先日、聖徳太子についてちょこっと書いたが、やはりというか、ついでに天武天皇と天智天皇について書きたくなってしまった。
まず大前提として、日本書紀の記載によれば天智天皇と天武天皇は舒明天皇と皇極天皇を父母とする兄弟ということになっている。
そして、この日本書紀は天武天皇の命によって編纂されたが、完成したのは死後のことである。そして天武天皇については、唯一日本書紀で二巻に渡り取り上げられているのだが、年齢に関する記載がまったくないのだ。このことは古くから謎として指摘されているところ。
編纂を命じた人物についての記録が不自然なのだ。この点については、実質的な編纂者である藤原不比等の影がちらつく。
そこで、兄である天智天皇と壬申の乱をめぐって、さまざまな仮説がいり乱れているというわけである。
謎なのは、年齢だけではない。彼が壬申の乱で表舞台に出る前の半生についての記載もなく、大化の改新の時にも名前すら出てきていない。
ところが、別の史料にある没年齢などから計算すると、兄の天智天皇よりも年上という結論しか出てこないのだ。実の兄弟でこれって・・・? つまり兄だったと見るべきか。
実は、母の皇極天皇については天智天皇をもうける前に、別の男性との間に別の子供をもうけていることが日本書紀に記載されている。
ということで、その子供が天武天皇なのでは・・・という説も古くからある。この辺については、ありとあらゆる仮説がネットをたぐれば見つかるので、ご興味ある方はどうぞ。
このブログでは情緒的な角度から迫ってみたい。まずは万葉集の有間皇子の歌だ。「磐代の浜松が枝を引き結び ま幸くあらばまた還り見む」。謀反の疑いを掛けられた彼が、中大兄皇子の元に弁明のために牟婁の湯に赴く途中の歌とされている。
この歌を初めて習ったときに感じたのは、有間皇子を陥れた(大化の改新で正義の味方であったはずの)、中大兄皇子(天智)の別の姿だ。
この歌から浮かび上がってくるのは、正義感に燃えた中大兄皇子ではなく、自分が政権をとるために、政敵を陰謀で倒していく嫌な存在である。
この歌が万葉集というところに意味がある。国の正史として脚色されたものとは考えにくいからだ。つまり、ここに垣間見える中大兄皇子の姿は、けっこうリアルでは・・・と。
そして、額田王と大海人皇子(天武)のやりとりのくだりも万葉集だ。いまではこのやりとりがヤラセという研究もあるというが、万葉集という歌集の性格から見て、このエピソード的なものはあったと見たい。
また、以前の記事で紹介したように、天武・持統合葬陵は天智天皇と完璧に経度が並んでいて、その関係性も強い。
ちなみに、左右の写真は明日香にある天武・持統合葬陵だが、この古墳と京都にある天智天皇陵は、埋葬されている人物が特定できる数少ない例でもある。
天智と天武は兄弟ではないという説を唱える向きもあるが、このあたりから見て少なくとも近い距離にあったと見た方が良さそうだ。
現在ビッグコミック連載中の「天智と天武」では、天武は入鹿の子供となっているが、この場合、天武は弟になるが、入鹿の年齢からみて、その可能性は低そうだ。
むしろ、あるとすれば蝦夷の子供であるが・・・
さらに言えば、天武は天智の娘の4人を妃にしている。正しくは政略結婚だろうが、逆に天武からは一人も天智側に行っていない。
当然すべてが、大海人皇子時代の話だ・・・
このことから見て、天武は天智から見て、自らが政権を取るためには懐柔する必要のある親族であり、といって舒明天皇の子供でもなさそうだ。
日本書紀に記された、皇極天皇の子供なのかどうかはわからないが、天智の異父兄弟というところは妥当なのかも知れない。
まず大前提として、日本書紀の記載によれば天智天皇と天武天皇は舒明天皇と皇極天皇を父母とする兄弟ということになっている。
そして、この日本書紀は天武天皇の命によって編纂されたが、完成したのは死後のことである。そして天武天皇については、唯一日本書紀で二巻に渡り取り上げられているのだが、年齢に関する記載がまったくないのだ。このことは古くから謎として指摘されているところ。
編纂を命じた人物についての記録が不自然なのだ。この点については、実質的な編纂者である藤原不比等の影がちらつく。
そこで、兄である天智天皇と壬申の乱をめぐって、さまざまな仮説がいり乱れているというわけである。
謎なのは、年齢だけではない。彼が壬申の乱で表舞台に出る前の半生についての記載もなく、大化の改新の時にも名前すら出てきていない。
