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唯物論の再構築

ヘーゲル大論理学 存在論 解題(第二篇 第一章・二章A/B 限定量・数・単位・外延量・内包量・目盛り)

2019-12-08 21:55:37 | ヘーゲル大論理学存在論

 ヘーゲルにおいて感性的直観が真に実在を得るのは、媒介を通じた概念においてである。それは、存在が本質を通じて概念として現れることに等しい。この構図を存在論が敷衍するのは、素材の質が量的微分を通じて積分される姿である。すなわち微分とは対象の本質抽出の数理表現であり、積分とはその抽出本質の概念化の数理表現である。以下では存在論において外延量としての数、および内包量としての小数や分数、さらに比率への連繋を睨んだ目盛りなどの数理の基礎を成す数そのものの概念を展開するヘーゲル量理論の序盤を概観する。


[第一巻存在論 第二篇「大きさ(量)」第一章「量」から第二章「限定量」のB「外延量と内包量」までの概要]

量から派生する純粋量・限定量・数・単位・外延量・内包量・目盛りなどについての論述部位


・純粋量           ・・・質料に無関心な量の形式
・連続した量         ・・・純粋量における凝集の量表現。量全体の連続した量
・分離した量         ・・・純粋量における拡散の量表現。連続した量から分離した量
・カントにおける連続性と分離性・・・純粋存在において排他的に統一した連続性と分離性の悟性的な分離
・限定量           ・・・分離した量の連続的統一にある一つの量
・数             ・・・質に無関心な連続しかつ分離した量の形式
・数の集まり         ・・・限定量の他者としての無限定に多数の順不同な限定量の塊り
・単位            ・・・数の集まりに対して現れる一者としての限定量
・カントにおける加算の綜合性 ・・・不可分な実体における非分離的区別を忘れた錯誤との評価
・数の思想性         ・・・素材の質から無関心に量の概念を展開する点で没思想
                  なおかつ物を思想へと再接近させる点で純粋思想
・外延量           ・・・それ自身が数の集まりであるような限定量
・内包量           ・・・自らの外に他者の大きさを必要としない限定量
・目盛り(度)        ・・・内包量において数として廃棄された数の集まり
・超出            ・・・自己復帰ではなく他者へと自己離脱する脱自
・無限超出          ・・・限定量における超出の無限反復


1)純粋量

 質が実在性を成す直接的規定性であるのに対し、量の規定性は存在に無関心である。その無関心は形式の質料への無関心、または自己の自己自身への無関心として現れる。この対自存在は、自らの規定性である自己限定を他の対自存在に委ねている。二つの対自存在にとって相手は、互いに自らの外に現れた無関係な限界である。つまり質と量は区別される。このような質料に無関心な形式として、量は純粋量である。しかし純粋量において拡散する自己自身は、一者としての自己に凝集する。個々の自己自身は自己に融合し、なおかつそれぞれは分離する。純粋量においてこのような融合の姿は、連続性と呼ばれる。そしてその反対の分離の姿は、分離性と呼ばれる。もちろんこのそれぞれは、純粋量の中に溶け込み現れた質の凝集と拡散の姿である。ただしこの分離は、融合を前提にしている。したがってその規定関係は、拡散と凝集の場合で凝集が拡散を前提にしたのと逆向きである。このような純粋量は、悪無限な脱自の無限反復の中にある。すなわちそれは限定量ではない。そしてその脱自において恒常的な無限定な大きさを保つ。


