日本は津波による大きな被害を受けるだろう UFOアガルタのシャンバラ

エーテル界の人類の源郷か?神の国か?天上のエルサレムか?
チャネラーとコンタクティの情報を集めています。森羅万象も!

「この世界的パンデミックは9.11同時多発テロ(2001年)と3.11東日本大震災(2011年)に引き続き、イルミナティカード(1995年発売)に完ぺきに予告されている「災厄」である!」(6)

2020-05-21 08:04:44 | 森羅万象

<霊査で分かってきた「身分制社会のプレアデス系の傾向性」>
・霊査をすると、これは必ずしも霊障の問題ではないのですが、「宇宙人系のリーディング」をいろいろとやっているなかで、プレアデス系の魂について気がついたことが一つあります。
 もちろん、プレアデス系といっても、星が幾つかあるので、すべての星が同じかどうかは分からないのですが、どうも、プレアデス系の魂を分析していると、身分制社会に生きているようなのです。
 つまり、プレアデス系の社会というのは、明確には言えませんが、おそらく二割ぐらいが上流階級で、あとの八割ぐらいがその人たちを支えているような状況になっているのではないかと思うのです。

・そのため、昔、プレアデス系の星から、地球の日本、あるいは、ほかの国に来て、神を名乗った者もたくさんいると思うのですが、「そういう者は、いわゆる労働や貨幣経済的なものを否定する傾向が強い」ということが分かってきたのです。
 そういう意味で、プレアデス系の人には、「勤勉さ」とか、「努力」とか、「働く」といったようなことを軽視する傾向はあるように思います。

<宇宙人のプレアデス・バガ・アンドロメダ・ケンタウルス系の「魂のブレ」>
・なお、そこまで行っていないようなプレアデス系の人の場合は、「“狐”変転」というか、狐風のプライドを持って騙しをする人も、一部いるように思われます。
 ちなみに、日本の昔話には、狐や狸が化かす話がよく出てきます。
 現代では、狐も狸も化かしたりはしないですし、昔の話にはいろいろなものがたくさん混ざっているため、よくは分からないのですが、いわゆる幽霊としての「動物霊」風のものや、畜生道に堕ちた人間が取り憑いて化かしている場合もあるとは思います。

・あるいは、ベガ系で正統ではない者の場合は、要するに、(ベガは)変化しやすい性質を持っているタイプなので、「“狸”変化」している可能性もあるのではないでしょうか。人を騙して、いたずらしたり、悪さをしたりするほうに、魔性が出てくる場合もあるかもしれないと思います。

・ちなみに、プレアデス系の人でも、美人や美男であったり、頭や家柄がよかったりすると、天狗になりやすい傾向は出てきます。また、ベガ系の人でも、やや、心が曲がっているような感じになってくると、そのように見える場合もあります。あるいは、アンドロメダ系の人でも、実際上、正義を掲げて戦う傾向はあるものの、強さに酔いしれると、天狗的になる傾向は出てくるように思います。

・それから、ケンタウルス系の人も、知能や科学の発展を、かなり鼻にかけている人が多いので、科学万能主義や唯物論的な思考等に入っていきやすい傾向の人も多いように思います。

<「悪霊の生産工場」となっている先祖供養系宗教の間違い>
・また、悪魔やその他の悪霊・悪霊等が、「取り憑かれている人の祖先」を名乗って出てくる場合もあります。亡くなった父や母、祖父、祖母、きょうだいなどを名乗って出てくることがわるわけです。
 やたらと先祖供養ばかりをする宗教も数多くありますが、そのなかには先祖ではない霊もたくさん来ていて、「悪霊の生産工場」になっているようなものもたくさんあります。

・密教系のある宗教では、「千日間、このお経を読んで、座って数珠を擦りながら拝んでいたら、先祖の因縁が切れる」というようなことを教えていました。

<悪い現象は、すべてがよくなる前触れ」という光明思想系統の騙し>
・あるいは、病気をしたり家族が死んだりして、悪い現象がたくさん起きてくると、「これは、すべてがよくなっていく前触れなのだ。今は最悪だと思っているけれども、それは悪いことがすべて崩壊していく過程なのだ。運命のケミカライゼーション(自壊作用)なのだ。崩壊が始まっているので、あとはよくなるしかないのだ」ということだけを説くような宗教もあります。

