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それに加えて、ヒトラーとエーファ・ブラウンが生きている、というニュースも数多く入ってきていた(1)

2015-08-31 11:34:11 | 森羅万象

 

 

『ナチスの女たち』

第三帝国への飛翔

アンナ・マリアジークムント    東洋書林 2009/7

 

 

 

<ゲルダ・ボルマン>

<一夫一婦制の代わりに一夫多妻制>

・ゲルダ・ボルマンは彼女の意志の強い夫を心から祝福し、寛大な理解を示し嫉妬心を抱くことはなかった。その後、彼女は、この総統の秘書の情事に刺激され、「民族危機時の婚姻制度」という実践的なコンセプトを練り上げるとともに、このために絶対に必要と思われる申告用紙の草案を構想した。このようなナチスの理想的夫婦像は、偏狭な一般社会常識から今はまだ誤解されているが、ナチスの国家ヴィジョンが一夫一婦制の解消を実行に移した際には、自分たちこそが重要な先駆者となるだろうと信じていた。その際、リード役を担うのが、ゲルダ・ボルマンだったのである。

 

・1929年9月にゲルダとマルティンはゾルンで結婚式を挙げた。この挙式はプロテスタントの伝統にナチスの制服が混ざったものであった。白い衣装をまとった花嫁はベールと銀梅花の花冠をつけ、参列した女性たちは――その中にはボルマンの母親アントニーもいたが――晴れ着に着飾り、「花嫁の介添え」は薄物を身にまとい、髪に花飾りをつけていた。それとは対照的に男たちはみな、茶色のシャツに乗馬ズボンと乗馬靴、さらにハーケンクロイツの腕章をつけて現れた。ヒトラーと彼の秘書ルドルフ・ヘスが結婚立会人を務めた。「総統」は彼の大型メルセデスを教会までの道のりに提供し、特別な好意の証しとした。

 

・1940年、ボルマン一家はオーバーザルツベルクのベルヒテスガーデンに居を移した。そこは一家がこれまでも夏を過ごしていた場所だった。そこにはボルマンの指揮のもと、大規模なナチスのコロニーが形成され、それによって彼は、しかるべき場所で、楽に仕事を監督することができるようになった。のどかな山間の深い谷は、ヒトラーがささやかな別荘「ヴァッヘンフェルト」をその地に購入した20年代から、急激な変貌を遂げた。人口は2百人から5千人へと膨れ上がった。長期間にわたる大規模な建設現場の光景に、かつての静かで空気のきれいな保養地の面影を見出すことはほとんど不可能だった。

 

・その命令とは、「従来の代理執務室はただちに党宰相官房と改名する。これは私の直属の部署とする。その長官は、これまでと同様、国家指導者マルティン・ボルマン党員とする」というものであった。

 これによりゲルダの夫は、ナチ政権の最も影響力の強い男の一人へと昇進した。党の官房長官として、また後に総統の秘書として、ボルマンはとりわけバックグラウンドで行動した。

 

・彼の経歴が頂点をきわめたとき、ボルマンは「総統」とその取り巻きとの間に壁のように身を差し入れた。彼は「総統のもとで報告する権利」を自らのものとし、彼がヒトラーに面会できる者を決定した。さらに独裁者に提出すべき書類の選択も、彼がするのだった。

 

・ゲルダ・ボルマンは、1946年3月23日の晩に死亡した。享年37歳であった。検死解剖の結果、直接の死因は子宮ガンではなく、治療の際に引き起こされた水銀中毒であることが判明した。

 

・マルティン・ボルマンは、1946年10月1日に、欠席裁判により死刑を宣告され、彼の財産は没収扱いとされた。シャルフ湖畔の不動産に関しては、1953年に回復審査手続きにおいて、前の所有者とボルマンの子どもたちとの間で和解が成立した。ナチ党官房長の捜索は数十年に及び、それは大々的なメディア・キャンペーンが付け加わった。「ボルマンはメキシコにいた?」、「ボルマンはたしかに南アメリカに?」、「ボルマンの所在地が判明」といった大見出しが、定期的に繰り返し現れた。ボルマンの逮捕には10万マルクの懸賞金がかけられ、数多くのジャーナリストが自力で彼を探し出そうとした。多くの者はゴール間近まで来ていると思い込んでいた。ところが彼らは――捜索者たちの証言によれば――かつての党官房長を、いつもギリギリのタイミングで、まさに「最後の瞬間に」取り逃がしてしまうのである。

