唯物論者

唯物論の再構築

人間の物体化

2011-01-15 11:39:56 | 各論

 ここで言う人間の物体化とは、人間が人の形をした単なる物体に成り下がることを示す。人の形をした単なる物体とは、自由を放棄した人間、もしくは自由を放棄させられた人間を指す。なぜなら人間存在の本質は、自由だからである。以下は、人間の物体化がどのように引き起こされるかを、フォイエルバッハ流の実存主義的立場から考察したものである。言い換えれば以下の考察は、社会分析から切り離した形の人間論である。
 この考察のために、以下では言葉の可能性の分析から人間分析に切り込む。

 言葉は、伝達手段である。その目的は、文意の他者への伝達である。文意の伝達を可能にする前提は、発信者と受信者の間での、文章の各構成要素とそれらの相関規則の暗黙の一致である。この相関規則は、単文に限った構成規則だけでなく、文章全体に登場する単文間の文脈規則を含んでいる。
 一方で文意の伝達は、受信者が文意を理解していない状態を前提する。受信者が文意を伝達以前にすでに理解しているなら、伝達行為は基本的に不要である。受信者がすでに文意を理解している場合、そこで敢えて行う同一文意の伝達行為は、受信者の理解の再確認を目的にするのがせいぜいである。ただしそうであっても、受信者がすでに文意を理解している場合の同一文意の伝達行為は、受信者を馬鹿にしたものである。基本的にそのような同一文意発信者は、文意を了解済みの受信者にとって、知的装いをこらしただけの単なる俗物である。

 ダイエット死する摂食障害者、社会復帰不能化する薬物常習者、家庭破壊を起こすギャンブル中毒者、社会を拒絶する犯罪者、さらには原理主義の美名に酔いつぶれた自爆テロ犯、いずれの場合でも彼らは、自らの行為がもたらす惨劇を予想できたはずである。そしておそらく彼らの全ては、それを理解している。もちろんそれは、実際には字面だけの理解であり、彼らはそのような原則論を知っている、と言うべきかもしれない。
 したがって彼らに対し、彼らの行為の無意味さを伝達する行為は、最初から頓挫しているように見える。彼らはすでに文意を理解しているので、同一文意の伝達行為は、彼らを馬鹿にするだけの効果しかない。基本的にそのような同一文意発信者は、文意を了解済みの彼らにとって、単なる俗物に見えるはずである。

 それでは言葉は、他者に対し効力をもたないものであり、伝達行為そのものは最初から無意味なのだろうか?

 実際には誰もそのように考えていない。その証拠に言葉は死滅していないし、人間は常に他者を説得する努力を忘れない。つまり、言葉は他者に対し効力をもっており、伝達行為は意味をもつ、というのは全ての言論表現の大前提なのである。
 以前の記事(俗物)で記載したように、文意発信者の誰しもが、文意受信者にとって俗物に成り下がる危険をもつ。それは会話における発信者にとって、受信者の無理解がいかなる情報の欠如に起因するのかがわからないためである。そして受信者が発信者の文意を理解できないのは、発信者の提供した情報の欠如に起因するためである。文意発信者が俗物に陥らないための条件は、文意受信者にとって必要な情報を、伝達する文章に搭載することである。
 それは惨劇にまきこまれる人たちの取り返しのつかない幸福についての知識かもしれない。または彼らが自ら放棄した自らの別の可能性や、自らが選んだ方法とは別の方法についての知識かもしれない。
 ただしそこには一般論は存在しない。彼らを救済するための欠落情報は、彼ら自身の個別性に寄生しているからである。この点を理解しなければ、巷に転がる人生論と同様に、具にもつかない俗物的な方法で彼らを解釈し、彼らをさらに愚弄することになる。そのような形で彼らをさらに愚弄し続けた場合、彼らは意地でも自らの行為を続け、ついにはその行為の自己目的化にまで連携する。そのような自己目的化の完了は、人間の自らの可能性の放棄であり、言い換えれば自由の放棄である。
 自由を放棄した人間とは、人の形をした単なる物体にすぎない。人間は、そのような物体化、つまり人間外化を彼らをさせてはならないし、そのような外化へと彼らを誘導するような真似をしてはいけない。それは、彼らのわがままを許せと言っているのではない。言うまでも無いだろうが、その逆である。
(2011/01/15)

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