いつものようにふらふらと、いろんな記事を眺めていたら、トップ写真のようなあるホテルの広告が見つかった。今日は久しぶりに蘊蓄ネタで・・・
「日本旅館のもてなしを江戸城の正門である大手門に近い一等地で」とある。細かいことが気になる小生としては、これに食いつかずにはいられなかった。
そう大手門は江戸城の正門なのか? ・・・だ。もちろん、現在の皇居という設定でみれば大手門はまさに正面玄関なのだが・・・
江戸城ということでいえば、正門は半蔵門なのである。まずは古地図をご覧いただこう。地図の上が北に慣れた我々には見にくいが、上が東になっている。
そして「御城」と書かれた江戸城の字の向きは、西が下だ。江戸時代の地図のルールは家ごとに文字の向きがバラバラで、その理由は正門の位置を示すためだ。そしてその文字の下が正門の方向なのだ。
つまり、江戸城の正門は西を向いている・・・となると、半蔵門こそが正門ということになる。そんな・・・大手門は東京駅の近くじゃないかっていう人もいよう。
だが、大手門が正門だとすると、紀尾井町すなわち紀伊・尾張・井伊の最重要VIPが住む屋敷は江戸城の裏になってしまう。
半蔵門からまっすぐ西に伸びる甲州街道こそが城前のメインストリートなのだ。ちなみに、麹町というのも一説によれば、甲路から来ているという・・・
逆にいえば、大手町とか二重橋などが正門・・・というイメージは東京駅の存在や、皇居になってからの我々のイメージということになる。
だからといって、トップ写真の広告にケチをつけるつもりはなく、またこんな違和感を感じる人もほとんどいないはずだ。
さて、今年の大河は「どうする家康」であるが、すでに服部半蔵が登場している。この後も服部半蔵をはじめとする忍の一族が活躍するシーンはたくさんありそうだ。
その半蔵の名前を正門に冠した「半蔵門」が正門・・・家康が服部半蔵を、どれだけ頼りにしていたかがわかるかと。今はひっそりとしているが・・・
話はそれるが、紀尾井町と聞いて、あれ? と思った方も多いかと・・・紀伊・尾張の御三家に対し、水戸が入らずなぜ井伊が・・・と。
実は、我々が歴史で習い、誤解しているのは、御三家が対等の存在だと思ってしまうことで、正確には2.5家というべき存在だったのだ。
もちろん、徳川慶喜のように水戸藩出身の将軍はいるのだが・・・格式でいえば、ということだ。
いろいろ書きたくなってしまうが、その件についてはまたいずれ・・・としよう。
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