<霊障にならないための自己点検法>
<「心の持ち方を正し、生活を正していくこと」が基本>
<心が変わらなければ、憑いているものは、取っても戻ってくる>
・やはり、自分自身を正さなければ、「慣性の法則」は働き続けます。
 例えば、列車が猛速度で進んでいるときに、ブレーキをかけても、何百メートルも止まりません。そのようなものと同様に、自分の心の傾向性も急には止まりませんので、そういうものだと心得てください。

<真のエクソシスト>
<悪魔に最終的に勝つ力>
<教えられる人が少ない「真のエクソシスト」>
<「真の降魔師」「魔を降すマスター」になるために>
<「正しい道」を悟る人が多く出ることが大事>
・そういう意味で、生きている間には、正しい道と、そうでない道と、どちらにも行く可能性があるわけですが、「正しい道を悟る人が、できるだけ多く出る」ということが大事なのではないかと思っています。

<不成仏霊が現れやすい「場所」>
<不成仏霊が長く地上にいると「障り」が起きてくる>
・現実問題として、つくづく、「降魔は本当に難しいことだ」と思います。

<「憑依の原理」とその実態>
<地獄霊は「心に共通項がある者」に乗り移る>
<地獄からは生まれ変われないため、地上の人に憑依する>
・「地獄にいる状態では、母親の子宮に宿って生まれてくるのは、かなり困難なのではないか。一定のレベルまで心の平静を取り戻し、天国的状態というか、最低でも4次元の精霊界ぐらいのレベルまでは上がらないと、生まれ変わるのが難しいのではないか」と考えています。
 それが、「憑依の原理」の存在理由だろうと思うのです。

<「犯罪時の記憶がない人」に起きていること>
・これは、おそらく、本人の魂が体から抜けていて、そこに悪い霊に入られているのです。そして、人を刺し、そのあと、その霊が抜けて元に戻ると、人を刺したときの記憶がないわけです。
 裁判では法律によって裁いてはいるのですが、憑依の問題があるので、けっこう厳しいのです。

<霊的な影響を受けている人の「善悪の判定」は非常に難しい>
・幸福の科学を始めた当初、3年間ぐらい、「入会願書制度」を設け、「入りたい」という本人が書いた願書を私のほうで見て、合否を判断していたことがあります。
 その願書のなかには、精神病棟に入っている人から来たものがあって、読んだところ、「東京大学の法学部の先輩だ」という人でした。

<戦い方①――危険を伴う外科手術型エクソシスト>
<バチカン系の「エクソシスト」の怖い事例>
・例えば、精神病院などでもよくあるように、本当に、当人の手足を縛ったり、体を何かに縛りつけたりしなければ、ものすごい力を発揮する場合があります。
 あるいは、バチカン系の「エクソシストもの」にも、革バンドのようなもので縛って、体を拘束するシーンが出てきますが、そうしなければ、怪力を発揮することがあるのです。

<「異言」を語る悪魔の場合『聖書』・十字架・聖水だけでは難しい>
・そのように、欧米系の悪魔は念力が強いので、もう一段、物理的なフォース(力)が出るのかもしれません。

・異言のなかで、ラテン語のようなものを話すこともありますが、その場合にも、悪魔であることはあります。
 そうしたラテン語を読めたのは、だいたい、紀元後から中世ぐらいまでの神父や修道士などの聖職者階層の人です。そのような人は、やはり、エクソシストを行うときも、ラテン語の『聖書』を読んだりしていましたが、悪魔のほうも、それを話すケースが出てきています。

・そのため、「イエスの説教は、だいたい、アラム語で話された」と言われていますが、異言現象のなかで、アラム語が出てくるケースはよく出ているようです。私もいちおう話せるのですが、そういう現象が出てくることがあります。
 あるいは、それ以外のもっと古い、古代メソポタミアの言語や、エジプトの言語が出てくるような場合もあります。
 その場合、聖霊が語っていることもあるのですが、そうでないこともあります。そのくらいの古さの言葉を操るとなると、普通の悪霊ではないので、大きな悪魔と見てよいと思います。

<戦い方②――“漢方薬”的な防衛込みの方法>
<慢性的な悪霊・悪魔の攻撃から身を護る方法>
・やはり、日ごろから、丁寧に防衛しておくことが大事ではないかと思うのです。「日ごろから道徳を」などというと、バカにされるかもしれないし、宗教も、そういう意味で、バカにされることはあると思います。

