泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

涙はどこから出てくるんだろう

2017-12-25 19:04:31 | エッセー
 怒涛のクリスマス商戦が終わりました。
 ラッピングラッシュは、毎年のことだけど、ものすごいものがあります。
 これも一つの物語の力なんだよなと感じながら。
 売上も、去年よりよかった。
 本屋の仲間たちが協力して、それぞれが慣れ、少しずつできることが増え、速くもなって、その伸びが売上になったのでしょう。
 今日は休みで岩盤浴。年賀状の準備も始め、もう今年も振り返りの時か、と思わされています。

 よく泣きました。
 今日は、「陸王」の最終回を録画で観て、泣く。
 昨日は、「精霊の守り人」を観て泣く。
 一昨日は、「コウノトリ」を観て泣く。
 秋からのこの3本のテレビドラマは、純粋な楽しみとなってくれました。
 初夏には、「ブランケット・キャット」があった。そこでも泣いた。
 そして、これらのテレビドラマには原作本がある。原作本を書いた作家がいる。
 この事実に改めて打たれた。

 今年の年賀状には、「小説を書き抜く」と、あちこちで書いた記憶があります。
 が、まだ仕上がっていません。
 数えてみれば、原稿用紙で50枚ほどの進捗。
 50枚は、確かに少ないでしょう。
 しかし、私にとってみれば、大変な50枚でした。

 宮城に3回も行きました。
 フルマラソンを2回完走しました。
 初めて、4時間を切ることもできました。

 走ることと書くことが、私のちっぽけな意識を更新し続けている感覚があります。
 あるいは、地球が、薄っぺらな殻に覆われ、その地下で熱いものが絶えず動いているように。
 地震は、いつだって起きます。人を待ってなどくれません。
 表面を少し覆っているだけに過ぎない殻は、あっさりと壊される。
 私の言葉や、過去の出来事に関連付けた因果関係や、自分の好みに当てはめた条件付け(女性に対して)などは、どんどん壊れた。
 けっこうまだ過去にとらわれていることもわかった。
 ブログを週一回更新、という決まりも壊れた。
 そんな自己内満足にとらわれているより、誰かにとって大事となりうる小説の一行を進めた方がいい。

 年始に、蛇に左手を噛まれる夢を見ました。
 強烈な痛みがあって、今でもはっきり覚えています。
 以前に右手を噛まれたこともあった。そのときもものすごく痛かった。
 秋には、大蛇が胴体に巻き付いた。それも苦しかった。
 でも、やっと蛇に噛まれた、と、私はうれしく感じた。
 この右手も左手も、胴体も。
 蛇は、大地を這う、知恵の象徴だと私は思っています。
 ニーチェの「ツァラトゥストラ」に出てくる。
「ツァラトゥストラ」は、大学の哲学演習で出会った。その演習も、一年で50頁しか進まなかった。
 私は、やっと大地とつながれたのだと。

 東北・みやぎ復興マラソンを走り終えたときも泣いた。
 時が経つにつれ、「抜けた」感触が確かになってきています。
 殻を破った。ブレイクスルー。
 私の持っていた生命力がそうさせた。そうなるときに来て、そうなった。

 日記は、二十歳から毎日書いている。病めるときも、健やかなるときも。
 そのペン先が、今を刻んでいた。
 そのペン先が、原稿用紙のマス目を埋めていく。まったく新しい今として。
 原稿用紙50枚。たかが50枚、されど50枚。

 私は、私自身の防御が、どんどん薄くなっているのかもしれない。
 よく泣いたけど、よく笑いもした。
 私は、どんどん素直になっている、とも言えるのかもしれません。
 大地とつながった感覚は、自信とも直結している。

 地学科に入り、哲学科に移り、カウンセリングに没頭し、文学に至る。
 大学を出てからは、ずっと本屋にいた。
 高校を出る年、阪神淡路大震災があり、地下鉄サリン事件があった。
 大学を出る年、超氷河期だった。そうそうに就職活動もあきらめた。
 私の世代は、「失われた世代」。
 その間、ずっとそばに本があった。ずっと何かを書いていた。
 そんな私がやっと一つになって、その先から小説を生み出そうとしている。

 一歩ずつ、一行ずつ、確かに、この道を。
 生きる道が確かにあることを、涙が教えてくれる。
 何度でも、何度でも。
 
 失われてなんかいない。
 私たちが、見つける。

 

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