76年前の1945年(昭和20年)夏
カラフトマスは大豊漁だった
樺太豊原市に住んでおり女学校一年生
戦局が悪化してきたことを子供心にも感じていた
食料も自給自足と言われ空き地はすべて畑になり
学校でも勉強したのは4月だけ
原野を開墾し麦やジャガイモを植える作業ばかりだった
ソビエトが参戦したら樺太は陸の孤島になる
我が家も郊外に土地を借りて母は畑作業に行く毎日だった
夏
鉄道管理局に勤めていた父は
カラフトマスを大量に買ってきた
大きな箱に10匹ぐらいも入ったのを何箱も
(記憶では200匹ぐらい)
母と二人でさばいて いくつもの大きな樽にどぶ漬けにして
父が掘った8畳間位の防空壕に貯蔵した
春ニシンも大豊漁だったので
すしニシンや身欠きにしんも大量に作られて貯蔵されていた
8月9日ソビエトが参戦 樺太島民に危険が迫ってきた
13日から婦女子の疎開がはじまり
15日敗戦
我が家は父を残して北海道へ命からがら引揚げてきた
ひとり残された父 大空襲や何度も危険な目に遭った
住んでいた鉄道官舎はソ連将校の宿舎となり
父は片隅にひっそり暮らした
防空壕に貯蔵された大量のカラフトマスやニシンは
すべて没収されソ連兵のご馳走になったそうである
父は3年後の11月やせ衰えて帰国したが
苦労したことをあまり語らないまま68歳で亡くなった