gooブログはじめました!

日本海海戦(13)

 原本はイギリス人、Shippen Edwardにより書かれた「Naval battles of the world: from Salamis to Japan Sea」(1905年刊)で、サラミスの戦いから日本海海戦までの歴史的な海戦を紹介している。 日本は周囲を海に囲まれてはいるが、とても海洋国家とはいえない。日本人がはるかなる海に眼を向けたのは、室町や明治のほんの一時期にすぎない。世界では海の支配をめぐり、いくたびかの戦いが繰り広げられた。それを垣間見ることにより、歴史の舞台では忘れられがちな部分にスポットを当ててみよう。

Battle of the Japan Sea (13)
[by Sydney Tyler]
 Meantime Togo waited. His position enabled him to meet the enemy should the direct route to Vladivostok via the Straits of Korea and the Sea of Japan be chosen, or he was in position to sail northward to intercept the Russians should Rojestvensky decide to go further eastward into the Pacific, circle Japan, and finally approach Vladivostok by La Pelouse or another of the channels between the northern islands of the Japanese archipelago.

 When Rojestvensky headed north from the China coast toward the Straits of Korea, he fell in with the plan of battle to meet which the whole genius of the Japanese admiral had been preparing. Only one detail failed to agree with what Togo had expected. He believed that Russians would shun the narrow channel east of Tsu Island, nearer Japan, and would traverse the western channel between Tsu Island and Korea. In the latter event the blow would have been dealt by a dash from Masampho.

 As it happened, the fleet had only to round the northern promontory of Tsu Island and fall upon the Russians in the most disadvantageous position that could have been found in all of the waters of the Orient.

日本海海戦(13)
[シドニー・タイラー著]
 その間、東郷は待っていた。  東郷艦隊の位置は、朝鮮海峡と日本海を通って直接ウラジオストックに向かうルートを選ぶだろう敵を迎え撃てる所だった。  また、ロジェストウェンスキーが太平洋を東に行く決定をした場合、日本を迂回し、宗谷海峡か日本列島の北方諸島間を通ってウラジオストックにたどり着くだろうロシア艦隊を阻止するため北方に行ける位置でもあった。

 ロジェストウェンスキーが朝鮮海峡に向け中国沿岸を北に向かったとき、彼は日本艦隊の守護神が長いこと準備していた戦いの舞台に飛び込んでしまったのである。  たった一つだけ東郷の予測が外れた。  彼は、ロシア艦隊は日本本土に近い、対馬の東側海峡は避け、対馬と韓国間の西側海峡を通るだろうと信じていた。  後者の場合、邀撃はマサンからの緊急出撃により行われる予定であった。

 前者が起こった場合、日本艦隊は対馬の北の岬を回り、全東洋水域を見回しても最も不利な位置にある、ロシア艦隊に襲い掛かる手はずであった。

(ひとこと)
 本文中にあるように、東郷提督はロシア艦隊が対馬海峡を通るか、津軽海峡か、さらに北の宗谷海峡かで迷っていた。  北で邀撃するなら艦隊の配置も換えなければならない、石炭も補給しなければならない、一刻のタイミングの遅れでロシア艦隊を取り逃がす可能性大であった。  しかし、ロシア艦隊が艦隊に随伴してきた補給船全部を中国沿岸で解放し、上海に送ったという情報が入った。  補給船を帰したということは短期航路をとるということで、日本の北方を迂回するルートは消えたことを意味する。  ロジェストウェンスキー提督の痛いミスであった。
〔参考文献:平塚柾緒著「図説 日露戦争」、河出書房新社〕
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「大西洋」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事