goo blog サービス終了のお知らせ 

EigenWolf

今度の東北大震災がきっかけでBlogを始めました.

石破政権の命運 (goo blog閉鎖に伴い、http://kanietyan.hatenablog.com/に移転します。今後ともよろしくお願いします。)

2025年08月01日 08時00分33秒 | 報道/ニュース

石破政権が苦境に立っている。3度も選挙で敗北し責任を認めないのだから非難されて当然である。他人のミスは苛酷に責めるが自分の失敗は決して認めない。総理大臣としての自覚も責任もなく、苦境は当然の帰結である。この観点からすれば国民の一人として、できるだけ早期に辞任してもらいたい気分である。しかし、歴代総理は石破茂以上に立派に日本を導いたと断言出来るであろうか?小泉前総理や、総理の鏡のように崇拝される安倍前総理も、やらなくてもいい立皇嗣の令を遂行して取り返しのつかない大失敗を犯してしまった。立皇嗣の令の大失敗に比べれば石破総理の選挙の敗北など枝葉末節の一出来事に過ぎない。直ぐに歴史の中に埋没し忘れ去られてゆくだろう。今危険な勢力が台頭しつつある。雨後のタケノコのように威勢のいい政党が乱立している。これらの政党は例外なく「男系皇統」を声高に叫び、この国を国民の希望とは真逆の方向に導こうとしている。耳をすませて聞いているとどうやら戦争を企んでいるふしがある。なるほど、ウ-ロ戦争はロシア不利に傾きつつあり、どさくさにまぎれて宣戦布告し且つ運が良ければ(そして米国の核の傘があれば)千島・樺太を取り返せるかもしれない。戦争となれば決断力と論理思考に勝る男が采配を振るわなければならない。女の将軍のもとで勝った戦争はまれである。しかしこの国では既に長い間象徴天皇制が深く根付いており、戦争の指揮は総理以下の幹部及び自衛隊のトップが指揮を執ることになるので、女性皇族が障害になることは全くない。ましてや今後長い間今上天皇が印を押すことになっているのだから、近い将来の可能な戦争を憂える必要は全くない。愛子様の立太子の令の背後にある懸念は皆無である。

石破政権に大逆転の可能性がひとつだけあるかもしれない。皇室典範を書き換え、愛子様の立太子に不可逆的な道筋をつけることである。そうすれば権力に飢えた政治家連中がどんなに騒ごうと1億の国民が背後にいるのだから政権は安定する。次の衆院選は自民党の圧勝で終わり長い石破政権が発足するだろう。口は達者だが内容のないタケノコ新党のアジテーションは無視してよい。そのためには総理の椅子を決して、そして断固として明け渡さないことだ。皇室典範の書き換えをスローガンにあげれば国民の意識はガラッと変わる。国民にののしられ軽蔑されて辞任し汚名を残すのか、偉大な総理として尊敬され永遠に名を残すか重大な岐路に立っている。

goo blog閉鎖に伴い、http://kanietyan.hatenablog.com/に移転します。今後ともよろしくお願いします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

愛子天皇論

2024年05月21日 16時11分54秒 | 報道/ニュース

政権内部及び有識者内部で未だに男系に強く執着する勢力があるらしい。国民の9割以上が愛子天皇に期待を寄せているという事実にもかかわらずである。国民の9割ということは、一部の集団の思いつきなどではなく、高度な教育を受けたインテリ層を包含する大部分の国民の総意と考えるしかない。国民から選ばれた政治家である以上、政府はこの事を深刻に受け止めなければならない。

本来ならば、天皇の直系が天皇を継ぐというのは極自然な形態なのである。秋篠宮が立皇嗣の礼を受けたというのは確かに一つの事実である。しかし、国民はこのときの天皇・皇后の無念さに思いを寄せた事があるであろうか。愛子様という立派な跡継ぎがいたにもかかわらず立皇嗣の礼は強行されたのである。

秋篠宮家が天皇家にふさわしいとは到底思えない。紀子妃の職員に対する激しい叱責や、堪え難い屈辱を受けた人も、更に職を追われた人もいる。また職務中に亡くなった人もおり、殆ど常軌を逸している。この様な人物は、到底、皇后として受け入れがたい。立皇嗣の礼を遂行したことはまずかった。しかし、立皇嗣の礼を盾に「すじを通し」秋篠宮家への皇統移譲に固執する事はそれ以上に大変危険であり、国を誤らせる。まず国民(エリート層を含む)の理解を全く得られない。同時に外交上も大きな不利益につながるであろう。

天皇の直系が天皇を継ぐという立派なテーゼがあるときに、愛子天皇に舵を切る事は決して恥ずかしい事ではない。政治的にも危険はないはずだ。まず、一億の国民が後ろ盾に控えている。「すじを通し」、国民になじみのなかった「儀式」に拘泥し、国を危うくするのか、それとも新たな未来を開き、国民を明るい明日へ導くのか、答えは明白である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新旧PCのパフォーマンス

