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ポル・ポト
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ポル・ポト
ポル・ポト (1978年)
生年月日 1928年5月19日
出生地 フランス領インドシナ連邦、
没年月日 1998年4月15日(満69歳没)
死没地 カンボジア、
ウドンメンチェイ州アンロンベン郡(英語版)
所属政党 クメール・ルージュ
配偶者 キュー・ポナリー
カンボジアの首相|首相
任期 1976年4月17日- 1976年9月27日
カンボジアの首相|首相
任期 1976年10月25日-1979年1月7日
クメール・ルージュ|カンボジア共産党書記長
任期 1963年 - 1985年
ポル・ポトの胸像(プノンペン・トゥール・スレン収容所)
ポル・ポト(クメール語: ,Pol Pot、本名:サロット・サル( ,Saloth Sar)、1928年5月19日[2][3]-1998年4月15日)は、カンボジアの政治家。
民主カンプチア首相、クメール・ルージュ(カンボジア共産党)書記長。
なお、ポル・ポトは自身がサロット・サルと同一人物であると公式に認めたことはない[4]。
しかし、サロット・サルの兄弟のうちポル・ポト政権下を生き延びた3人の1人ロット・スオン(Roth Suong)は[5]、ポル・ポトがサロット・サルであることを証言している[6]。
通称は「一の同志」、「コード87」、「バン・ポー(年長者)」などがある[7]。
生い立ち[編集]
サロット・サル(以下ポル・ポト)は、仏領インドシナの一部Prek Sbauv(現在のカンボジア・コンポントム州)で生まれ育った。
父の名はペン・サロット(Phen Saloth)、母はソク・ネム(Sok Nem)。ペン・サロットは12ヘクタールの土地(9ヘクタールの水田と3ヘクタールの農園)と水牛6頭を所有し、2人の息子と養子にとった甥たちなど約20人で水田を耕作していた。
使用人は雇っておらず、収穫期は村人同士で手伝って作業した。収穫量は年平均で籾6トンで、20以上の家族を養える量だった[8]。これはカンボジア全体のレベルから見ると十分富裕な自作農の規模だが、ポル・ポトの兄ロット・スオンの説明では、村には50から100ヘクタールを所有する農家もあり、 その中では中規模の自作農だったという。
ポル・ポトの生家は王宮と関係のある家系で、ペン・サロットの姉ネアク・チェン(Neak Cheng)が王宮で働き始めたことから始まるようである。
特に、チェンの娘ルク・クン・メアク(Luk Khun Meak)が王宮舞踊団の踊り手になり、その後モニボン王の側室になったことで王宮との関係は強まった。
幼少期[編集]
ポル・ポトの生年や幼少期の生い立ちの説明は資料や文献によって異なる。
生年
生年については、1928年5月19日と1925年5月19日の2つの説がある。
デイヴィッド・チャンドラーは著書の中で1928年説をとっている。
一方、B.Kiernanは自身の著書では1925年説をとっている。
ただし、同著者の別の著書では、1928年のままになっている。
兄弟の人数
文献によれば、ポル・ポトは9人兄妹の8番目として生まれたことになっている。
一方、B.Kiernanの著書内では、7人の子供のうちの末っ子として生まれたと書かれている。
幼少期の生活
幼少期に関しては、「彼は当時の慣例にしたがって幼時に6年間プノンペンの寺院で暮らし、リセから中級専門学校の電気機械科に進んだのちパリへ留学し」と文献の中で書かれている。
これは、1978年3月にユーゴスラヴィアのジャーナリストが初めて民主カンプチアに入国しポル・ポトにインタヴューした際、以下のポル・ポトの発言をそのまま書いたもののようである。
「私は、ある農民の一家の出だ。子供の時分は、両親と一緒に住んで農作業の手伝いをしていた。だがその後、伝統に従って、読み書きを習うため寺院で生活した。寺で6年間過ごし、2年間は僧侶になっていた。」
同文献は、1981年のロット・スオンとのインタヴューの内容を記したことになっているが、1980年7月9日にプノンペンで同氏にインタヴューしたB.Kiernanの記述とは異なっている。
文献によると、サロット・サルは水田で農作業をしたことはなく、6歳の時にプノンペンへ送られ、タマヨット派の寺院で1年間見習いをしたあと、8歳の時にカトリックの私立エリート校エコール・ミシェに入学し、そこで6年間過ごした。
入学には、ポル・ポトの従姉妹、モニボン王の側室の1人だったルク・クン・メアクの助力があった。
