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第3話(3)

 造反有理(3)

 造反団同士の“武闘”は中国全土に広がり、収拾が付かなくなった。
ある地方では人民解放軍の武器庫が襲われた。
奪われた武器による銃撃戦や戦車による威嚇にまで発展し、死傷者が続出した。

 学校は閉鎖され、工場の生産は停止する。
行政機構も麻痺した。
全てが混乱し、無秩序状態になった。


 この状態は、毛沢東ら文革主導の党中央にとっても想定外であり、早急に秩序回復を行う必要に迫られた。

 毛沢東は、軍主導の「革命委員会」の設立を命じた。
委員会は人民解放軍、党幹部、造反派代表により構成され、各組織の運営にあたる。

 3者のうちの“造反派代表”が問題だった。
造反派グループの一つを代表に選定したため、他の造反派グループは弾圧されることになった。

 それは時に、武力弾圧になり、多くの死傷者が出た。
そして多くの人が、曖昧な理由で「反党分子」になり、逮捕された。
公開処刑も日常的に行われる。


 私の研究所でも、20歳代の解放軍教官がやってきて、革命委員会を創ることになった。
委員会には軍教官と党から派遣された幹部、所の急進派メンバー代表が入った。

 軍の圧力で内部衝突は収まり、秩序は回復した。
しかし、我々は時間の多くを、工場の整備や所内の空き地での農作業、軍事訓練、政治集会応援、学習会などにとられ、本来の仕事は細々と続ける状態になった。

 ある日、農作業をしているとき、同僚に
「こんな調子だと、新しい望遠鏡の完成はいつになるかわからないね。」
ともらした。

 翌日、革命委員会の事務室に呼ばれる。
「徐君、君は党の方針に反対のようだね。」

 参考図:「毛沢東の悲劇」、柴田穂、サンケイ新聞社、1979
     
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