蘇我氏の本拠地だった飛鳥と、応神天皇陵、住吉大社は一直線に並んでいます。
この直線の延長線上に伊和神社、倭文神社があることから蘇我氏は出雲の出身者なのかと、以前考えました。
今回気になってきたのは、諏訪と蘇我氏の関係です。
諏訪大社上社の「大祝信重解状」には諏訪明神が守屋大臣(洩矢神)を追討したと記されているといいます。
洩矢神(守矢神)はタケミナカタより前の先住の神ですが神の名を「大臣」としていることから、これはもう物部守屋のこととしか思えないではありませんか。
物部守屋は廃仏派として崇仏派の蘇我馬子との戦いで敗死したとされます。
もっとも物部氏の本拠地である八尾市の渋川から廃寺跡が出土し、物部氏が廃仏派であったことについては疑問を持たれています。
また物部氏の史書「先代旧事本紀」には物部守屋と蘇我馬子の争いさえ記されていません。
しかし日本書紀を信じるのであれば、犬猿の仲の物部守屋を追討したのは蘇我氏です。
大祝信重解状において、物部守屋が洩矢神に仮託されているのであれば、諏訪明神に仮託されているのは蘇我馬子のはずだと思うのです。
タケミナカタは出雲のオオクニヌシの子神とされます。
蘇我氏が出雲の出身ということでタケミナカタに仮託されたのでしょうか。
出雲の国譲り以降、諏訪に引き込んだタケミナカタが後の蘇我氏だったらもっと面白いなぁ・・・
「大鏡」で中臣鎌足の出生地とされた鹿島神宮の神宝は271cmもの直刀、十握剣です。
十握剣は一般名詞でしょうが、もしこれをスサノオのものであると考えるならば、中臣鎌足に首をはねられた蘇我入鹿はヤマタノオロチに仮託されたとは考えられないでしょうか?
ヤマタノオロチは越。タケミナカタも越のヌナカワヒメの子神です。
蘇我氏の祖、武内宿禰は孝元天皇の系譜で母は紀国造の女とされます。
しかし蘇我氏には日本海勢力の匂いが濃厚にするように思うのです。
八幡大井、住吉、諏訪は同体です。
これも何かのヒントでしょうかね!
不比等の狙いが分かると真相は書かれていることと逆じゃないかと勘ぐるくせになっています(´ω`*)
物部氏と蘇我氏が対立していたのは仏教導入じゃないと思いますよ。半島の利権でしょう!
諏訪のモリヤ族は物部じゃなくて大国主の部下の安曇族がもともと大国主を祀っていたと分かりました。ミシャグチ神は塞ノ神=大国主サルタヒコですから。日本書紀で藤原氏の遠祖が大国主の国譲り(狗奴国ヤマトの倭国征服)で大活躍するなんてインチキだと卑弥呼の霊ラインが教えてくれました~(*^▽^*)
だから、タケミナカタがモリヤ族を退治したのもウソだと思います。モリヤ族という名前は守屋からだとすると、やはり日本書紀のウソ話を補強するためにイカサマ伝承を作ったとしか思えません(^_-)-☆
関係者の方には申し訳ないですが、それが真相でしょう(´ω`*)
信濃は複雑で、複雑で、面白いです。
作られた伝説であるなら守矢神が物部守屋、タケミナカタが蘇我馬子もあり?
縄文の匂いがすると言われる御頭祭の鹿はタケミカヅチというより鎌足?
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自分が必ずしも突拍子もないことを言っているわけではないと自信になります。
教えてもらった霊ラインは最初は大国主武内宿禰の霊かと思いましたが、どうも台与の霊もかなり大きいようです。蘇我氏は縄文海人ムナカタ族の台与に近い氏族のようですよ。
この霊ラインの一端の吉野の丹生川上神社の罔象女神(みつはのめのかみ)やお稲荷さんの玉木神社の祭神は全て台与の分身です。そこから、蘇我馬子、実は用明天皇(アメノタリシヒコ)の石舞台古墳を通って神功皇后台与の子応神天皇の御陵、大国主武内宿禰を祀る住吉大社の真上を通過し、麻耶山の天上寺は台与の本地仏十一面観音がご本尊ですが、そこの真上を通過して、豊受大明神を祀る清水森神社、稲荷神を祀る大森神社の上を通過して妻木晩田遺跡東側の大国主を祀るの神社群に達します。そこは豊受大神台与を相殿で祀る籠(この)神社ー久々比神(棟上式祭神:屋船久々遅命・屋船豊宇気姫命)ー出雲大社(祭神:大国主狗古智卑狗)の霊ラインと交わる強烈なパワースポットですよ。これほど強烈な大国主狗古智卑狗と女王台与の御魂を感じる霊ラインはめづらしいのではないでしょうか?(^_-)-☆
是非、ご確認ください。どうも有難うございました。
「神器封殺」でレイラインにはまって以来、久しぶりに地図で楽しめました。