プノンペンでは、ロット・スオン、チア・サミー(Chea Samy、ロット・スオンの妻)、ルク・クン・メアクと一緒にトラサク・ペム通り(Trasak Paem Street)の大きな家で生活していた。
14歳の時にプノンペンの高校の入学試験に失敗したため、コンポンチャムのクメール人市場の中にあったノロドム・シアヌーク高校に入学。
以後6年そこで過ごす。
1948年始めにプノンペンへ戻り、郊外にあるルッセイ・ケオ技術学校Russey Keo Techninal Schoolで寮生活をしながら木工を学んだ。
フランス留学から帰国へ[編集]
1年後に奨学金で、パリへ留学。
cole Fran aise de radio l ctricit で2年間の技術コースを受ける。フランスには1949年9月に到着した。
留学中にポル・ポトは共産主義者になり、新生のクメール共産主義グループに参加した。
このグループは、主としてパリに留学した学生が中心となって1950年にフランス共産党内に作られた「クメール語セクション」に形成された。
メンバーは、ラット・サムオン(Rath Samuoeun)、イエン・サリ、 フー・ユオン、ポル・ポト、ケン・ヴァンサク(Keng Vannsak)、チオン・ムン(Thiounn Mumm)、トゥック・プーン(Touch Phoeun)、メイ・マン(Mey Mann)、メイ・パット(Mey Path)、チ・キム・アン(Chi Kim An)、シエン・アン(Sien An)、キュー・サムファン、キュー・ポナリー、キュー・チリト、ソン・センなどである。
リーダーは、ラット・サムオンとイエン・サリだった。
チオン・ムンらは活発に活動していたが、この当時は、フー・ユオンやポル・ポトはむしろ目立たない存在だった。
フー・ユオンは勉強に集中しており、ポル・ポトは個性をあらわしてはいなかった。
ただ、この当時から両者の主張には隔たりが大きかった。
彼らは共産主義グループではあったが、その主義・主張はかなり幅広く、全体としては、共産主義というよりもむしろ反王政派、国民主義だった。
また、母国の共産主義活動からは遊離しており、観念的であった。
このグループの中で国民主義とは一線を画していたのが、ポル・ポトとイエン・サリである。
パリ時代に、謄写版で発行されていた内部機関紙Khemera Nisitの1952年8月号でポル・ポトは「本来のクメール人」(khmaer da'em)というペンネームで、フランス、ロシアと1924年の中国革命に関する記事を書いた。
その他のメンバーが「自由クメール」「クメール人労働者」といったペンネームを使っていたことに比べて、これを以ってポル・ポトがこの当時から 人種差別的な傾向を持っていたと推測する文献もある。
またこの時期のイエン・サリは、旧ソビエト国内の少数民族政策を論じたスターリンの文章に興味を示している。
その他、書類によって共産党組織をコントロールするスターリンのテクニックに引きつけられたとも述べている。
ポル・ポトは試験に3年連続失敗し奨学金を打ち切られたため1952年12月に船でフランスを後にし、1953年1月14日にカンボジアに到着した。
ポル・ポトは、チャムロン・ヴィチェア(Chamroeun Vichea)私立高校で歴史の教師として働き始める一方、民主党で活動を行っていた。
この時期は、新たにフランスから帰国したシエン・アン、ケン・ヴァンサク、そしておそらくはユン・ソウン(Yun Soeun)、チ・キム・アン、ラット・サムオンらと共に民主党をより左傾化させようと工作していた。
1953年8月、兄のサロット・チャイ(Saloth Chhay)を介して、コンポンチャム州のヴェトナム国境周辺にあったクメール・イサラク連合(Khmer Issarak Accosiation)の本部へ行き、独立闘争に加わる。
その後約1年間生産部隊に配属され、食事の雑用や、耕作用の有機肥料の運搬などに従事していた。
しかし、パリ帰りのインテリでありながら政治教育、イデオロギー教育を受けられず、幹部やリーダーとして昇進できなかったことに深い恨みを抱いたようである。
また、この時期にヴォン・ヴェトと知り合う。
ポル・ポトは本部でフランス共産党のメンバーだと自己紹介したが、その時会見したチェア・ソット(Chea Soth)によれば、「彼は、闘争に参加し我々から学びたいと言ったが、本当は、実際にクメール人が革命を実行しているかどうかを探りにきたのだ。
彼は、すべては、自己にのみ頼り、独立と自制にもとづいてなされねばならない。
クメール人は何でも自分自身で行うべきだと言っていた。」[31]ということである。