・仏教で言う戒律も、現代人に言うと、「ちょっと勘弁してくれ」というものは多いと思います。

<酒や麻薬・覚醒剤系統が起こす理性麻痺の危険>
・なお、戒律の対象としては、昔は「お酒」を挙げていましたが、今であれば、例えば、異常に厳しい喫煙、あるいは、アメリカなどでは少し緩いようですが、麻薬、覚醒剤系統のものもそれに当たるでしょう。

<自分の「隙」を知り、この世的に解決できるものは解決する>
・それから、悪霊や悪魔が家族系統を狙ってくる場合、「弱いところはどこか」ということを、いつも見ている感じがします。そのため、家族のなかで弱いところがあれば、必ず襲ってくるわけです。

<他人や環境のせいにせず、正邪を判定する自力を>
<「謙虚な心」が自分を護る理由>
<最終的に必要なもの――信仰心で神仏と一体になる>
<だんだん「強いもの」が出てくるとき、最終的に勝つ力>
・「降魔」というものは簡単なことではありません。最初は「いける」と思っても、だんだん強いものが出てくるのです。この段階を経験した人はそれほど多くいるわけではないので分からないでしょうけれども、やはり、「信仰心を持っていなければ、最終的には勝てない」ということを知っておいてください。

・ただ、自分の分を超えて、いろいろなものに対する欲をあまり持ちすぎると、失敗することはあるということです。

<小さな成功を積み重ねることの大切さ>
・私は、「平凡からの出発」であるとか、「小さな成功をコツコツと積み上げていけ」といったことをよく語っていますが、これは別に、必ずしも「凡人のすすめ」をしているわけではありません。

・これは、武田信玄的に言えば、「六分の勝ちでよしとする」ということかもしれません。すなわち、「勝つことでも隙はできる」ということです。

・そういう意味では、「濡れ手で粟」や「棚ぼた」型の成功はあまり狙わずに、やはり、目に見える努力を積み重ねることが大切です。周りから見ても、「あれだけコツコツとやっていたら、そのくらいは当然かな」と思われるように努力したほうがよいのではないでしょうか。

<「人としての賢さ」「心のなかの愛のあり方」に隙ができるとき>
・特に、若い人の場合には、やはり、異性のところで失敗するケースがとても多いでしょう。
 ただ、一定の年齢を超えれば、考え方が多少は変わってくることもあるのです。

・ですから、人間が賢いか賢くないかということは、必ずしも、マークシート試験での点数の取り方のようなもので決まるわけではないと知っておいたほうがよいでしょう。やはり、「人の筋」は見なければいけないということです。
 とりわけ、「愛」というものは、そのあり方によっては、悪魔につけ込まれる隙になりやすいところではあります。

<教えを説いても、それを行じる気がない者は護られない>
・その意味では、釈尊の態度としては、「阿含経」のように、実際に話したと思われるものを見るかぎりは、ずいぶん突き放したものの見方をしています。

・本人がそれに気がつけば助かるのです。要するに、向こうが怨霊と化して取り憑いてきていることに気づき、自分の本心を取り戻し、本人の意志がしっかりすれば助かることもあるでしょう。

<宗教のプロとしてのエクソシスト>
<「真のエクソシスト」質疑応答>
・そのように、信仰における価値というものは、この世のものとは多少違うかもしれないので、「この世で値打ちがあることは、宗教のなかでもすべて通用する」と思うのは間違いです。逆に、この世的には値打ちがないと思われるようなことが、宗教では値打ちがあるように見えることもあるので、このあたりは知ってほしいと思います。

<信仰の世界において「純粋」になることの難しさ>
・地位や名誉、権力、金銭など、この世的に値打ちのあるものはいろいろあろうかと思いますし、それは役に立つところもあるでしょう。ただ、それが役に立たないこともあるのです。
 例えば、宗教にお金を寄付しても、すぐに悪霊が立ち去ってくれるわけではありません。

・したがって、霊能力にも限界があることは知っておいたほうがよいのです。信仰心が立っていればこそ、自分自身を護り続けることができるし、人を救うこともできるということを知ってほしいと思います。