 

・ウィーンの「ユダヤ迫害犠牲者同盟記録センター」を主宰するサイモン・・ヴィーゼンタールは、1967年に、ボルマンがパラグアイとの国境近くのブラジルで大変裕福な暮らしを送っていると公言した。別の証言によれば、ボルマンはロシアのスパイとなり、さらにブラジルでは、強制収容所の医師であったメンゲレと一緒にいるところを目撃されたという。

 1972年にベルリンでボルマンの遺体が発見され、フランクフルト検事局ならびに歴史家ヨッヘン・フォン・ラングの調査によって、ボルマンがすでに1945年5月2日に、ベルリン帝国宰相官房の防空壕の近くで自殺を遂げていたことが、疑いのないものとして証明された。

 

 

 

『ナチスの女たち』

 秘められた愛

アンナ・マリアジークムント 東洋書林  2009/7

 

 

 

<エーファ・ブラウン 秘められた愛人>

・「総統にはプライベートな生活はない」というのが公式な、宣伝相ゲッペルスが広めたスローガンであった。「昼夜を問わず、総統はドイツ国民に身をささげている」と。

 ヒトラー自らが、彼の長年にわたるパートナーのまわりに沈黙の壁を築いていた。ごく身近な仲間だけが「総統」とブロンドの若い女性との関係について知っていた。この女性は私設秘書として、オ―バーザルツベルクにあるベルクホーフ山荘の職員の一人とみなさていた。彼女はこの肩書きで役所に届け出され、給料も党の会計から支払われていた。

 

・第三帝国では、「ヒトラーがベルクホーフで女性と暮らしている」とささやかれてはいたが、詳しいことを知る者はおらず、この見知らぬ人物の名前も、大戦末期になって初めて知られることになるのである。それはどこまでに秘密厳守の措置がたくみに講じられており、厳重な報道管制によって、ナチ支配の何年もの間、エーファ・ブラウンの写真はたった一枚だけ――誤って許可され――公開されただけであった。

 

・1945年4月30日の午後、赤軍の先頭がいまや宰相官房の地下壕から5メートルの距離まで迫ったとき、アドルフならびにエーファ・ヒトラー夫妻は自殺を敢行した。従僕のリンゲと一人の親衛隊員が、毛布に包まれたヒトラーのなきがらを外に運び出した。マルティン・ボルマンが、何も被せていないエーファ・ブラウンの遺骸を抱えて続き、それをヒトラーの運転手ケンプカに渡した。彼はのちに、彼女の死体には、いかなる血痕も見当たらなかったと証言している。ケンプカは二つの死骸の上にガソリンを注ぎ、そこに火をつけた。

 国民には「われらが総統アドルフ・ヒトラーが、息をひきとるまで戦いながら」死去したことが知らされた。1945年5月1日。ハンブルク放送局は「ヒトラーと彼の妻」の死亡について報道した。その際、アナウンサーは異常なまでにためらいながら、このニュースを告げるのであった。

 

・ところが、エーファ・ブラウンのきわめて興味深い人生は、彼女の死後に始まった。その頃、例の奇怪な噂が発生していたが、それは事情通からも反論されないまま放置されていた。エーファ・ブラウンの周囲で少し前までフットライトを浴びていた者たちは、終戦後は静かに匿名でいることのほうを好んだ。「ナチ政権の積極分子」と分類され、彼らは拘留されるか、もしくは告訴されていたからである。

 

・ほかのゴシップ報道も検証に対して持ちこたえることはできなかった。それに加えて、ヒトラーとエーファ・ブラウンが生きている、というニュースも数多く入ってきていた。ある情報提供者は、彼らが潜水艦でアルゼンチンに渡り、ある療養所で暮らしていると、調書に供述していた。

 

 

 

 

