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クーデターと内戦の激化[編集]
シアヌークが南ベトナム解放民族戦線を支援していると見なしていたアメリカ合衆国はロン・ノル将軍を支援、1970年3月18日にクーデターを起こし、シアヌークを追放した。
北京に亡命したシアヌークは、挽回を図りポル・ポトと接触した。元々クメール・ルージュとシアヌークは不倶戴天の敵であったが、ここに共闘関係が生まれた。
ポル・ポトは元国王の支持を取り付けることで、自らの正当性を主張できると考えた。
同年アメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンは、南ベトナムと隣接する解放戦線の拠点を攻撃するためにカンボジア国内への侵攻を許可した。
以後アメリカ軍とカンボジア軍はコンポンチャムなどの都市や農村部に激しい空爆を行い、農村インフラは破壊され数十万人が犠牲となり、米軍の爆撃開始からわずか一年半の間に200万人が国内難民と化した。
クメール・ルージュへの加入者は激増しその勢力は拡大した。
また、ロン・ノル政権は汚職が蔓延し都市部しかコントロールできなかった。
シアヌークの人気とアメリカ軍のカンボジア爆撃は、ポル・ポト派の勢力拡大に有利に働いた。
また、食糧生産も大打撃を受けた。
1969年には耕作面積249万ヘクタールを有し米23万トンを輸出していたカンボジアは、1974年には耕作面積5万ヘクタールとなり28万2000トンの米を輸入し、米の値段は1971年10リアルから1975年340リアルにまで急騰した。
1971年アメリカ会計監査院の視察団はカンボジアの深刻な食糧不足を報告している。
こうした状況のなか、都市部は米国からの食糧援助で食いつなぐことができたが、援助のいきわたらない農村部では大規模な飢餓の危機が進行しつつあった。
ベトナム戦争の不安定化、特に「ベトナムの聖域を浄化する」アメリカ軍のカンボジア猛爆がなければクメール・ルージュが政権を獲ることもなかったであろうという考察もある(ウィリアム・ショークロスの1979年の著書『Sideshow』がこの点に触れている)。
全権掌握[編集]
民主カンプチア[編集]
クメール・ルージュ犠牲者
Choeung Ek公共墓地
「民主カンボジア」も参照
1973年、アメリカがベトナムから撤退。それと同時に、南ベトナム解放民族戦線はカンボジアを去ったが、クメール・ルージュは戦いを続けた。
地方への支配が維持できずロン・ノル政権はすぐに崩壊し、1975年4月17日にクメール・ルージュはプノンペンを占領した。
当初、都市部の住民はクメール・ルージュを歓迎したが、数日のうちに住民らは農村部への強制移住を強いられた。
クメール・ルージュは全権掌握後、国名を「民主カンプチア」に改名。またポル・ポトもこの間に、自身の名前を「サロット・サル」から「ポル・ポト」へ改めたという。
しかし、ポル・ポトはほとんどジャングルから出ず、表向きはシアヌークやその部下を中心とした政権を前面に出し、彼らを傀儡として操ろうとしていたという。
ロン・ノルはアメリカへ亡命したが、逃げ遅れた一族のロン・ノン、ロン・ボレトら閣僚は首都陥落直後に「敵軍掃討委員会」に身柄を拘束され、全員処刑された。
他にも政治家・高官・警察官・軍人ら700人余りが殺害され遺体は共同墓地に投げ込まれた。
ポル・ポトはシアヌークと「売国奴」としてリストに名をあげた少数の人物のみを処刑すると約束していたが、約束は反故にされた。
5月12日にカンボジア領海でクメール・ルージュ軍がアメリカ商船マヤグエース号を拿捕するというマヤグエース号事件が発生した。