1956年、パリで知り合った夫人キュー・ポナリーと結婚した。結婚にはフランス革命記念日が選ばれた。
カンボジア共産党[編集]
「クメール・ルージュ」も参照
当時、フランスのインドシナ支配に対して共産主義者主導の反仏活動が起こっていた。
この活動は中心であるベトナムからカンボジアとラオスに波及した。
1954年にはフランスが仏領インドシナを去り、ベトミンはジュネーヴ協定に従ってカンボジア国内から撤退し、北緯17度線以北の北ベトナムへ集結した。
このため、カンボジア国内のベトナム人左翼活動家の引き上げが始まった。
カンボジア人左翼活動家の中で、フランスで教育を受けた者の一部はヴェトナムの撤退に合わせてハノイへ逃れたが、ポル・ポトは身分を偽って密かにプノンペンへ戻ったらしい。
戻った理由は、ベトナムへ戻るクメール人民革命党の幹部と交代するためであったようである。
こうして、この頃からポル・ポトとそのグループは、クメール人民革命党のプノンペン支部と関係を深めるようになった。
革命運動の実績がないことを考えると与えられたポル・ポトの地位は高かったが、これは状況が激変して党幹部が手探り状態であったからのようである。
当時のポル・ポトの仕事は1955年に予定された独立後初の選挙対策で、クロム・プラチェアチョン(Krom Pracheachon、クメール語で「市民グループ」の意)と民主党との調整役であった。
また、プラチェアチョラーナ(Pracheachollana、クーメル語で「人民運動」の意。
右派のソン・ゴク・タンのグループのこと)の影響を小さくするために、プノンペン市内の活動グループを人民党に集め、また、人民党内部からソン・ゴク・タンのシンパを排除していった。
プノンペン支部党委員会の学生運動担当委員になったと書く文献もある。
ポル・ポトはこの時期に、共産党員の獲得も行っていた。
1954年12月に、ポル・ポトはピン・トゥオク(Ping Thuok、後にソク・トゥオクSok Thuokまたはヴォン・ヴェトVorn Vetとして知られるようになる)を党プノンペン委員会に紹介している。
1955年3月3日、シハヌーク(シアヌーク)は国王を退位し、後に政党(サンクム、人民社会主義共同体)を組織する。
彼はその威光で共産主義反対勢力を一掃し、1955年9月11日の翼賛選挙で議席をすべて獲得した。
しかし政界では左右両派の対立が続き、シハヌークは必要に応じて左派への歩み寄りと弾圧を繰り返した。
1973年にカンボジア共産党が配布した党の歴史に関する文書では、1959年終わり頃から政府は農村部での革命運動に弾圧を加え始めたとしている。
1962年、シハヌークはプラチアチョンのスポークスマンをはじめ15人の活動家を罪名無く逮捕・拘留する。
プラチアチョンの機関紙編集長も逮捕され、これらの活動家達16人は死刑を宣告される。
のちに彼らへの死刑は長期刑に減刑されるが機関紙は廃刊となり、表立って活動していたプラチアチョングループは消滅する。
これ以後、都市部の急進的左翼は地下に潜行して秘密活動に傾斜していくようになる。
しかし1966年頃までは、後に重要な役割を示す左翼運動家の多くは教師として左傾化した学生を生み出したり、またそれが急進的なものでないかぎりは比較的自由に政治活動をおこなっていた。
1960年代半ばに入ると、ベトナム戦争へのアメリカの関与が本格化したことで右派の影響力が強まり、シハヌークの使える政治的裁量の範囲は次第に狭まっていった。
ポル・ポトは、1960年カンボジア共産党中央常任委員に就任した。ただし、ポル・ポト自身は、1961年にヌオン・チアに代わり副書記長に選出されたと主張している。
1963年2月、シハヌーク外遊中にシエムリアップ市で暴動が発生した。
警官により学生が1人殺害されたことから学生の抗議デモが始まり、地方政府が警官をかばうと、最終的に地方警察本部に対する大規模な暴動へと発展した。
シハヌークはこの暴動を左翼による扇動と考え、帰国後ケン・ヴァンサクとソン・センを非難、さらに3月8日には、主要な破壊活動家左翼として34人の名前を公表する。
このリストには、都市部の左派知識人のほとんど全てが載っていた。
キュー・サムファンらは国民議会の非難を受け、ロン・ノルは左派の一掃をシハヌークに求め、1955年以来最大の政治危機となり、左翼にとっては最大の弾圧の危機に見舞われた。
しかし、シハヌークはロン・ノルの提案を拒否し、キュー・サムファンらの辞任も撤回され、リストに挙げられた34人もシエン・アンを除いて特に処罰されることなく終わり、結局は、都市部左翼の状況に関しては元の状態に戻っていった。
