泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

世界自殺予防デー

2015-09-10 16:38:54 | エッセイ
 今日は、世界自殺予防デーなのだそうです。
 自殺予防に関心がありながら、今まで知りませんでした。
 毎日新聞の記事で知りました。
 安心して「死にたい」と言える社会に。
 社会が漠然としているなら、「死にたい」と言える職場に、「死にたい」と言える家族に、「死にたい」と言える夫婦に。
 行き詰ってどうしようもないとき、「死にたい」と思う。
「死にたい」を言えないままだと、「死にたい」は現実の行動に置き換えられていく。
「死にたい」が言えたなら、関心を持って受け止めてくれる人がいたならば、その人は必ず「死にたい」の先に行ける。
 私自身が、「死にたい」の先を生きている。
 病院で、カウンセリングの場で、一人で溜めてしまいがちな「死にたい」を、何度も解き放つことができた。
 今だって。以前からの友人は、本当に大切でありがたくて、たまに電話したり会ったりして「ほっ」としている。
「死にたい」には、「よりよく生きたい」が含まれている。
「死にたい」のは、抱えているつらさを和らげたい一心で。
 思うに、そのつらさを和らげることができるのは、人しかいない。
 行き詰ってしまった自分を恥じている、というのもいたいほどわかります。
 批判されたり安易に解釈されたり励まされるのも恐れている。
 自分の経験から言えるのは、ひとつ。
 愛って、理解することだということ。
 こんがらがって自分で自分がわけわからなくなっていたとき、本当にありがたかったのは、理解しようと関わり続けた人。
 相手の立場に立って。
 だから僕は、それができる人になりたいと強く願った。
 最近やっと、相手の立場に立つことがどういうことなのか、わかるようになってきた。
「死にたい」=「生きるのがつらい」=「よりよく生きたい」=「ちょっと手伝ってくれますか?」
 一つの表明された言葉のなかに、言葉になり切らない多くの思いが入っています。
 10年以上前の私の「死にたい」は、「小説を書きたい」に成長しました。
 小説を書くことは、誰かを理解しようとし続けること。
 理解しようと根気強く関わってくれた人たちがいて、私はここまで来れたから。
 誰かを思うことで、この世は成り立っているから。


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