ちょっといい話を産経新聞が書いていた。
【記事引用】
■文武両道、幸せな日々
83歳の女子高生球児が3月1日、卒業式を迎える。川崎市立高津高校定時制4年の上中別府(かみなかべっぷ)チエさんだ。夫の死をきっかけに学生に復帰、勉学に励みながら、全国を目指して10代の仲間と白球を追いかけた。「温かい仲間に囲まれ、勉強も野球もできて本当に幸せだった」。文武両道の充実した日々を今、しみじみと思い出している。(西尾美穂子)
全国大会出場をかけた昨年6月23日の高校定時制通信制軟式野球の神奈川県予選決勝。1死満塁のピンチを迎えた六回裏、出番がやってきた。背番号12をつけたピンストライプのユニホーム姿で、ベンチから伝令としてマウンドに向かって駆け出すと、球場は大歓声に包まれた。
「いつも通りいこう」。孫よりも若いエースの尻をポンとたたき、気合を入れた。試合には惜敗したが、泣き続けるナインに「人生にはいろいろある。1番だけがいいわけじゃない。これをバネにがんばって」。涙をこらえて励ました。
◎精神的支柱に
野球部に入ったのは3年の秋だった。「必要な存在なんです」。野球部監督で担任の中島克己教諭(45)やクラスメートの部員から熱心に誘われたのがきっかけだった。華道部と書道部も掛け持ちしながら、週3回の練習に参加。キャッチボールや球拾い、グラウンド整備で汗を流した。
帰宅は午後11時ごろ。「ほかの人より忘れやすい」と復習、予習は欠かさず、就寝が午前2時になる日もあった。
ほかの部員は10代。大人に心を開かない部員も、祖母のような存在の上中別府さんには素顔を見せた。最後の大会前にけがをして不安そうな表情を浮かべていた4年生エースには、練習後にグラウンド整備をしながら「大丈夫だよ。間に合うよ」とさりげなく声をかけて励まし続けた。
激しいメニューは一緒にできなかったが、いつの間にかチームの精神的支柱に。昨年のホワイトデーには部員から感謝を込めて赤いグラブが贈られた。
連帯感が高まったチームで臨んだ昨春の県予選。初戦でコールド勝ち目前の五回裏に、そのグラブを手に左翼を守った。ボールは飛んでこなかったが、人生初の経験に「心臓が飛び出そうになり、寿命が3歳縮まった」と笑う。
◎年は関係ない
学生に復帰したのは夫の死から2年たった76歳のときだった。悲しみに暮れ、漠然と過ごす日々に区切りをつけようと、平成19年4月に地元の市立西中原中学校の夜間学級に入学した。卒業のときに「このままでは中途半端」と79歳で女子高生になる決意を固めた。
飽くなき探求心の原点は、戦争の真っただ中で満足に勉強できなかった少女時代にある。昭和5年に鹿児島県曽於(そお)市で7人兄弟の四女として生まれた。8年間通った地元の国民学校では、空襲に備えたバケツリレーやなぎなたの訓練で十分に学べず、農家だった家の手伝いを優先させて進学はしなかった。
24歳で結婚、夫の転勤で川崎市に移り住んだ。中学生になった長女(57)の英語の宿題を見たときに「理解できない」とショックを受け、家族に内緒で参考書を買って勉強を始めたが発音も分からず、断念したこともあった。
アルファベットや「マイナス」の数字-。「この年になっても、何もかもが新鮮」と心が躍った中学1年から7年。「分からなかったことが、分かるようになるのは本当に楽しい。年なんか関係ない」と勉強に励んだ。オバマ米大統領の演説が読解できたり、微分、積分の計算ができたりするまでになった。
高校最後の試験を終えた今、「無事に卒業できるのは恩師や野球部の仲間がいたから」と言葉を詰まらせた。「生涯現役」がモットー。「人生は驚きと発見の連続。まだまだ知らない世界を知りたい」。卒業後は水墨画や水泳を習う。
この人の人生は充実していることだろう。
こういう話を聞くと心が温かくなるし、自分も負けてはいられない「がんばろう」という気持ちが湧き上がってくる。
しかし、この人物の英語、数学の実力は、どう考えても私より上だろう。
この人は今、充実しているし、新鮮な驚きに満ちていることだろう。人生に意義を見出せない人が多い中で、この人のような人生は非常にすばらしい。これかえあもこういう人にはがんばってほしい。