北の隠れ家

 総本家「ホームページ風又長屋」・本家「風又長屋」の別館もございますのでご訪問を。 SINCE 2008.12.19

夢のまた夢 ・ 五部

2016年04月21日 11時36分28秒 | 夢のまた夢
☆高校時代1☆




まだ北の大地には残雪の光景が見受けられる四月、アッシは千葉の高校へと北の大地をあとにしたんでございます。

上野から常磐線で三十分ほどの南柏というところにその高校が有ったんでさぁ。「広池学園麗沢高等学校」というその高校は男女共学、全寮制の学校であったんでございます。

敷地面積は何万坪とゴルフ場も有する広大な敷地でござんした。桜並木が構内にあって入学の頃はちょうど満開であったのを覚えておりますんで。


一学年三クラス編成で、全学年でもわずか九クラスしかなかった高校であったんでさぁ。北は北海道から、南は鹿児島まで学生が日本中から集まっていた学校でございました。


時は昭和三十五年四月でございましたなぁ。アッシのクラスは一年C組でしたな。寮は六号舎で別名「清涼殿」と。そうでございます、あの「源氏物語」の「清涼殿」でございます。

寮長は藤田さんという温厚な先輩でございましたなぁ。寮内は先輩後輩の上下関係が厳しく一部屋十二畳間、三年生一人、二年生二人か一人、一年生が二人か一人の四人制で三年生は「部屋長」、一年生は「部屋っ子」と呼ばれていたんでございます。一年生は部屋の掃除から小間使いの役割でございましたな。




寮は平屋の萱葺きで一寮十二室有り、男子寮六寮、女子寮は三寮あったと記憶しておりますがもう定かじゃねぇ(笑)。

寮生活での生活は六時起床、毎朝雨天以外、各寮六時半迄に洗顔、部屋、廊下の掃除を済ませそれぞれの寮の前に整列、先頭には各寮の寮旗を掲げグラウンドまで掛け声をかけながら走ったもので。


そこで「ラジオ体操」を済ませた後、食堂で全員朝食を。食事の支度は一週間置きに一部屋が当番にあたり朝、昼、晩の各寮生の食事の支度、後片付けをしたのでございます。

八時半に登校し授業から開放されたのが午後三時、それから各自、部活動へとわかれていったんで。夕食は六時食堂にて。学習時間が七時から九時まで二時間あり、それから大浴場の風呂へと出掛けたんでございます。


十時消灯で部屋の明かりは消され、勉強する者は、部屋に備え付けられた各自の座り机のスタンドの明かりにて勉強したのでございます。これが寮生活の大体の一日の生活サイクルであったんで。




 
「チッ、チッ、チッ・・・・」

朝靄の中で小鳥のさえずりが瞼を開けさせた。ここは、男子寮の一室である。目覚めたアッシは、今日が日曜日であったことを想いだした。

しばらく煎餅布団の中でボンヤリと物思いに浸る坊主頭の若者。ふと寝床の中から窓の外に目を向けるとサクラの花びらがヒラヒラと散り始めていた。こんな風景の寮生活でございましたなぁ。

  
この寮生活で面白かったのが「ストーム」というものでございましたな。それが「嵐」という意味だということだとわかったのはアッシが一年の夏頃でございました。英語の力が無かったんですなぁ。(笑)。


「ストーム」というのはどんなものかと申しますとね、寮生活で勉強時間というのが決められていましてね。あっ、これは先ほど説明いたしやしたね。

この七時から九時までの勉強時間が終わろうとする5分前におこなわれたものでございます。


どんなものかてぇというと、或る寮の寮生全員三十五名~四十名がこっそり八時四十五分に外へ忍び出て、他の寮の各部屋の窓の下に抜き足差し足の忍び足で、それぞれ配置につくので。

寮というのは、平屋建てであったので各部屋の窓は背丈の高さのところにあったのでございます。この行動はすべてすみやかに沈黙無言の元で行なわれたのでございます。


そうそう、この学習時間の七時から九時までは部屋の明かりは消されており各自の机のスタンドだけが灯りでございました。

この勉強時間が終了する五分前、(九時には自習時間の終了の鐘がなるのでございます)。窓の下にこっそりと忍び寄っていた寮生が、寮長の合図で一斉に窓のサンを両こぶしでひたすら、ガタガタと叩き出すのでございます。



ガタガタガタ!ガタガタガタ!という音が突然にシーンと静まり返っている敷地内にいっせいに鳴り出すのでございます。その部屋で静かにそれまで勉強していた寮生達を驚かすのが 目的なのでございます。

これが「ストーム」でございました。寮と寮との親睦を図るのも一つの目的だったので。

この「ストーム」なるものは、たしかイギリスの寮生活を送っている学生たちが始めたものであるとか先生から聞いたことがございます。



アッシ達も「ストーム」を他寮に仕掛けたり、また他寮からも仕掛けられたんでございます。

傑作だったのは、どこからか他寮が今夜自分たちの寮に「ストーム」を仕掛けてくるという極秘ニュースが漏れてくるときがあったんでさぁ。そんな時は、その時のために「バケツ」に水をマンタンに満たしておき、「ストーム」を仕掛けられた瞬間にガラッ!と窓を開け、そのバケツの水を窓のサンをたたいていた相手に頭から掛けてやるのでございます。


掛けられたほうがビックリ!ズブヌレ状態になるので。すべて、若いから出来たことでございましたなぁ。そんな素晴らしい青春時代をアッシは過ごして居たんでございます。これもすべて育ての親のお陰でございました。感謝しなけりゃなりませんな。