<信仰心が立っていなければ、自分自身も護れない>
<幸福の科学の霊言と他の団体の霊現象との社会的信用の差>
・以前には、1994年ごろまで幸福の科学の会員だった人が、「霊言を降ろせる」などと称して信者を引き抜くようなこともありました。
 
・そこで、「『大川隆法には霊能力がない』と宣伝して信者を引き抜いているのか。それならば、出しましょうか」ということで、その後、私は五百書以上の霊言集を発刊しました。

・あちらの霊言集はまず広告には載らないのに、こちらの霊言集のほうはきちんと新聞の広告にも載るのです。まことに不思議ですが、これは「信用の差」としか言いようがありません。

・いずれにせよ、この世的な信用も必要ですし、信仰者として真っ当であるかどうかというところも大事だと思います。

<Q2  よい心境を保ち続ける方法>
・(質問者B)  これは、非常に難しい体験談として聞いた話ではございますが、悪霊撃退系の祈願などを受けた方のなかには、一時的には、改心したり、大いなるものへの帰依の心が戻ってきたり、信仰心が強くなったりと、天上界の光が入って、心が元気になったように見えても、すぐに心境がブレてしまい、再び憑依されてしまうという現象が繰り返し起こることがあるそうです。

<心の状態に働く「慣性の法則」>
・(大川隆法) やはり、どうしても、「慣性の法則」というものはあります。この世で生きてきた年数分だけ、今までの方向性があるので、それを急に変えようとしても変わりません。

・ちょっとした諭しや儀式で改心できたと思っても、それが一時的なもので元に戻ってしまうかどうかは、「その人が、過去、どう生きてきたか」という、その“生き方の道筋”の「長さ」と「重さ」によります。やはり、そうした過去の生き方の流れがあるわけです。

・仏教でも言われていることではありますが、人にはそれぞれ、「上根・中根・下根」というものがあります。
 上根の人の場合、ちょっとした教えでも、比較的すぐに、ある程度、分かってしまうこともあります。そして、中根の人は、普通の人が経験するぐらいの努力をしなければ悟りには至らず、下根の人になったら、やってもやっても、なかなか悟れないということがあるわけです。

<神秘体験をして自分の使命に気づいたパウロ>
・実際は非常に宗教的で霊的な人であるのに、たまたまきっかけを得ていなかったために、今まではまったく正反対の生き方をしていたけれども、きっかけに触れたことで、急に百八十度回転して改心したというような人も、たまにいます。ただ、そういう人は、歴史的にも数えるほどしかいません。
 例えば、「パウロの回心」がそうでしょう。

・パウロは、当時、サウロと名乗っていましたが、そのサウロのまったく見えなくなってしまった目を治してくれたのが、実は、イエスの弟子でした。イエスが、目の見えない人の周りを、唾か何かで洗って治したように、アナニアという人がサウロに手を置いて祈ったら、目が開いて見えるようになったのです。
 このように、白光でもって倒れて見なくなった目が、見えるようになったという奇跡もありました。
 また、白光が臨んでサウロが地に伏したとき、「サウロよ、サウロよ。どうして、おまえは、私を迫害するのか」という、イエスの声が聞こえてきたそうです。現実には弟子を迫害していたのですが、イエスは、そうは言わずに、「どうして私を迫害するのか」と言ってきたのです。
 かつて、パウロはイエスの弟子を迫害し、それによって捕まって処刑された人もたくさんいたのですが、そういう神秘体験を経験したことで、今度は回心して、クリスチャンになってしまったわけです。

<光がズバッと深く心に入ってくる時>
・ほかのところでも、そういう経験をした人はいるでしょう。
 例えば、長らく刑務所にいた人が、神秘体験をしてイエスの姿を診たことで、出獄したあと、牧師になったとかいうケースもあります。
 そういうことが改心の現象としてはありますけれども、一般的には、やはり、今までの人生の延長上に未来は築かれるので、「慣性の法則」は働くということです。

・「人は、人生の不幸を環境や他人のせいにしてはいけないし、キリスト教が言う原罪のようなものを信じてはいけないと思うものの、それでも、やはり、何らかの業、カルマでもなかったら、現在の自分のあり方を説明できないと思いたくなるときもあるだろう」というような教えを説いていたのです。

<「自分の力で救える人もいれば、救えない人もいる」ことを知っておく>
・おそらく、エクソシスト等をしていると、救える人も、救えない人も出てくると思います。

・イエス自身も、奇跡は数多く起こしましたけれども、自分の生まれ故郷に帰ったときには、「ふるさとでは奇跡が起きない」という 
ようなことを言っています。
・霊的実体験のある人にとっては、人間が魂と肉体の結合体であることは自明の理である。しかも人生行路の諸段階で、様々な悪魔的な、まどわかしや、天使による救済を経験するものである。



『天御祖神(あめのみおやがみ)の降臨』
  古代文献『ホツマツタエ』に記された創造神
大川隆法     幸福の科学出版  2019/1/31



<『ホツマツタエ』>
・まことに不思議な書物であろう。
 私の2千5百書目にあたる本書こそ、現代の『ホツマツタエ』かもしれない。本書は、日本人に対しては、日本の文明化された歴史が約3千年ではなく、3万年であることを伝えている。そして現代の常識に反して、日本文明がユーラシア大陸やムー大陸に伝わったことを教えている。
 さらに、日本神話に記されるべき創造神が「天御祖神(あめのみおやがみ)と呼ばれるアンドロメダ銀河から来たメシアであることを語っている。そして天空から降臨したその姿を描写した記述は、「世界初」といってもよいだろう。

<天御祖神>
・『古事記』や『日本書紀』よりも古いとされる古代文献『ホツマツタエ』に出てくる「祖」に当たる神。幸福の科学では、「イエスが『父』と呼んでいた主と同一霊存在である」と説かれている。

<日本の根本神、「天御祖神」の秘密に迫る>
<資料がほとんど存在しない『天御祖神』>
・読み方さえ、「あめのみおやかみ」なのか、「あめのみおやのかみ」なのか、「あめのみおやがみ」なのかも分かりません。神社もなければ、祀られてもいないので、よく分からないのです。
 私が見たかぎりでは、『ホツマツタエ』という史料には出てくるのですが、もしかしたら、何か、ほかにも出ている可能性もあります。
 ただ、『ホツマツタエ』自体も、まだ、日本史のなかでは、正式な正史としては認められてはいないものだと思われます。

・ただ、『ホツマツタエ』には、「秀真文字」という、独特の古代文字が使われていて、これは、イラク系統の古代文字、いわゆる楔型文字にも似ているし、エジプトあたりの字にも似ています。
 字の形から見ると、ルーツ的にはそれらとあまり変わらないようなものから来ているのではないかと思われるので、もし、中世にこれをつくった人がいるとしたら、ラテン語とかサンスクリット語などの、人工言語をつくったのと同じくらいの能力のある人でなければ、つくれないのではないかと思うのです。

<『古事記』『日本書紀』と『ホツマツタエ』の「始めの神」の違い>
・(大川隆法) 西暦712年成立と思われる『古事記』は、日本文(変体漢文)で書かれたような歴史書になっているので、神話性が非常に強く出ています。
 一方、720年ぐらいに成立したと思われる『日本書紀』のほうは、全部漢文体で書かれています。これはたぶん、外国向け、外国といっても主として中国向けに、日本の歴史を示すために書かれたものだと思われますが、この『日本書紀』のほうでは、神話性がかなり削られています。

<『古事記』に登場する神>
・具体的に見てみると、『古事記』に登場する神様は、最初に出てくるのは天御祖中主神(あまみなかのおかみ)です。「天の中心、宇宙の中心の神」という感じで、「独り神」で、結婚もせず、肉体も持っていないような、天空神のようなかたちで出ています。

<『日本書紀』に登場する神>
・一方、『古事記』と成立年が8年ぐらいしか差がないと思われる『日本書紀』になると、『古事記』の最初のころの神々がサーッの消えていって、『古事記』では途中から出てくる国之常立神(くにのとこたちのかみ)が、最初に出てくるのです。「始めの神は、国之常立神」というふうに出ています。

<『ホツマツタエ』に登場する神>
・この『ホツマツタエ』のなかでは、『古事記』『日本書紀』とも違う見解が採られていて、「いちばん最初の神様」として天御祖神が出ていて、二番目が天御祖中主神、三番目が国之常立神と、この順で三人並べてあるのです。天御祖神が出ているのは、これしか私は見たことがありません。
 しかも、本文中を読むかぎりは、初代天皇として国之常立神が、天上界に還って天御祖中主神になったというふうな記述もあるのです。このへんは少し矛盾するようにも見えます。