2)カントにおける連続性と分離性

 カントが「純粋理性批判」の二律背反命題の一つに示した定立命題は、複合体を単純体に分離できるとしたものである。しかしこの表現での「複合体」は、もともと単純体の結合体である。すなわちこの定立命題は、同語反復命題である。このために複合体を単純体に分離できないとすると、前提は崩れてしまう。そしてカントによる定立命題の証明は、この前提を崩している。これは証明ではない。証明は、複合体は実在し、実在は単純体であり、ゆえに複合体は単純体に分離できるとせねばならない。一方でこの反定立命題は、複合体を単純体に分離できず、単純体は存在しないとしたものである。カントによる反定立命題の証明は、複合体が占有する空間は分離され得ず、したがって複合体も分離され得ないとするものである。すなわち空間は単一だから、複合体も単一だと言っている。しかしカントが証明の前提に自らの空間論を持ち出すのは誤りである。しかも複合体の分離性は、空間の単一性に対して外面的で無関係だとカント自身が述べている。さらにもともと複合体は実体ではなく現象であり、空間に劣後する。このようなカントの二律背反命題は、量の分離性と連続性を定立と反定立の二命題に分離したものにすぎない。しかし量の分離性と連続性は、一方が他方を可能にする関係にある。したがって真理は両者の排他的統一にある。それはヘラクレイトスの流動を内に含むパルメニデスの純粋存在を結論にする。アリストテレスは無限分割可能性を抽象とし、それを現実の契機に扱った。すなわち無限分割は可能なだけであり、現実には起きない。また起きないからこそアキレスは亀を追い越すし、飛ぶ矢は止まらない。


3)限定量

 量の連続性と分離性は、それぞれ量全体の連続した量、およびこの連続した量から分離した量として現れる。分離した量はその非連続において連続した量と区別されるなら、一つの限定存在であり、個物である。そしてそれのさらに分離した量も、元の個物の限界になっている。しかしその限界づけられる個物は、自らの連続性において限界に無関心である。それゆえに分離した量としての個物は、やはり質に無関心な連続した量である。ただしその連続した量も同じ限界において限定されている。それゆえにこの分離した量と連続した量はいずれも限定された量、すなわち限定量に排他的に統一される。このことを絵柄にすると以下のようになる。


4)数

 限定量は、一つの大きさを持ち、分離した量の連続的統一にある一者である。そしてそれが他の限定量から独立に現れるなら、数となる。数とは、質に無関心な連続しかつ分離した量の形式である。それゆえに数としての限定量は、やはり互いに無関心な数としての限定量に限界づけられる。その限界として現れる限定量は、無限定に多数の順不同な他の限定量の塊りであり、すなわち数の集まりである。そのいずれの限定量も質に無関心な一者として、全ての他の限定量と同格にある。そのような数の集まりに対し、一者としての限定量は単位として現れる。このことを絵柄にすると次のようになる。


5)カントにおける加算命題に対する綜合認定

 数と空間は、もっぱらそれぞれ分離した量と連続した量だとみなされて区別される。しかし線は一者としての点の連続である。それゆえに空間規定はやはり数として現れる。それゆえに空間的連続は、数の加算における数の産出と変わるものではない。カントは加算における産出された数を綜合命題だと考えている。しかし加算は単位集計が延長された累計であり、点を延長した線にすぎない。すなわちそれは同格な限定量の連鎖延長であり、単位とその集まりとしての数の二契機を超え出ていない。同様に2点間の直線が最短であるのも、数における2数値の差が最少であることと変わらない。いずれにおいても表現されるのは、脱自における自己と自己自身の距離的最小である。それらはいずれも、カントの言う不可分な実体における非分離的区別の同一と同義である。そして加算における産出された数は、この非分離的区別の反復である。それは綜合命題ではない。


6)算法の哲学

 このような算法の空間的把握は、減算に対しても、乗算や除算に対しても適用可能である。しかし冪(べき)算は、単位と集まりの数が冪算を通じて区別を廃棄し同一になる点で特殊な算法として現れる。その区別の止揚は自乗において絶対的規定性を持ち、三乗以上の冪算は自乗に還元されなければ解を得ない。とは言えこのような算法の進展によって、素材の概念が発現することは無い。なぜなら素材の外面に張り付けられただけの数は、素材の質から無関心に量の概念を展開する没思想だからである。しかし素材と分離して観念を純論理的に展開する数の概念は、物の質としての偶然性と現実性、および思惟の量としての必然性と観念性をそれぞれ保持する点で非常に有意義である。むしろ非感性的な数による量的抽象は、感性的存在にすぎない物を思想へと再接近させる。したがってこの点で見た数は没思想ではなく、純粋思想である。プラトンやアリストテレスに従えば、数は物でも思想でもなく、その両者の中間に現れる。この純粋思想の古代における現れが、ピタゴラス派による数の神格化である。しかしそれは質に無関心な量の規定性を忘れることにより、物と数を恣意的に結合する宗教的密儀へと収束した。そもそも数学を基礎づけるのは哲学であり、その逆ではない。また数における質からの遊離は、計算を単なる機械的作業に置き換える。