2024年04月22日 11時38分41秒 | パソコン

「新旧Macのパフォーマンス」という題でブログを書いたのが2013年の5月であるから、丁度11年前になる。Macを使い続けて約35年になるが、今回ついに決断してWindows PCに乗り換えることにした。理由は二つある。一つは、⑴ 出来るだけ新しい高速のPCが必要になった事、二つ目は、⑵ 48GB以上の大容量メモリを積みたかった事、が理由である。

メモリに関しては、最近のAppleのM型Macはメモリの増設が出来ない。購入時にOptionで選べるが価格が66万以上になってしまい手が出ない。更に、ソフトを最新のものに変更すると総額で軽く100万を越える金額に跳ね上がり、個人で購入出来る範囲を凌駕する。Windowsならば、メモリが自由に増設出来る上、CPUとGPUも自由に選択出来る。その上、古いソフトが可成りの確率で動作することが分かっているので、遥かに格安で研究環境を整えられる。と、購入動機は以上の通りであるが、さすがに「鬼のように安定したMac OSX」を離れ、使った事のないWindowsに移行するのは勇気が必要だった。しかし、11年前と全く同じ理由、「背に腹は代えられない」、によってついに決行する事にした。

問題は何処のShopに相談するかである。30代のころに秋葉原のパーツショップを歩き回り、抵抗、コンデンサー、スイッチ類を買いあさった経験があり、秋葉原の片隅に「九十九電気」というみすぼらしいパーツショップがあった。この店の片隅にコンデンサーの容量計がおいてあり10万の値札がついていた。その値段では誰も買わなかったであろうが、人の良さそうな草履履きの親父(社長?)が出て来て5万でいいと言ってくれた。何故かは分からないが、私はこの親父がすっかり気に入った。多分同じタイプの人間だったのである。あのみすぼらしいパーツショップが現在の「TSUKUMO」に発展したのだから未来は予測しがたい。

動機はともあれ、TSUKUMOに組み立てを依頼した。cpuは最新のintel core i7 14700K、graphic boardは控えめのGeForce RTX3060 (12G)、メモリは16GBとしたが、すぐに64GBを追加して計80GBへと増設した。OSはWindows11である。さて新旧PCの性能比較は以下の通りである。

Mathematicaの数値計算に要した時間(秒):

                program1     program2

iMac 2012 (core i7-3770S)                 282          1282

Dynabook (core i5-8250U)                    123              611

TSUKUMO  (core i7-14700K)                 74              341

速度は数値の逆数に比例するから、新PCは2012年iMacより4倍速い。cpuの世代間の差がはっきりと出た。ついでM1 Macとの比較をcinebenchで行った:

                Single     Multi              GPU

M1 Max                             113        791              4332

M1 Ultra                                    113       1635             5968

TSUKUMO (core i7-14700K)   129    1563 (64GB)    8156

                                                 129    1458 (80GB)    8156                                                                      

SingleはTSUKUMOが若干速く、MultiはM1 UltraとTSUKUMOがほぼ同レベルである。GPUはTSUKUMOが断然優れているが、外付けのRTX3060 (12G)のせいであろう。TSUKUMOのMulti性能は、2スロットの空きを残した64GBの方が、4スロット全てを埋めた80BGよりも若干高い数値を示している。純粋に速さを求めるなら2スロット開けたままの方が良いという事であろう。しかし、一度64GBでMathematicaがクラッシュしているので、現在は80GBで運用している。

以上、速さという観点だけならばMac→Windowsの移行は成功であったが、Windowsは設定が面倒で「時間泥棒」である。研究に使う時間よりも設定に要する時間が何十倍も必要である。Windows11でようやくMac OSXのSpacesに対応する機能が取り入れられ便利になったが、細かな便利さで未だMacに遠く及ばない。タスクバーにQuick Draw GXの技術が是非欲しい。Macではどのウインドーからでも、どのアプリケーションが動作中であるかが一目で分かるのだ。高価で拡張性がないが「使い易く」「鬼のように安定した」Mac OS、と安価で拡張性が高く、速いが「使いずらく」「時間泥棒」のWindowsというのが移行後の心境である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

結婚会見:教祖様と信者

2021年10月28日 08時43分42秒 | 報道/ニュース

自分の能力を自分自身で発見する事は難しい。自分の能力は他人が教えてくれるものである。小室圭はようやく自分の類い稀な能力に確信を抱き始めただろう。確信の源となったのは、勿論、眞子様である。結婚会見は「教祖様」と「信者」の関係のようであった。教祖とはもちろん小室圭であり、信者とは眞子様のことである。

眞子様の激しいマスコミ批判を額面通りに受け取ってはいけない。眞子様の発言の全てが「小室圭」擁護に向けられていた事実に着目する必要がある。小室圭の行動の全ては自分が指示したものだと盲目的に弁護する姿勢にそのことは現れている。人は誰でも自分自身の弁明には躊躇するが、他人の擁護になると抑制が外れ、トーンが上がる。眞子様の激しい発言は命を賭けて「教祖様」をお守りするためのものである。眞子様は自分自身の利益につながる事を何一つおっしゃっていない事に注目する必要がある。小室家の新たな疑惑を、教祖様の一大事と悟った一信者の捨て身の反応のように映った。