<『天照大神は男神』という説をどう見るか>
・(大川隆法) それから、「天照大神は男神だ」という説もあるのですが、『ホツマツタエ』には、これが強く出ています。

・『ホツマツタエ』を読むと天照大神が出てくるのです。『古事記』や『日本書紀』にはそんなに出てきませんが、『ホツマツタエ』には何度も出てくるのです。そして、それを天御祖神が天上界から指導しているようなかたちで出て、天照大神様は、この世で治めておられるかたちに書かれてあるのです。
 『古事記』では、天照大神様も天上界におられて、その孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)が天孫降臨されて高千穂峰に立たれ、天皇家のご先祖になられたということになっていて、邇邇芸命から以降は、肉体を持って出てきたことになっているわけです。
  しかし、『ホツマツタエ』では、天照様も地上に出ておられたような感じに書かれているわけです。しかも「男神」であって、お妃がいらっしゃる。お妃の名前まで書いてあり、子供が生まれたことも、いっぱい書いてあります。
 
・しかし、『古事記』を読むかぎりでは、天照大神は肉体祖先ではなく、天上界の神様であって、その孫である邇邇芸命から、物質化して、肉体になって降りてきたようなかたちになっているので、肉体祖先とは必ずしも言えない書き方になっているわけです。
 これが、『ホツマツタエ』が書くように、天照大神が地上に生き、お妃をもらわれて子供を産まれたということだけだとしたら、これは確かに、肉体を持ってきておられたというかたちになります。
 しかも「男だった」ということになれば、男の天照大神の子孫が天皇だということになり、つながるかたちになるので、『古事記』『日本書紀』よりあとに、天皇家の支配を正当化するために書かれたという可能性も、ないとも言えないのです。しかし、古代文字との関係から見ると、不思議な感じもするわけです。

・ちなみに、『ホツマツタエ』では、月読命も須佐之男命も男神になっているので、「三貴神ともに男」ということになるわけです。
 『古事記』『日本書紀』では、伊邪那岐大神が、黄泉の国から帰ってきて、阿波岐原で、伊邪那美の穢れを祓うために禊祓いをするわけですが、最初に左目を洗って天照大神が生まれて、右目を洗って月読、鼻を洗って須佐之男が生まれてきて、これが「三貴神」というわけです。

・ただし、『古事記』では、天照大神は「女性の神」として書かれていると思われるのですが、『日本書紀』のほうでは、「男の神様」にも読めるような書き方をされています。これも、712年と720年という、同じ時期に朝廷でつくられたものとしては、あまりにも矛盾しすぎていて、分かりにくいところがあります。

・ただ、霊的に視るならば、今も、われわれが調べてみても、天照大神の魂のなかには、男性霊と女性霊と両方存在しているので、「霊的に見たら、どちらとでも言える面は確かにあるのかな。そういうことなのかもしれない」ともいう気もします。
 ですから、地上に生きたときの性別を調べたというよりは、もしかしたら、「神降ろし」をする人はいたであろうから、降ろしてみたときに、男性神として現れたか、女性神として現れたかによって、そういうふうに書き分けをされた可能性もあります。

<『神様には性別がない』という説>
・(大川隆法) 「持統天皇(645~703年)が、自分の女性統治を正当化するために、天照大神を女性にしたのだ」という説も立ってはいるのですが、今の日本神道、皇室、神社系統の、主とした流れから見るかぎりは、天照大神を「女神」と捉えているものが多いと思われます。

・それから、戦前、戦中に読まれた、「教育勅語」をもとに書かれたと思われる修身の本を読んでみると、天照大神は女性として描かれていますので、そのころには、女性として固まっていたのではないかと思われます。
 私たちも今まで、いろいろな人の過去世を調べてみたところ、男性に生まれたり女性に生まれたりしていますので、あまり詮索してもしかたがないかもしれません。「神様には性別がない」「如来から上は、男性も女性も区別はない」という説があって、「全員中性」という説もあります。
 確かに、そういうところもあるでしょう。神様は「父親的な面」と、「母親的な面」と、両方を持っているので、性別というのは、あくまでも地上に肉体を持ったときのかたちにしかすぎないので、あの世では性別はないのかもしれません。

