「右も左もわからない」と言えば、バカをあらわす表現の一つだけれども、正直この言葉が好きではない。
というのも、自分が咄嗟に「右」「左」というのを判断し、口に出すことが出来ないからだ。
子供のころは全く気にもしなかったが、さすがにこの年にもなると、カミングアウトするのは気恥ずかしいものがある。
ところが、時々『ナビをしていて、どっちが右か左かわからなくなる』みたいな話を目にしたりする。
「ああ、俺だけじゃないんだ~」とほっとするものの、これって問題があるんだろうか?と(開き直りのように)思ってしまう自分がいる。
子供のころ、自分は「右」「左」というのを、概念的に全く理解していなかったと言っていい。
基本的に、「あっち」「こっち」で言えばいいのであって、「左右」という概念は全く憶える気も無かった。
おそらく、「左右」というものを真剣に憶えたのは、英語の「left」「right」を憶えるときだったのではないだろうか?
(「left」ってぇのは「左」で、「左」ってぇのは、こっち側・・・って感じ)
不思議なのは、たぶん10歳くらいには「東西南北」という概念はしっかりと身についていたこと。バカボンのオープニングのせいだろうか?何はともあれ、方向感覚とか、そういうのと「左右」というものは違うわけね。
つまり、客観的っていうか、絶対的な方向感覚?である「東西南北」と、自分を中心とした相対的な方向感覚?である「左右」は違うってことか??
そういえば、俺はだいたい2,3回通れば、その道は憶えてしまう(風景込み)。そういう意味での記憶力は良い。
よほどグニャグニャしていて、方向感覚を狂わせられない限りは、東西南北、どっちの方向かというのもわかる。
となると、結論的には「憶える必然性を感じなかったから」ということになるのだが、それなりにそのツケはあるわけで、やっぱり「右も左もわからない」というレッテルからは、逃れられそうに無いのである。
というのも、自分が咄嗟に「右」「左」というのを判断し、口に出すことが出来ないからだ。
子供のころは全く気にもしなかったが、さすがにこの年にもなると、カミングアウトするのは気恥ずかしいものがある。
ところが、時々『ナビをしていて、どっちが右か左かわからなくなる』みたいな話を目にしたりする。
「ああ、俺だけじゃないんだ~」とほっとするものの、これって問題があるんだろうか?と(開き直りのように)思ってしまう自分がいる。
子供のころ、自分は「右」「左」というのを、概念的に全く理解していなかったと言っていい。
基本的に、「あっち」「こっち」で言えばいいのであって、「左右」という概念は全く憶える気も無かった。
おそらく、「左右」というものを真剣に憶えたのは、英語の「left」「right」を憶えるときだったのではないだろうか?
(「left」ってぇのは「左」で、「左」ってぇのは、こっち側・・・って感じ)
不思議なのは、たぶん10歳くらいには「東西南北」という概念はしっかりと身についていたこと。バカボンのオープニングのせいだろうか?何はともあれ、方向感覚とか、そういうのと「左右」というものは違うわけね。
つまり、客観的っていうか、絶対的な方向感覚?である「東西南北」と、自分を中心とした相対的な方向感覚?である「左右」は違うってことか??
そういえば、俺はだいたい2,3回通れば、その道は憶えてしまう(風景込み)。そういう意味での記憶力は良い。
よほどグニャグニャしていて、方向感覚を狂わせられない限りは、東西南北、どっちの方向かというのもわかる。
となると、結論的には「憶える必然性を感じなかったから」ということになるのだが、それなりにそのツケはあるわけで、やっぱり「右も左もわからない」というレッテルからは、逃れられそうに無いのである。