ノロドム・シアヌークは1975年に復権したが、すぐに自身が急進的な共産主義の同僚と同列にされていることを理解した。
彼らは君主制を回復するシアヌークの計画を無視した。
さらに1976年4月2日、クメール・ルージュはシアヌークを自邸に監禁。
既存の政府は崩壊しシアヌークは国家元首の地位を追われ、キュー・サムファンが初代大統領(正式には「国家幹部会議長」)になった。
1976年5月13日に、ポル・ポトは民主カンプチアの首相に正式に就任し、地方で大粛清を始め、徹底的な国家の改造を行った。
ポル・ポトが目指したのは中国の毛沢東主義を基盤にした「原始共産主義社会」であり、資本主義の要素を全て否定することであった。
また、カンボジア仏教からも自我の否定、戒律、転生などいくつかの観念が援用されていた。
内戦中、アメリカ軍の農村部への爆撃により農村人口は難民として都市に流入した。
1976年直前にプノンペンの人口は100万以上に増加した。農村での食糧生産はすでに大打撃を受けており、1975年4月にはUSAIDが「カンボジアの食糧危機回避には17.5万~25万トンの米が必要である」と報告し、国務省は「共産カンボジアは今後外国からの食糧援助が得られなくなるため100万人が飢餓にさらされることになるだろう」と予測した。
こうした中でクメール・ルージュは都市居住者を農村での食糧生産に強制的に従事させるために、「米軍の空爆があるので2、3日だけ首都から退去するよう」と都市居住者を地方の集団農場へ強制移住させた。
生存者の証言によると、病人・高齢者・妊婦などの弱者に対しても全く配慮はなかったという。
ポル・ポトは自身が国家から奨学金を得て留学したにもかかわらず反体制的運動に参加した経験から、自らの政治体制の矛盾を見抜きうるインテリ階級を極度に恐れ、弾圧した。
プノンペンは飢餓と疾病、農村への強制移住によってゴーストシティとなり、医者や教師を含む知識階級は見つかれば「再教育」という名目で呼び出され殺害された。
始めは医師や教師、技術者を優遇するという触れ込みで自己申告させ、どこかへ連れ去った。
やがて連れ去られた者が全く帰ってこないことが知れるようになり教育を受けた者は事情を理解し無学文盲を装って難を逃れようとしたが、眼鏡をかけている者、文字を読もうとした者など、少しでも学識がありそうな者などは片っ端から収容所に送られ殺害された。
また、無垢で知識が浅い子供が重用され、解放直後は14歳以下が国民の85%も占めていた。
ポル・ポト政権は、「腐ったリンゴは、箱ごと捨てなくてはならない」と唱えて、政治的反対者を弾圧した。通貨は廃止され私財は没収され、教育は公立学校で終了した。
更に国民は「旧人民」と「新人民」に区分され、長期間クメール・ルージュの構成員だった「旧人民」は共同体で配給を受け自ら食料を栽培できたが、プノンペン陥落後に都市から強制移住された新参者の「新人民」はたえず反革命の嫌疑がかけられ粛清の対象とされた。
「新人民」は、「サハコー」と呼ばれる生産共同体へ送り込まれ、劣悪な環境と過酷な強制労働に駆り出された。
彼らの監視に当てられたのは「旧人民」であり、密偵と称される集団はポル・ポトから「敵を探せ」と命じられていた。
しかし、当初こそ特権的な暮らしを享受した「旧人民」も農村に人口が流入すると食糧不足により、「新人民」同様に働かされるようになったという。
こうした過酷な労働と、飢餓、マラリアの蔓延などにより多くの者が生命を落とした。
カンボジアでは伝統的に上座部仏教が信仰されてきたが、仏教もまた弾圧の対象とされ、多くの僧侶が強制的に還俗させられ、寺院が破壊された。
ポル・ポト政権下において、仏教は壊滅的な打撃を受けた。
対外的には、ソ連やベトナムと断交する一方で中華人民共和国と北朝鮮との関係を強化し、ポル・ポト自身も積極的に外訪した。
