第九章 オオヤマトネコヒコクニテルのスメラミコトの治世
孝靈天皇の御宇
天鈴四百二十八年に正月十二日、大日本太瓊 諱根子彦尊が日嗣を受け継いで君となった。諸臣は協議して古くからの実例の如く天君の大典の御様子を民に拝ませ母君を崇めて御上后とした。先の歳の十二月四日に都を黒田の廬戸宮に移してその年即位二年二月十二日に磯城の大目命の娘細姫を后に、春日乳早命の山香姫を典侍后に、十市真襲緒命の真下姫も心妙となる。その他内侍四人、御下四人であった。即位三年春、大水口命と大矢口命の二名を宿禰とした。夏、内侍の倭(やまと)国(くに)香(か)姫(ひめ)が三つ子を産んだ。御子に皆に倭(やまと)の頭文字を付け倭百(やまともも)襲姫(そひめ)(この姫が箸墓古墳の主である・・著者)、倭五狹芹彦命、倭稚屋姫と云った。生母の功績を讃え倭の大宮女の名を送る。即位十三年、其の妹の紐(はえ)姫(ひめ)を内侍(うち)にする。この姫も十三年十二月に三つ子を産む。兄稚(えわか)武彦(たけひこ)命(のみこと)、中は彦狭島命、弟稚(とわか)武彦(たけひこ)命(のみこと)と名づけられる。母も稚(わか)大宮女(おおみやめ)となった。十二年春、后が初めて御子を生んだ。日本根子彦国牽(やまとねひこくにくる)尊、諱は元杵である。即位二十五年の正月十一日、例年県主を呼び出し饗応する習わしであるが、その年に詔を下した「若しも、三つ子を生んだ者は政府の出先機関に届けでよ。下民であっても褒章を与える。其の由は天照大神の孫瓊瓊杵尊の后木花咲哉姫が三つ子を生んだ後その様な話を聞かない。我、自身も三つ子を生んだので特別の思いがあるが、ほのかに聞けば三つ子をば、間引くと名づけ殺すそうだ。今よりそのような事があれば罪人となる。各々の子は総て、我が国の将来の種であるぞ。 鹿・犬千匹より人は大切のものである、これは建御名方の昔の教えである」。詔は広く支持され、国司は民に良く周知されるよう、各々の国に帰った。翌十二日朝、諏訪王が原見山(富士山)の絵を奉る。君は大変気に入って褒められた。同じ時、白髭神が琵琶湖の絵を奉る。君は同様面白くご覧になり、褒美を下された。其の後で、君が春日に申すことには 「我は昔この富士山と近江の海の絵を見たことがある。それは献上物で私はその絵が欲しく父君に強請ったが父君はその絵を余り評価しないで捨ててしまった。今この絵を見ると美しく、二つの絵は割り符の様に和合している。昔、原見山に不老不死の薬草が有ったそうだが五百年前の地震で焼け枯れてしまった。昔の事で不老不死の薬草の種も再び生き返ったに相違ない。原見山と近江の海を一緒に見てみたいものだ。若しかすると千代見草も生えているかもしれないではないか」 と楽しげに語られた。千代見草とは原見草の一種で、不老不死の薬草であり秦の始皇帝が本気で其の薬を欲しいと船団を日本近海に派遣したと伝えられている奇草である。大変苦く、特にその成熟した草の一部は人間の形をしていて、口に入れてもその苦さに吐き出してしまう代物と伝わっている。しかし天照大神には好物で、これを毎日薬の様に飲んで奇大の長壽を得たと記され、其の年齢はホツマツタエでも明らかでない程長寿であった。今青汁がよいとテレビの宣伝で耳に蛸が出来る程聞かされるが、超古代において既にその貴重性が知られていた事は驚きである。
即位三十六年正月十日、元杵尊を世継ぎの御子として世継ぎの証である御機織留を手ずから手渡し「これは天照大神からの宝である。朝夕眺め心にとめて民を治めよ」と申された。正装し盛大に民に知らしめ拝謁させた。
