皆無斎残日録

徒然なるままに、日々のよしなし事を・・・・・

天の声が聞こえはしないか

2010年09月18日 14時07分20秒 | 随想

神や仏の存在を感じるような不思議な経験は未だかってないのだが、金縛りは2度ほどある。又、オレンジ色に空を染める秋の夕陽を見た時など、ふとした出来事に自然の摂理と人間の宿命を感じることがある。そんな時畏敬をもって私は「天」という言葉を憶うのだ。


「天の声」とは何か。
私は、人が自我に目覚めるように、自分自身の存在そのものについてある種の覚醒をした時に脳裏に浮かんでくる言葉が天の声ではないのかと考えているのである。天は優しく思いやり深く、時として厳しく冷酷で、人生において幾度となく我々に警告を発するものだ。それを傲慢不遜に無視し続ければ、いつの日か報いを受けるのである。聞き入れがたき声もあろう、それゆえに天の声を聴くことは辛いことかもしれぬが、受け入れ得られれば反面救いの言葉でもあるのだ。


又、天佑、天罰という言葉を考える時、特別な才能を与えられることは天の特別な恵みであり、才能を与えられた人間が、その才能を生かす努力をすれば佑けがあり、せねば罰がある。才能を与えられていない人間には罰も佑けもない。天佑とか天罰とかは天恵を授かったものがそれに如何に処したかによって下るものなのだと考えるのである。


そう考える時、人間の不遜と傲慢を思う。天の何処かから、人間に「お前は万物の霊長である」とのご託宣でもあったのか、人間が自分でそう言っているにすぎぬではないか、自画自賛の我田引水ではないか。敬虔な気持ちで畏れる心はあるのか。


人間以外の動物は原始的本能が満たされれば休むのである。已めるのである。自然の摂理に従うのである。人間のみである、貪り尽くしても已めないのは。イナゴは大量発生し食べ尽くして自らは滅びる。人間はこの地球を食べ尽くしても、まで已めないだろう、より以上の便利さや快楽を追求する欲望を満たすために。欲望を満たすための知性なのだ。


人間は、その欲望を満たさんとするその知性故に滅びるのではないか。人間ほど自然の摂理に逆らい、万物の霊長などと驕り高ぶり、この地球に害しているものはないのではないか。私は個々の人間のことを言っているのではない、人間総体としての人類のことを言っているのだ。


人類が滅びてこそ神が存在することになるのではないか、と思うことがある



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