眞子様は完全な被害者である。信仰と愛を区別する事は難しいが、私には「教祖」と「信者」の関係のように見えた。少なくとも小室圭は眞子様を全く愛していない。小室にとって眞子様は単に使える道具でしかない。「小室圭の口から眞子様を擁護する捨て身の発言が一度も出ていない」ことがその明白な証明である。眞子様への愛が少しでもあったなら「いいえその問題の全ては私の側にあり、結果と責任の全ては私が負います」と眞子様をお守りするための言葉が、どこかの段階で極く自然に小室圭の口から出たはずである。

加害者が被害者のように振る舞い、被害者が加害者のように映ることがしばしばあることに注意すべきである。二人の結婚がどのような未来に通じるのかは誰にも分からない。しかし仮に破綻に向かうことがあるとすれば、それは小室が「成功は失敗の元」という金言を忘れ自信過剰で傲慢に陥った時である。

 

追伸:小室圭の受賞論文に目を通した。すでに論文の要約もWeb上に出ているが、「Johnという架空の経営者のFordham Coffee Shopを登場させる。このShopがonline storeを立ち上げる時のwebsite作成の注意事項を取り上げる。訴訟の対象になりそうな紛らわしい類似の名称を使ったり、結果的に嘘になる表現(エチアピア産コーヒーをコロンビアコーヒーと名付けたりするようなこと)をすべきでない。常に最新のwebsite compliance lawsに注意を払い訴訟を回避すべきだ」と主張する。これでもかこれでもかというほど条例を事細かに例示しながら「訴訟回避こそが起業のための必須の事項である」と強調する。小室の異様な繊細さと執拗な用心深さがいつまでも頭に残った。一方、科学者である私にはつまらない凡庸なレポートに見える。中学生でも知っていそうなweb上の知見をくどくど述べただけの冗長な作文に感じた。上級の論文であるためには、着眼が新規であること、新たな発見があること、新たな理論を提唱すること、既存の定理の別の解法を発見すること、又は定理の一般化がなされていること、理論を実証あるいは反証する新(又は追加の)実験結果を提示すること、等いくつかの要件を満たす必要があるが、小室論文はそれらのいずれをも満たさない。小室論文は、全体を通じて、退屈で創造力を欠いており、不眠症の患者にピッタシの論文だと思った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エネルギー政策論争

2021年09月21日 20時19分13秒 | 報道/ニュース

危険な原子力発電に代え、生命に優しい自然の代替エネルギーに頼ろうとする意見があり、政策論争にもなっている。安全なエネルギーの開発をすすめ健康で明るい国づくりを目指す、という考えはそれ自体すばらしいものであり、議論の余地はないように見える。

しかし、安全な代替エネルギーとはなんであろうか?「風力、水力、地熱、太陽光、...」その他色々挙げる事が出来るかもしれない。注意しておかなければならない事がある。基本的に、この太陽系には原子力エネルギー以外のエネルギーは存在しないのである。上に挙げたエネルギーは、その源は太陽(及び、その母体である超新星)のエネルギー、すなわち水素の核融合エネルギーからもたらされたものである。「石炭、石油」は地球が何億年という歳月をかけて蓄積した太陽の核融合エネルギーの化身に過ぎない。何億年という歳月が化石燃料を極めて質の高い燃料に変化させた一方で、上に挙げた「安全な代替エネルギー」はエネルギーの質と密度が低く、「石炭、石油」等の化石燃料の代用にはならない事はもうはっきりしている。

誤解しないでほしいのは、エネルギーとは技術革新によって作り出せるようなものではない。単にそこにあるものであり、我々はそれを利用出来るだけである。技術の進化によって開発・改良出来る工業製品とは全く質的に異なるずっとずっと根元的で基本的なものなのである。「石炭、石油」が使えない時代に進みつつある状況で、残されたエネルギーはただ原子力のエネルギーのみである。「安全な代替エネルギー」という夢の様な政治家の甘言に惑わされてはいけない。幸いにこの地球上にはまだ利用可能な若干の「核分裂物質」(超新星爆発の残骸であり、海水中に含まれるウラン同位体)や豊富な「重水素・トリチウム」等が存在する。文明的な社会を続けていくということが地球文明の避けられない道筋であるならば、我々はなんとしてでも核分裂、核融合の原子力を手なずける必要があるのである。《核兵器に転用出来るので原子力は危険である》といった政治の話とは全く次元の異なる「人類が文明を存続させるための」根源的で深淵な問題なのである。原子力の利用は我々の子孫に文明的な生活を続けさせるための残されたただ一つの道である。文明的な生活を持続させるという事が社会全体の同意であるならば、我々はこの道を進んで行くしか選択肢はないのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする