数値モデル2
  3章 金融資本
      (1)金融資本と利子
      (2)差額略取の実体化
      (3)労働力商品の資源化
      (4)価格構成における剰余価値の変動
      (5)(C+V)と(C+V+M)
      (6)金融資本における生産財転換の実数値モデル
  4章 生産要素表
      (1)剰余生産物搾取による純生産物の生成
      (2)不変資本導入と生産規模拡大
      (3)生産拡大における生産要素の遷移


唯物論者:記事一覧


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 数理労働価値(序論:労働価... | トップ | 数理労働価値(序論:労働価... »

コメントを投稿

資本論の見直し」カテゴリの最新記事