<天御祖神とヴィシュヌ神との関係は?>
・「インド霊界ではヴィシュヌ神と呼ばれ、日本霊界では天御祖神と呼ばれる根源神がいて、分光神としてさまざまな高級霊が存在するということだ」、「日本文明のルーツはムー文明だと思われるし、インド文明のルーツはレムリア文明化かと思われるが、ムーもレムリアも、同一世界神によって指導されていたと思われる」ということを、大胆に書いてあります。
 『太陽の法』では、ヴィシュヌ神とエル・カンターレとのつながりについては書かれていなかったのですが、『太陽の法』を書いた私の30歳のころには、まだ頭のなかでつながっていなかったと思われます。

<今後、ヴィシュヌ神の位置づけで変わってくるかもしれない>
・(大川隆法) 確かに、インドの、今のヒンドゥー教、昔のバラモン教では、ヴィシュヌ神というのが、圧倒的な力を持った神様として存在していて、これが根源神的な存在で、釈迦牟尼仏、仏陀も、そのヴィシュヌの分身というふうに、インドでは理解されているわけです。
ヴィシュヌにはいろいろな顔があって、仏像によくあるように、顔がたくさん描かれていますが、ああいうふうに、「ヴィシュヌの顔の一つが仏陀である」と、仏教をヒンドゥー教のなかに吸収してしまっているのが、今のインドの現状かと思います。
そういう意味では、ヒンドゥー教が仏教を否定しているわけではなくて、ヴィシュヌの“地上的な現れ方”の一つというふうに理解しているという考えだと思います。

・私も、昔の『太陽の法』を書いたころは、ヒンドゥー教を民族宗教というふうに理解していたので、あまり深入りしていないのですけれども、今のインドは13億の人口を擁し、まもなく中国を抜いて、中国以上の人口になるだろうと思われます。

<宇宙人リーディングと似ているインドの宇宙観>
・(大川隆法) ヴィシュヌ神というのは、いろいろな書き方をされていますが、「地球も含め、銀河系も含めて、この宇宙というのは、ヴィシュヌ神が天上界で蓮の葉っぱか何かの上で昼寝をして、まどろんでいるうちに、夢のなかに出てきた世界」というような書き方をされていて、話はすごく大きいのです。

<謎に包まれている日本民族の祖、天御祖神>
<「文献が遺っていないもの」については霊言を頂くしかない>
・『古事記』『日本書紀』には、いろいろな神が出てきます。天照大神が伊邪那岐の娘ということになると、数え方にもよりますが、「神としては96番目に出てくる」という話もあります。
 私は正確には数えてはいないのですが、96番目に出てくる神が日本の主宰神というのは、普通に考えるとおかしいのです。おそらく、記紀編纂の時点において、天照大神信仰を立てようとしたのだろうと思います。

<日本独自の文字は楔型文字や象形文字より古い?>
・(大川隆法)『ホツマツタエ』も外伝になっていて、正統の歴史書にはなっていないのですが、これは日本の神々の歴史を“日本の言葉”で書いてあり、漢字も大和のカナも使っていません。要するに、「漢字やカナが入ってくる前の言葉で書いてある」という意味で、非常に注目すべきものなのです。

・形が似ているものがあるとすると、メソポタミアあたりで使われている楔型文字や、古代エジプトのピラミッドのなかに書かれている、絵文字も入ったような象形文字です。

・ちなみに、メソポタミアの「ハムラビ法典」などに使われている楔型文字は、古代シュメール文明で発明されたと言われていますが、古代シュメール文明においても、「宇宙から言葉を伝えられた」という伝承がはっきりと遺っています。

・そのように、宇宙人が「言葉」や(飲み物の)「ビール」など、いろいろなものを伝えたらしいということは分かっているのです。
 なお、幸福の科学の霊査では、「古代エジプトの文字は、トスが伝えた」、あるいは、「諸学問を(トスが)つくった」とも言われていますが、ルーツは極めて分かりにくいものです。

・(トス) 約1万2千年前、アトランティス文明の最盛期を築いた大導師・宗教家、政治家、哲学者、科学者、芸術家を一人で兼ね備えた超天才であり、「全智全能の主」と呼ばれた。古代エジプトでは智慧の神として知られていた。地球神エル・カンターレの分身の一人。
 

最新の画像もっと見る

コメントを投稿