この行事「ストーム」は、季節的には新入生が入学したばかりの四、五月に集中しておりました。新入生は初めての経験でびっくりするのでございましたが、そのうちにこの行事が快感となってくるのでさぁ。






夏が近づいてくる頃にゃ寮毎に、「新入生歓迎肝試し大会」が行われるのが恒例行事の一つでございました。

その夜は出発する前に先輩が「怖い怖い話」をするのでございます。そして九時半頃、一人一人時間を置いて寮を出発、決められたコースを通過証明書を先輩からもらってくるのでありました。

中にはコースを間違えて夜が白白と明けてくる頃ようやく寮に戻ってくる寮生もございましたなぁ。何Kmも歩くコースで、それも十分置きに一人ずつ出発するという、とても凝った「肝試し大会」だったので。


何ケ所かの関門を通過し、その証拠を手にし帰寮するのでさぁ。とにかく、学校の敷地以外に夜中、出発するのでございますから、所は街の中なんかじゃない、山の中に建っている学校で。敷地外も、もちろん草深き山の中でございます。

懐中電灯一個持参で、ジャージ姿で出発するのでございます。灯りなどは道の周囲などには全然なく、月の灯りだけが頼りでありました。道といってもけもの道に近いものでございましたなぁ。





ちなみにアッシは、この「肝試し大会」で神社の石段につまずいて転倒し、右足のサラの部分を複雑骨折し三ケ月の入院治療に当たる羽目になったんで。

転んだ時は周囲の暗闇の怖さに気を取られ、痛みはそれほどでもなかったのでございますが、翌朝の日曜日に、東京から敏信兄と愛子姉が入学後初めてアッシの顔をわざわざ東京から見にきてくださった時にゃ起きあがることが出来なかった重症でございましたんで。


即、兄たちに連れられて兄たちの住まいの近くの東京の個人病院へ入院したアッシでございました。 

東京で入院生活していた時は、このときとばかり愛子姉に甘え、しまいには怒られるほどの甘えん坊を発揮したアッシでございました。
そりゃ無理もなかったんでぇ。姉たちと再会出来たのは何年振りかのことで、甘えることが出来たのはこの時だけだったんですから。でも十五の歳にしちゃ確かにふがいなかったアッシでござりましたねぇ。


この東京での入院生活は一ケ月は有ったでしょうかね。学園に戻っても一ケ月は療養所で入院していましたなぁ。寮に完全復帰するまで三ケ月近くもかかったようで。入学早々、こんな状態で授業もほとんど受けないままに試験に臨む羽目になっちまって。ええっ?問題は解けたかったかって?勿論、ほとんど出来なかったでございますよ。





 
こんな中、一ケ月に一度大食堂で男女混合の「会食」が行われるのが恒例であったんでさぁ。

この「会食」てぇのは、普段は寮毎にそして各部屋毎に席があり食事を採るのですが、「会食」の時だけは、女子が男子席の間間に席を取って一緒に食事をするのでございます。


この一ケ月に一度の会食の時は、一つの寮が寸劇を行うのが恒例となっていたんで。これがまた非常にユニークのものが多く順番にあたった寮は一ケ月も前から密かに練習を開始するのでございます。

アッシが一年の時、この「会食寸劇」で主役を諸先輩から命令されたんで。先輩の命令にゃ絶対服従の不文律が。なんと寸劇のタイトルは当時 一年生の国語の教科書に載っていた「勧進帳」でございました。 


そう歌舞伎で有名なあの「勧進帳」でございます。この晴れ舞台?のお陰でアッシの名は翌日には全校生徒に知らぬ人は居ないというほどの有名人?になっちまったんでございます、へぇ。

アッシが演じたのは「代官 富樫」でしたなぁ。相手役の弁慶役には三年生の柔道部の猛者、大柄の先輩が演じたんでございます。有名なあの白河の関所越えでのシーンをほとんどこの二人で演じたので。


今でもそのときのセリフの一つを鮮明に 覚えているアッシでございます。 「頭上にいただくときんはいかに?」という有名なセリフを、「頭上にいただく、ハットはいかに?」と英語を各所に入れ、セリフをアレンジし、面白おかしく演じたのでございます。

この丁々発止のやりとりが、会場に大爆笑の渦を引き起こし爆笑につぐ爆笑で、いっぺんに名前を売ってしまったのでございます。それからは「学年対抗弁論大会」「応援団団長」等さまざまな体験をさせていただいたアッシでございました。



 
そんなこんなで青春時代の高校時代を、上野まで三十分という千葉県下の、とある田舎で過ごしたアッシでございました。

その高校も今や時代の波に勝てず全員寮生活であった昔の姿も年々少なくなり、現在は半分以上の学生は通学となっているとの事でございます。もちろん当時の木造平屋建ての六つの萱葺きの寮も鉄筋コンクリート造りに変貌しているとか……。てぇいうことはあの「ストーム」行事も今や、 伝説的なものとなっているのやも知れませんなぁ。


また、当日にパンツを洗濯していた洗面器で「焼き飯」を作って部屋の住人みんなで食べたのも懐かしい思い出でございます。箸なんてぇものは使わずにスプーンでガツガツ食べていやしたんでやんすよ。

そうそう缶詰も缶きりなんぞは使わずにスプーンで開けていましたなぁ。そんなことも今の時代は姿を消しているのかも知れませんなぁ。。

つづく


最新の画像もっと見る

コメントを投稿