だいたい、木なんて物には、普通はよじ登るくらいのもので、
抱きついたりはしないものなのだ。
抱きついたりするのはセミくらいのものだ。
ところが、先日カミさんから“木に抱きつく女”の話を聞いた。
ある日、カミさんはひとりのご婦人と一緒に某所への道程をウオーキングで出かけた。
その途中、町中に立っていた大木に、人目もはばからず突然このご婦人は
セミのように、(そしてウレシソーに!)抱きついたというのだ。
カミさんが呆気にとられ見ていると、
「さあ!あなたも抱きつきなさい!こうやってこの木の“気”を、
エネルギーをもらうのよ!」と促してきた。
「エ~っ?」と内心思いながらも、仕方なく(?)カミさんも
同じように木に抱きついたようだが、人目が恥ずかしく“気”など
感じるどころではなかった・・。
この話を聞いて、「そのご婦人、なかなかやるなあ!」と思うと同時に、
ちょっと乱暴な言い方だけれど“吉本新喜劇”を見て、「何が可笑しいのかが、わからない。」というカミさんのような理詰めタイプの人間には、木の“気”を感じるなどは、まあ、おそらくはムズカシイことなのだろうなあとも思った。
(このご婦人が、“吉本新喜劇”を見てお笑いになるのかどうかは知りませんけど・・)
それにしても、大木に抱きつき、その“気”をいただこう!という発想と、
人目をはばからぬその行動力は素敵だなあ・・と思う。
以前、何かで知った、「ネイティブアメリカンのある部族は、
自然界におけるすべての物は、その命において分け隔てはないといった意味から、
例えば魚のことを“ヒレの人”、木のことは“木の人”と呼ぶ」という話を
思い出した・・。
このご婦人が抱きついたのも、ただの一本の大木ではなく、
堂々と命を育む“木の人”だったのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
自宅裏で自営業を営む僕は、独りで仕事場に閉じこもっているのが常なので、
息抜きのために、すぐに外の空気に触れたくなる・・。
幸い仕事場の横は我が家の畑。
そこへ日に何度も足を運んでは、風に吹かれ、陽射しを浴びて、
大きく背伸びをしたりする。
もしかしたら、そうしながら気づかぬ内に、
眩しい緑の“菜の人”や、可憐に咲いた“花の人”たちから、
いつも心地よい“気”をもらっているのかも知れない。
あ、そう言えば“吉本新喜劇”、僕は結構笑えます。(笑)


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抱きついたりはしないものなのだ。
抱きついたりするのはセミくらいのものだ。
ところが、先日カミさんから“木に抱きつく女”の話を聞いた。
ある日、カミさんはひとりのご婦人と一緒に某所への道程をウオーキングで出かけた。
その途中、町中に立っていた大木に、人目もはばからず突然このご婦人は
セミのように、(そしてウレシソーに!)抱きついたというのだ。
カミさんが呆気にとられ見ていると、
「さあ!あなたも抱きつきなさい!こうやってこの木の“気”を、
エネルギーをもらうのよ!」と促してきた。
「エ~っ?」と内心思いながらも、仕方なく(?)カミさんも
同じように木に抱きついたようだが、人目が恥ずかしく“気”など
感じるどころではなかった・・。
この話を聞いて、「そのご婦人、なかなかやるなあ!」と思うと同時に、
ちょっと乱暴な言い方だけれど“吉本新喜劇”を見て、「何が可笑しいのかが、わからない。」というカミさんのような理詰めタイプの人間には、木の“気”を感じるなどは、まあ、おそらくはムズカシイことなのだろうなあとも思った。
(このご婦人が、“吉本新喜劇”を見てお笑いになるのかどうかは知りませんけど・・)
それにしても、大木に抱きつき、その“気”をいただこう!という発想と、
人目をはばからぬその行動力は素敵だなあ・・と思う。
以前、何かで知った、「ネイティブアメリカンのある部族は、
自然界におけるすべての物は、その命において分け隔てはないといった意味から、
例えば魚のことを“ヒレの人”、木のことは“木の人”と呼ぶ」という話を
思い出した・・。
このご婦人が抱きついたのも、ただの一本の大木ではなく、
堂々と命を育む“木の人”だったのだ。
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自宅裏で自営業を営む僕は、独りで仕事場に閉じこもっているのが常なので、
息抜きのために、すぐに外の空気に触れたくなる・・。
幸い仕事場の横は我が家の畑。
そこへ日に何度も足を運んでは、風に吹かれ、陽射しを浴びて、
大きく背伸びをしたりする。
もしかしたら、そうしながら気づかぬ内に、
眩しい緑の“菜の人”や、可憐に咲いた“花の人”たちから、
いつも心地よい“気”をもらっているのかも知れない。
あ、そう言えば“吉本新喜劇”、僕は結構笑えます。(笑)


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