◆神代の案内人ブログ

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◆「蘇我太平記」第七章 聖徳太子の諫言その1

2011-09-21 15:45:34 | ◆蘇我太平記
 【若くして社会主義を謂わぬ者は心が無い、四十を過ぎ尚社会主義を謂う者は頭がない】以前聞いた諺である。誰の言葉か知らないが、真を得て妙なものと私は思うが、人様々であろう。心念を貫き、賢哲の人と敬意を抱く人もあれば、自を堅持し実の世情に背き、己を救世の賢人と自惚れていると、その評価は全く相反する。聖徳太子の場合はどうであろうか。太子の父は、用命天皇で欽明天皇と蘇我稲目の娘堅塩姫の間の子である。太子の母は欽明天皇と蘇我稲目の娘小姉君の間の穴穂部皇女であつた。複雑な血筋であるが蘇我馬子は太子の大叔父であり、推古天皇は伯母であった。つまり蘇我の血筋の真っただ中の生れと云える。蘇我の中心人物馬子は若い太子には尊敬と憧れの的であったと思う。それ故に物部氏との争い丁末の役では渾身の力を発揮、第一の功績を挙げた。その太子を馬子も大変に評価し、蘇我氏の権勢維持の目論みもあり、将来の帝位も考えていたと思う。日本に初めて渡来した仏教は大乗仏教であった。大変に戒律が厳しく、此の教えは、己を全て捨てて、多くの衆層に奉仕して一切の見返りを期待しない。それに拠所を求めて心も昇華し、空になった時、其れが悟りであり涅槃の道に入ることが出来る。百濟の聖明王は己の国でこの厳しい布教を諦め、大和に将来を期待したのである。当時聖明王の依頼でもあり、無碍に断りもできず、稲目がその教義を預かった。しかし、権勢の全てを手のした蘇我はその教えの裏返し、他の多くの犠牲の上で一族の利権を貪る野獣と化しつつある。成長した太子の心にその批判が息付き始めたのでないか。その様の思われるのである。斑鳩に住居を移したのも、馬子との距離を置き、推古帝との直接の摩擦を避ける意図もあったかも知れない。大乗仏教の経典で法華経・維摩経(ゆいまきょう)・勝(しょう)鬘(まん)経(きょう)が有名である。仏教の本来の教義の原点に立ち、朝廷内外の心奥を教化しようと、太子はその機会を推古天皇に要請していたのでないかと思う。『推古十四年七月、天皇、皇太子に請せて、勝鬘経を講かしめ賜う。三日に説き竟へつ。是年、皇太子、又法華経を岡本宮に講く。天皇おおきに喜びて、播磨国の水田百町を皇太子に施りたまふ。因りて斑鳩寺に納れたまふ』と書紀にはのべてある。簡単に記述を飛ばしているが、行間を読むと先人が言う。表に出ない事実がこの記述からくみ取られる。この講習は推古天皇・蘇我馬子に対する諫言が目的であった。とある史学者は指摘する。当時の世情より種々の動機が推測されるが、主目的は矢張り諫言であろう。
勝鬘経はインド王の妃勝鬘夫人が仏教に帰依し釈尊に誓いを立て、烈烈たる告白をした次第を経文にしたものである。私は生涯慢心や、怒る心を抱きません。又、妬み心も抱きません。財産を備蓄せず衆人の為に奉仕を全うします・・・などが集約されていると推測される(勝鬘経を読んだ事がないので)。この講習会には推古天皇の呼びかけでもあり、蘇我馬子その他群臣百寮が出席したと思われる。さながら僧の如く勝鬘経義疏を講じたと他書には記されている。義疏とは解説書の事である。推古・馬子共に物事を見る目は俊敏であり、聖徳皇子の意図は始めから承知の上であった。このことにより表面には出さないが馬子と太子の、開いていた距離が更に大きく成った筈である。


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