これは後述の中ソ対立の構図が大きく影響していた。
また、ポル・ポトが「完全な兵士」として賞賛した地雷は、カンボジア西部のタイ国境沿いを中心に数多く埋設された。
ポル・ポト政権下での死傷者数はさまざまに推計されている。
カンボジアでは1962年の国勢調査を最後に戦争状態に入り、以後1975年までの正確な人口動態が不明となりこうした諸推計にも大きな開きが出ている。
ベトナムが支援するヘン・サムリン政権は1975年から1979年の間の死者数を300万とした(これはのちに下方修正された)。
フランソア・ポンショー神父は230万とするが、これは内戦時代の死者を含む。
イェール大学・カンボジア人大量虐殺プロジェクトは170万、アムネスティ・インターナショナルは140万、アメリカ国務省は120万と推計するがこれらの機関は内戦時代の戦闘や米軍の空爆による死者数には全く言及していない。
フィンランド政府の調査団によれば内戦と空爆による死者が60万人・ポル・ポト政権奪取後の死者が100万人とする。
マイケル・ヴィッカリーは内戦による死者を50万、ポル・ポト時代の死者を75万人としている。
当事者による推定ではキュー・サムファンは100万人、ポル・ポトは80万人である。
没落[編集]
「カンボジア・ベトナム戦争」および「中越戦争」も参照
ニコラエ・チャウシェスクと共に(1978年)
カンボジア人の間では、隣の大国であるベトナムに対する反感が強い。
それはイデオロギーに関係なく、ロン・ノル政権とクメール・ルージュがともに国内のベトナム人を虐殺・迫害したからである。
シハヌーク時代に50万人いたベトナム人のうち、1970年まで虐殺と迫害を逃れるためにベトナムに帰還したのは20万人以上にのぼる。
ポル・ポトは反ベトナムのプロパガンタを喧伝し、クメール・ルージュのラジオ放送では「ベトナムを排除するのに洗練された武器は必要ない。
歴史ある民族の各人が、その手で一人につき10人のベトナム人を殺せば足りる」と放送した。
1978年1月、ポル・ポトはカンボジア東部からベトナム領内を越境攻撃し、現地住民を虐殺した。
さらにベトナムと国交を断交した。
5月には中央のポル・ポトへの反乱の疑いを持たれた東部軍管区(そこはベトナム系カンボジア人の住民が多く、実際にベトナム政府がクメール・ルージュへの反乱を提案したこともあった)を攻撃し、東部地区の大量のクメール・ルージュ将兵を処刑した。
このため、ベトナム領内には、軍民を問わず、10数万人にのぼる東部地区の避難民が流入した。
その中にはヘン・サムリンなどの指導者も多数含まれていた。
ベトナム政府は、ベトナム領内への侵攻と、カンボジア内のベトナム人虐殺を止めるようカンボジア政府に働きかけようとしたが、その対話は成功しなかった。
1978年4月から5月には、カンボジア軍がベトナムに侵入し、バチュク村の村民2,000名を虐殺した。
1978年6月、ベトナムも反撃を開始し、空軍が国境付近に空爆を開始した。
また、ベトナム政府はクメール・ルージュのカンボジアからの排除の意思を固めた。
ベトナムは、ソ連にカンボジア侵攻に対する援助を要請し、1978年11月3日、ソ越友好協力条約が結ばれた。
この動きに対し、カンボジアと友好関係にあった中国共産党は、ベトナムに軍事作戦を示唆する警告を発したが、ベトナムはこれを無視した。
1978年12月25日、準備が整ったと判断したベトナムは、ベトナム国内に避難していたカンボジア人の中から人員を選び、カンプチア救国民族統一戦線として親ベトナムの軍を組織させた。
カンプチア救国民族統一戦線の議長には、ヘン・サムリンが選ばれた。
そして、カンボジア国内の反ポル・ポト派とも連携し、カンボジア国内に攻め込んだ。
カンボジア・ベトナム戦争の幕開けである。