『アメリカ大陸のナチ文学』

ロベルト・ボラーニョ  白水社  2015/6/4

 

 

 

 

 

 

 

<エデルミラ・トンプソン・デ・メンディルセ  1894年ブエノスアイレス生まれー1993年ブエノスアイレス没>

・15歳のときに処女詩集『パパへ』を出版、これによりブエノスアイレスの上流社会の並み居る女流詩人のなかでささやかな地位を得た。以後、20世紀初頭のラプラタ河両岸において抒情詩と趣味の良さで他の追従を許さなかったヒメナ・サンディエゴとスサナ・レスカノ=ラフィヌールがそれぞれ率いるサロンの常連となった。最初の詩集は、当然予想されるように、親への思い、宗教的省察、庭について詠ったものである。修道女になろうという考えを抱く。乗馬を習う。

 

・1917年、20歳年上の農場主で実業家のセバスティアン・メンディルセと知り合う。数か月後に結婚したときは誰もが驚いた。当時の証言によれば、メンディルセは文学一般、ことに詩を蔑み、(ときおりオペラに行くことはあったものの)芸術的感性に欠け、会話の内容と言えば自分の雇う農夫や労働者並みだった。長身で精力的だったが、美男というには程遠かった。唯一の取り柄として知られていたのは、無尽蔵の資産である。エデルミラ・トンプソンの友人たちは打算的な結婚だと口々に言ったが、実際は恋愛結婚だった。

 

・1921年、最初の散文作品『わが生涯のすべて』を出版する。これは起伏がないというのでなければ牧歌的な自伝で、ゴシップは語られず、風景描写や詩的省察に富んではいるが、作者の期待に反し、特に反響を呼ぶでもなく、ブエノスアイレスの書店のウィンドウから姿を消した。落胆したエデルミラは二人の幼い子供と二人の女中とともに、20以上のスーツケースを携え、ヨーロッパに旅立つ。

 

・1926年は多くの取り巻きを従え、イタリアを旅行して過ごす。1927年、メンディルセが合流。1928年、ベルリンで長女ルス・メンディルセが生まれる。体重4千5百グラムの健康な子供だった。ドイツの哲学者ハウスホーファーが代父となり、洗礼式にはアルゼンチンおよびドイツの名だたる知識人が参列した。パーティーは3日3晩続き、ラーテノーに近い小さな森で終わったが、その折、メンディルセ夫妻はハウスホーファーのために作曲家でティンパニの名手ティト・バスケスが自作の曲を独奏するコンサートを催し、当時大評判となった。

 

・1929年、世界大恐慌によってセバスティアン・メンディルセはアルゼンチンへの帰国を余儀なくされる一方、エデルミラと子供たちはアドルフ・ヒトラーに紹介され、ヒトラーは幼いルスを抱き上げて、「確かに素晴らしい子である」と述べる。全員で写真に納まる。未来の第三帝国総統はアルゼンチンの女流詩人に強い印象を残す。別れ際、エデルミラが自分の詩集を何冊かと『マルティン・フィエロ』の豪華本を贈ると、ヒトラーは熱烈な謝辞を述べ、その場で詩の一節をドイツ語に翻訳するよう求めたが、エデルミラとカロッツォーネはなんとかその場を切り抜ける。ヒトラーは満足した様子を見せる。きっぱりとした、未来志向の詩だ。エデルミラは喜び、上の二人の子供に最もふさわしい学校はどこかと助言を求める。ヒトラーはスイスの寄宿学校を勧めるが、最良の学校は人生であると付け加える。会見の終わりには、エデルミラもカロッツォーネも心底ヒトラー崇拝者になっている。

 

・1940年、セバスティアン・メンディルセが亡くなる。エデルミラはヨーロッパ行きを望むが、戦争によって阻まれる。

 

・1945年~46年にかけては、彼女の敵対者たちによれば、誰もいない海岸や人目につかない入江を頻繁に訪れ、デーニッツ提督の艦隊の残存した潜水艦に乗って到着する密航者をアルゼンチンにようこそと歓迎したという。また、雑誌「アルゼンチン第四帝国」、その後は同名の出版社にエデルミラが出資していたとも言われている。

 


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