ところが、別の史料にある没年齢などから計算すると、兄の天智天皇よりも年上という結論しか出てこないのだ。実の兄弟でこれって・・・? つまり兄だったと見るべきか。
実は、母の皇極天皇については天智天皇をもうける前に、別の男性との間に別の子供をもうけていることが日本書紀に記載されている。
ということで、その子供が天武天皇なのでは・・・という説も古くからある。この辺については、ありとあらゆる仮説がネットをたぐれば見つかるので、ご興味ある方はどうぞ。
このブログでは情緒的な角度から迫ってみたい。まずは万葉集の有間皇子の歌だ。「磐代の浜松が枝を引き結び ま幸くあらばまた還り見む」。謀反の疑いを掛けられた彼が、中大兄皇子の元に弁明のために牟婁の湯に赴く途中の歌とされている。
この歌を初めて習ったときに感じたのは、有間皇子を陥れた(大化の改新で正義の味方であったはずの)、中大兄皇子(天智)の別の姿だ。
この歌から浮かび上がってくるのは、正義感に燃えた中大兄皇子ではなく、自分が政権をとるために、政敵を陰謀で倒していく嫌な存在である。
この歌が万葉集というところに意味がある。国の正史として脚色されたものとは考えにくいからだ。つまり、ここに垣間見える中大兄皇子の姿は、けっこうリアルでは・・・と。
そして、額田王と大海人皇子(天武)のやりとりのくだりも万葉集だ。いまではこのやりとりがヤラセという研究もあるというが、万葉集という歌集の性格から見て、このエピソード的なものはあったと見たい。
また、以前の記事で紹介したように、天武・持統合葬陵は天智天皇と完璧に経度が並んでいて、その関係性も強い。
ちなみに、左右の写真は明日香にある天武・持統合葬陵だが、この古墳と京都にある天智天皇陵は、埋葬されている人物が特定できる数少ない例でもある。
天智と天武は兄弟ではないという説を唱える向きもあるが、このあたりから見て少なくとも近い距離にあったと見た方が良さそうだ。
現在ビッグコミック連載中の「天智と天武」では、天武は入鹿の子供となっているが、この場合、天武は弟になるが、入鹿の年齢からみて、その可能性は低そうだ。
むしろ、あるとすれば蝦夷の子供であるが・・・
さらに言えば、天武は天智の娘の4人を妃にしている。正しくは政略結婚だろうが、逆に天武からは一人も天智側に行っていない。
当然すべてが、大海人皇子時代の話だ・・・
このことから見て、天武は天智から見て、自らが政権を取るためには懐柔する必要のある親族であり、といって舒明天皇の子供でもなさそうだ。
日本書紀に記された、皇極天皇の子供なのかどうかはわからないが、天智の異父兄弟というところは妥当なのかも知れない。
とある部分が、「漢皇子」を天武天皇とし、兄・天智は弟・天武より年下となる説ですね。
この話題は、「もののはじめ」の①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩を離れて近々公開予定です。
果たして・・・?
まさしく、漢皇子=天武説の主流ですね。この説を中心に、古来、天武天皇の年齢については、たくさんの説がいり乱れており、まさしく弟としつつ、一回りくらい年下なんて説もあるようですね。
このブログでは、突っ込んだ話を取り上げるのは適当ではないと思い、入口で止めておりますが、個人的には興味深々のところですので、
iinaさんの記事がとても楽しみです。またよろしくお願いします。
意味は、
香具山(男性)は畝傍山(女性)が愛おしいと、耳成山(男性)と互いに争った。神代からこうであるらしい。
昔もこのようであったからこそ、現世でも一人の女性を二人で争うらしい。
これは、
香具山は/畝傍を/惜しと…………香具山男性説ですが、
香具山は/畝傍/雄雄しと…………香具山女性説とする解釈もあるらしいですね。
個人的には、山容から香具山(女)・畝傍山(男)・耳成山(女)なのですが・・・。
この大和三山の歌も、高校生の時に聞き、あれ・・・なんで香久山が男なんだ?と小生も感じたのを覚えております。
当時の小生の頭の中には、持統天皇と香久山のイメージがセットになっていたように思ったのですが、修学旅行で畝傍山と耳成山を見て、その山容から貴殿と同様の印象を持ちました。
ただ、山容を無視して考えると、二等辺三角形の頂点が畝傍山で、きれいな三角関係が成立しているのも確かかと。
果たして・・・?