ベトナム戦争からまだ数年しか経っておらず、米国がベトナムに残した武器装備を保持し、ソ連から援助を受け戦い慣れした将兵に事欠かなかったベトナム軍、および彼らに訓練を受けたカンプチア救国民族統一戦線にとって、粛清の影響による混乱で指揮系統が崩壊していた民主カンプチア革命軍の排除は、全く手間取るような作戦ではなかった。
カンプチア革命軍は、中国の支援を受けて装備は充実していたが、正面からベトナム軍を食い止めようとしても敵わず、わずか2週間でカンプチア革命軍の兵力は文字通り半減した。
カンボジア領内に進軍して、早くも1979年1月7日、プノンペンに入りポル・ポトの軍勢を敗走させた。
そしてベトナムの影響を強く受けたヘン・サムリン政権(カンボジア人民共和国)が成立した。
クメール・ルージュ軍およびポル・ポトはタイの国境付近のジャングルへ逃れた。
タイはカンボジア領内でポト派によって採掘されるルビー売買の利権を得、さらに反ベトナムの意図から、自国領を拠点にポル・ポト派がベトナム軍およびサムリン政権軍に反攻することを容認した。
ポル・ポトは国の西部の小地域を保持し、タイ領内からの越境攻撃も行いつつ、以後も反ベトナム・反サムリン政権の武装闘争を続けた。
翌月の1979年2月には、カンボジアの事実上の同盟国だった中華人民共和国(かつてポル・ポト政権を支持)が、カンボジア侵攻に対する「懲罰行為」としてベトナムに侵攻し、中越戦争が勃発した。
しかし、ベトナムは中国人民軍を逆に返り討ちにし、中国は3月には撤収した。
この後、ベトナムはカンボジアを完全に影響下に置き、長い間、その影響力を保持することとなる。
余波[編集]
ソ連とベトナムに敵対したポル・ポトはタイとアメリカから支援された。
アメリカと中華人民共和国は、ヘン・サムリン政権をベトナムの傀儡であるとしてカンボジア代表の国連総会への出席を拒否した。
ポル・ポトが反ソビエト反ベトナムだったので、アメリカ、タイ、中国はベトナム支持のヘン・サムリンより好ましいと考えた。
1981年9月4日ポル・ポトとシアヌークおよび右派自由主義のソン・サンの3派による反ベトナム同盟を結んだ。
ポル・ポトは、この終了を求めて公式に1985年に辞職したが、同盟内の事実上のカンボジア共産党のリーダーとして支配的影響力を維持した。
1989年ベトナム軍はカンボジアから撤退した。1993年、国連監視下での自由化された総選挙により立憲君主制が採択された。
選挙結果は、全120議席のうち、フンシンペック党が58議席、カンボジア人民党が51議席、ソン・サンの仏教自由民主党が10議席、その他1議席であった。
ポル・ポト派はこの選挙に参加せず、新しい連立政権と戦い続けたが1996年ころまでには軍は堕落し規律も崩壊し、数人の重要な指導者も離脱した。
死去[編集]
アンロン・ベン県に建立されているポル・ポトの墓
1997年に、ポル・ポトは政府との和解交渉を試みた腹心のソン・センとその一族を殺害した。
しかしその後クメール・ルージュの軍司令官タ・モクによって「裏切り者」として逮捕され、終身禁固刑(自宅監禁)を宣告された。
1998年の4月にタ・モクは新政府軍の攻撃から逃れて密林地帯にポル・ポトを連れて行った。
伝えられるところによれば、1998年4月15日にポル・ポトは心臓発作で死んだ。
しかし遺体の爪が変色していたことから、毒殺もしくは服毒自殺の可能性もある。
遺体は兵士によって古タイヤと一緒に焼かれた後、埋められた。
火葬にはポル・ポトの後妻と後妻との間に生まれた1人娘が立ち会った。
埋葬直後には墓は立てられなかったが、その後墓所が建てられた。
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