この暴動事件の真っ最中の2月20日、21日にプノンペンの秘密の場所で第3回党大会を開き、ポル・ポトが書記長に就任した。
一方、農村部では弾圧が強化され、左翼活動家の殺害や投獄が行われた。
こうした状況のなか1963年5月ポル・ポトとイエン・サリはプノンペンから消え、コンポンチャム州の国境周辺へ移動した。
ジャングルでの地下活動に入ってからサロット・サルは「ポル」というコードネームを用いるようになったらしい。
(「ポル・ポト」という名が使われるようになったのは、1976年4月14日に民主カンプチアの新首相として公式に発表されて以降のことである。 それ以前は「ポル」、「同志書記長」、「オンカー」として知られていた。)
ポル・ポトは以後12年を地下活動で費やした。
1964年遅くにポル・ポトは、ケオ・メアに伴われてラオス国境を越えホーチミンルートでハノイに入り、そこで数ヶ月滞在した後、更に北京、ピョンヤンを訪れた。
ちょうどシハヌークが北京に滞在しているのと同じ時期、ポル・ポトも北京に4ヶ月以上滞在し、〓小平や劉少奇らと仕事をしたらしいが詳しいことはわかっていない。
その後ピョンヤンへ行ったあと再び北京に戻り、1966年始めにカンボジアへ帰った。
ヴォン・ヴェトによれば、ポル・ポトが中国から帰国してからの1966年初め、「党は、都市部の勢力に対する闘争と農村部で武装闘争の準備の方針を打ち出した。」文献によれば、1965年からクメール・ルージュは中国共産党の影響下に入り、1966年からは文革派の影響下に入った。
ただし、ポル・ポトが帰国した時期は中国で文化大革命が本格化する直前のことである。
大躍進時代の毛沢東思想は別として、ポル・ポトが文化大革命から思想的な影響を受けたのかどうかははっきりとしない。
ポル・ポト、イエン・サリ、ソン・セン、キュー・サムファン、その他のカンボジア共産党幹部が文化大革命に対する共感を示す発言をしたことはない。
また、ジャングル入りした学生の証言によれば、文化大革命前の毛沢東主義のスローガンは好まれていたが、文化大革命は事実上無視されていた。
「ジャングルの中では、北京放送を聞いて流れてくるスローガン(「張子の虎」、「農村から都市を包囲する」、「小から大へ」など)を取り上げてはいたが、文化大革命に関する会話も教育も、毛沢東思想に関する勉強も行われていなかった。
党の方針は、困難で長引くが最終的には確実に勝利するはずだという闘争のことばかりだった。
都市部には毛沢東の翻訳本はあふれていたが、農村部にはなかった。」
文献では、ポル・ポトやイエン・サリは、オポチュニストとして、文化大革命の思想とは関係なくむしろ利用されつつ中国を利用したという見方が示されている。
この見方は、他の文献にも見られる。
1967年、ポル・ポトはカンボジア東北地方のジャングル内にカンボジア共産党の訓練学校を作り9日間の政治レクチャーを行ったが、その間中国についてほとんど言及せず、文化大革命についてはまったく述べなかったという。
この時期、クメール・ルージュの都市部の拠点は壊滅しており、辺境部のジャングルに点々と小さな左翼集団があるだけで、 左翼集団間の連絡も容易ではなかった。
ポル・ポトの1977年の発言によれば「連絡のためには徒歩で行ったり、象の背中に乗って行かねばならず、また、連絡用ルートを遮断した敵を 避け続けねばならなかったので、1ヶ月が必要だった。」
1967年4月、バタンバン州のサムロートで、政府による強制的な余剰米の安値買い付けに反対する農民と地元政府の間で衝突が起こる。
1965年頃からカンボジアの余剰米の少なくとも4分の1あまりが北ベトナムとベトコンに買い上げられており、シハヌークの外遊中、ロン・ノルによりベトコンへの米の供給を止めるために、強制的に余剰米を買い上げする方針が打ち出された。
しかし、政府の買い付け値はベトナム人による買い付け値よりも低く、地元の共産主義勢力は反米反政府のビラを巻き暴動を煽動した。
サムロート周辺の暴動鎮圧作戦は数ヶ月間続き、この後、シハヌークはプノンペンの共産主義者達への弾圧をいっそう強化する。
同じく頃より、ポル・ポトは中華人民共和国に支援されて政府に対する武装蜂起を始めた。
カンボジア共産党は後にクメール・ルージュとして知られ、同党の武装組織はポル・ポト派と呼ばれた。
ポル・ポトはその思想に毛沢東思想の変形を採用した。
クメール・ルージュは完全な平等主義の土地均分論を考え社会主義の中間段階を省略し、原始共産主義の達成を目指した。
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