7)外延量

 限界を数の集まりにおいて持つだけではなく、それ自身が数の集まりであるような限定量は外延量として現れる。したがってもっぱら外延量は多数の限定量である。それが数の集まりとして明瞭に現れるなら、外延量は数に等しい。外延量に対して連続した量が表現するのは、限定量における量の連続、あるいは限定量における分離した量の連続を表現する。つまり連続した量は外延量と区別される。


8)内包量

 一方でもともと限定量は、脱自する限定存在の自己自身の大きさである。その限界に対して現れる数の集まりは、やはり一つの大きさを持ち、分離した量の連続的統一にある自己であり一者である。もともと外延量において単位を構成した限定量もこの一者の中に融解している。それゆえにその一者はまた限定量であり、一つの単位である。ただしこの一者は自らの大きさを規定するために、自らの外に他者の大きさを必要としない。そこでこの単位に対して限定量の大きさは、外延量が表現した大きさとは逆に内包量として現れる。


9)目盛り(度)

 脱自する限定量は、限定量の自己自身である。その全体は外延量として現れ、一つの限定量としての内包量へと転じる。すなわち内包量において、脱自した限定量は自己へと復帰する。この復帰において内包量における数の集まりは廃棄され、代わりに目盛りすなわち度が現れる。外延量において数の集まりが数の内部に現れたのに対し、目盛りにおける数の集まりは数の外部に現れる。逆に外延量において素材の外面に張り付けられただけの数は、目盛りにおいて素材の他者との関係を表現するようになる。それが表現するのは、素材の質である。それゆえに今では個物は外延量と内包量を自らの質としている。例えば個人は多くの人の中の一人であり、二つの目と二つの足を持つ。目盛りは対自的な限定存在である。もともと限定量は、分離した個物における質に無関心な連続した量である。また数とは、質に無関心な連続しかつ分離した量の形式である。ただしこの限定量の質としての無関心性は、目盛りにおいて数が他者に関わる自己関係と成ることにおいて完成するものである。

10)限定量の無限超出

 外延量における自己否定的限界は、内包量の限定存在として現れる。しかしそれは限定量の自己規定を他の限定量の規定に劣後させる。一方でその限定量は他の限定量と連続しており、連続において実在する。それゆえに限定量における限界は、個物の存在限界ではなく、一つの生成された限界である。このことから限定量の脱自は、一者における自己復帰する脱自ではなく、自己離脱して他者となる超出として現れる。しかし超出において現れた他者は、やはり限定量である。そこでこの超出は無限に繰り返される。

(2019/06/04) 続く⇒(ヘーゲル大論理学 第一巻存在論 第二篇 第二章C) 前の記事⇒(ヘーゲル大論理学 第一巻存在論 第一篇 第三章)


ヘーゲル大論理学 存在論 解題

  1.抜け殻となった存在

  2.弁証法と商品価値論
    (1)直観主義の商品価値論
    (2)使用価値の大きさとしての効用
    (3)効用理論の一般的講評
    (4)需給曲線と限界効用曲線
    (5)価格主導の市場価格決定
    (6)需給量主導の市場価格決定
    (7)限界効用逓減法則
    (8)限界効用の眩惑

ヘーゲル大論理学 存在論 要約  ・・・ 存在論の論理展開全体

  緒論            ・・・ 始元存在
  1編 質  1章      ・・・ 存在
        2章      ・・・ 限定存在
        3章      ・・・ 無限定存在
   2編 量  1章・2章A/B・・・ 限定量・数・単位・外延量・内包量・目盛り

         2章C     ・・・ 量的無限定性
        2章C     ・・・ 量的無限定性
         2章Ca    ・・・ 注釈:微分法の成立1
        2章Cb(1) ・・・ 注釈:微分法の成立2a
        2章Cb(2) ・・・ 注釈:微分法の成立2b
         2章Cc    ・・・ 注釈:微分法の成立3
         3章      ・・・ 量的比例
  3編 度量 1章      ・・・ 比率的量
        2章      ・・・ 現実的度量
        3章      ・・・ 本質の生成


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