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レトロ

「心の奥にしまわれた、レトロな時間を探しに。」

第3章:空の意味

2025年05月30日 | 思いのまま

 翌朝、ユウキはいつもより早く目を覚ました。
 窓の外には、静かな曇り空が広がっていた。どこかまだ夢の余韻を引きずるような感覚が残っている。あの砂の荒野、そして、僧侶の姿。言葉のひとつひとつが、心の奥底に沈殿していた。
 ――「空を知れば、執着は風のように消える。」
 意味はわからない。けれど、わからないままではいられない。
 ユウキは、前夜に読みかけた『般若心経入門』をもう一度開いた。ページをめくる指先が、今度は少しだけ、確信をもっていた。
 「空とは、実体のないことではない。
 それは、すべてが変化し、関係性の中にあること。」
 本の一節に、目が止まった。
 「すべてが、関係の中にある…?」
 ユウキは声に出してみた。けれど、その言葉が何を意味するのか、すぐには理解できなかった。彼の頭には、「空=無」「空っぽ」「意味がない」というイメージがずっとあったからだ。
 しかし、本文は続ける。
 「『空』とは、無意味を説く言葉ではなく、
 固執を手放すための智慧である。」
 その言葉に、心が少し揺れた。
 ユウキはふと、職場での出来事を思い出した。
 評価にこだわり、他人の視線を気にし、成果ばかりを追い続けた日々。
 「自分はこうでなければ」「周囲にこう思われたい」――そんな思いにがんじがらめになっていた。
 もしかしたら、自分を苦しめていたのは、他人ではなく、「あるべき姿」に執着する自分自身だったのかもしれない。
 その瞬間、彼の中で、昨夜の僧侶の言葉が改めて響く。
 ――「執着は風のように消える。」
 「空とは、何もないことじゃない。
  それは、変わりゆくすべてを、あるがままに見ること――。」
 ユウキはそう呟くと、本を閉じて、深く息を吐いた。
 何かが腑に落ちたわけではない。
 だが、それでも心の底に、静かに波紋が広がっていた。
 まるで、固く閉じられていた扉が、ほんのわずかに軋みながら開き始めたようだった。
 その日の夕方。ユウキはいつものようにオフィスを出たが、帰り道はいつもと違う方向へと足を向けた。
 行き先は――あの古書店だった。
 例の老店主は、まるで彼を待っていたかのように、穏やかな笑みで出迎えた。
 「何か、変わりましたか?」
 そう問われたユウキは、少し照れくさそうに笑った。
 「…まだ、よくわかりません。でも、知りたくなったんです。“空”って、何なのかを。」
 店主は頷き、棚の奥から一冊の小さな本を取り出した。
 タイトルは、『空と縁起の教え』。
 「これは、より深く、仏教の“空”を掘り下げた本です。ですが、読むのは急がなくていい。大切なのは、心が整う“間”を感じることです。」
 ユウキはその言葉を胸に、本を受け取った。

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