泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

モデリング

2022-09-19 13:02:28 | 使える知識
「使える知識」の二番目は「モデリング」。
 この用語は、様々な意味合いで使われますが、以下に書くのは、私が理解している「モデリング」ですのであらかじめお断りしておきます。
「モデリング」は、基本的に「観察学習」のこと。他者の行動を観察して、観察者の行動も変化すること。いわゆる、「習うより慣れろ」です。
 ですが、「ロールモデル」と言うとき、「ロール」は「役割」のことですが、ただの観察学習に止まらない響きがあります。幼い鳥が、ある一定期間に動く生き物を見ると、その対象を親だと生涯に渡って思い込む「刷り込み」とも似ていますが、人間に「刷り込み」があるのかははっきりわかっていないようです。
 経験的に理解しているのは、人の子は親の背中を見て育つという事実。どんなお説教よりも行動が、無言の背中が何より雄弁に語り伝えています。そして子は、親をモデルとして真似ることで社会的な立ち居振る舞いを学んでいく。だから親は「正しい」。正しくは、親の「やり方・生き方」は正しい、はず。そう思うことが自然で、そうであればこそ学習の効果も上がるのではないでしょうか。「お前の母ちゃん、でーべーそ」と親をバカにされたときの燃え上がるような怒りは、今でも鮮明に覚えています。子にとって親は、それだけ大事で正しい存在です。
 なのですが、親を真似て成長していくことも限界に達するときが来ます。思春期に入ると、それまでヒーローやヒロインだった父母が、急にダサく見え、ときにウザくなり、あげくにクサいとまで言われてしまう。そうなったら両親からのモデンリングは一旦終了。子は、両親とは違う自己に目覚めたから。
 それまでの親の発言と行動との乖離や矛盾を正確に突いてもきます。
 そして大人になりかけた子は旅に出るわけです。新たなる、自分にふさわしい、両親とは異なるロールモデルを求めて。
 ピッタリと、ガッチリと、そんな信頼できる、尊敬できる、真似したいと心底思えるロールモデルと出会えた人は仕合わせだと言えます。そのモデルから十分に愛情や知恵や生き方の片鱗を吸収し、観察して学習して必死に自分のものとして、やっと大人として自立可能になってくる。自分の言葉や技や生き様も生まれていく。「憧れの存在」にときめいている状態から「夢の実現」へと歩みを進めていくことができるようになる。
 私にも大切な出会いがありました。何度か書いてますが、大学の先生、精神科医の先生、カウンセリングの先生、そして池袋の書店で働き始めてからは、石田衣良さん、角田光代さん、吉本ばななさん、西加奈子さん、はサイン会でお会いすることができました。大江健三郎さんはレジに来て大量の本を買っていかれました。小説家の方達は、どの人も私には輝いて見えた。私にとっては忘れられない「刷り込み」体験です。大学や大学病院、それにカウンセリングの場では、一人で抱え込まずに辛いときは相談していいんだということを学びました。信頼できる大人は確かにいることを知りました。そんな大人の一人になりたいと思ったのも、「モデル」になってくれる大人と出会い、確かに関わることができたから。今となっては感謝しかありません。
 そんな「モデリング」をなぜ伝えたいかと言えば、かつての私のように問題を抱え込んでしまった人や、家庭環境に恵まれない人たちにとって、どんな言葉や支援物資よりもなまの「人」こそが最高の薬となり栄養となるから。もちろん、避難シェルターのような場所と十分な栄養と休息は必要ですが、その上で「人」。だって相手も「人」なのですから。ここで思い出すのは「星の王子さま」の有名な一言、「大切なことは目に見えないんだよ」。
 自分にって必要不可欠な「モデル」を見出そうともがいているとき、何を頼りにしていたのでしょう? そもそも、我が親を大事にしようとする気持ちはどこから湧いてきたのでしょう? それは自分が頑張らないと身につけられない一部の恵まれた人だけが持つ「スキル」なのでしょうか?
 そうじゃないと思う。人の本能として身についているものだと思う。
 そう思うから、私が「使える知識」として言語化して提示することで、目に見えなかったけどそこにあった能力に気づくのではないかと。
 大切なことは目に見えない。この言葉は、こう言うこともできます。「大切なことは文字になっていない」と。
「自分」を文字にする前に、今の自分の状態がある。もやもやとか、嫌な感じ、とか。引っ張られる感覚もある。イメージ化すると、胸の内側に矢印が出ているような(↑、→、↓、←)。もちろん、直線とは限りません。渦巻きかもしれません。ある人と接したとき(テレビなどのメディアを通じてでも)、どんな感じがしますか? もっと接したいか、もういいか。すぐさま離れたいか、また会いたい、また見たいか、どうでもいいか。
 私の今の感覚で言うと、「おいしい」かどうか。「おいしい」は、食べ物に対してだけでなく、人や人の表したもの(文章や発言やスポーツにおける表現も)にも対応しています。「おいしい」ならば、自分が必要としているのでまた接して吸収することになります。
 人によって感覚も違います。「いやだ」ならわかるかもしれない。「いやだ」と感じているのが確かならば、まずはそれをやらない。それだけでも、自分が何に引かれるのか、欲してるのかをわかるきっかけになります。
 ちなみに、小さな子供にも「イヤイヤ期」があります。2〜3歳くらいでしょうか。とにかく親の言うことに「イヤイヤ」する。理屈などなく、ただ「自分でやってみたい」のです。「自分でできるもん」の萌芽。「自分」という存在の初めての試み。「いやだ」という感情は、自分を形作る原型だとも言えそうです。
 だから大人になっても(どれくらいの成熟度かは別にして)、「ノー」と表現することは大事。それは自分を大事にすることだから。もし「ノー」と言いたいのに言えないとどうなるでしょう? 「イエスマン」が誕生するのではないでしょうか? 「イエスマン」の恐ろしいところは、溜め込んだ「ノー」を、どこかで一気に爆発させる危険を孕んでいること。インターネットでの炎上が良い例でしょうか。あらゆる差別や暴力、戦争にすら通じます。そしてまた当然なことに、「イエスマン」もまた「モデリング」の対象となりうる。ゴテゴテと勲章やら美辞麗句やらで飾りつけて。
 長くなりましたが、それほど「モデリング」は、人間を作る基本の能力とも言えそうです。

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