この年の三月七日、原見山に行幸することが決定した。黒田より香久山賀茂、多賀の宮、諏訪湖を抜け酒折の宮に着き、宮を預かる武日照命は君を饗宴した。山登りし、又下り、裾めぐりをして、今の富士の宮市の富士本宮浅間神社に到着した。春日命が申す事では、「山腹には三つ葉の綾草が生えていて、それが千代見草かと思い皆が味目をしようとしましたが、煮ても苦く誰もが食べる事ができませんでした。見どころは山の中峯で昔の風景が残っています。裾野の湖が八か所有りましたが地震で三か所が埋まり、周りが焼けました、しかし湖の風景は変わっておりません」。君はお歌をつくる。
中はふり 半ば湧きつつ この山本
とも静まりの この山よこれ
【噴火により峯の形は変わってしまったが、この中峯は全く変わっていない。溶岩で半ば埋まってしまつたが、麓の村々と共に静まりかえっている、これが真の山の姿であるぞ】
と君が山の新しい名前を漠然と考えていると田子の浦人が藤の花を持参し捧げると、君はその花をこよなく美しく感じられ、スルスルと御歌が口につい出て来てしまった
原見山を振り返り見ると そこに藤蔓の美が有り
原見山に本当に相応しい この山は藤の山だ
この縁により君を尊んで以後藤の山と言われる様になった。帰路は海沿いの東海道を選んで都に帰る。
即位53年、西国で諍いが起き、チノクチと播磨(はりま)簸川(ひかわ)に忌部主を、副将として倭五狭芹命を命じ、兄稚武彦命を吉備上路、弟稚武彦命を吉備下路に派遣し不満の理由を良く納得させて服従させた。即位七十六年二月八日君罷る。百十八歳であった。
東日流外三郡誌には孝霊天皇54年東日流丸三世が佐渡に一族三百人を移住させたときされている。(この章終わり)
◆◆電子書籍を出版致しております。◆◆
↓
「木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について」(100円)
(この書名をクリックされますと、詳細ページへとジャンプします。)
内容はこちらでも掲載していました「木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について」に若干の訂正を加えたものです。
ブログ・ホームページよりも読みやすいかと思いますので、まずは詳細ページの「試し読みページ」からご一読いただけましたら幸いです。
よろしくお願い致します。
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孝靈天皇の御宇
天鈴四百二十八年に正月十二日、大日本太瓊 諱根子彦尊が日嗣を受け継いで君となった。諸臣は協議して古くからの実例の如く天君の大典の御様子を民に拝ませ母君を崇めて御上后とした。先の歳の十二月四日に都を黒田の廬戸宮に移してその年即位二年二月十二日に磯城の大目命の娘細姫を后に、春日乳早命の山香姫を典侍后に、十市真襲緒命の真下姫も心妙となる。その他内侍四人、御下四人であった。即位三年春、大水口命と大矢口命の二名を宿禰とした。夏、内侍の倭(やまと)国(くに)香(か)姫(ひめ)が三つ子を産んだ。御子に皆に倭(やまと)の頭文字を付け倭百(やまともも)襲姫(そひめ)(この姫が箸墓古墳の主である・・著者)、倭五狹芹彦命、倭稚屋姫と云った。生母の功績を讃え倭の大宮女の名を送る。即位十三年、其の妹の紐(はえ)姫(ひめ)を内侍(うち)にする。この姫も十三年十二月に三つ子を産む。兄稚(えわか)武彦(たけひこ)命(のみこと)、中は彦狭島命、弟稚(とわか)武彦(たけひこ)命(のみこと)と名づけられる。母も稚(わか)大宮女(おおみやめ)となった。十二年春、后が初めて御子を生んだ。日本根子彦国牽(やまとねひこくにくる)尊、諱は元杵である。即位二十五年の正月十一日、例年県主を呼び出し饗応する習わしであるが、その年に詔を下した「若しも、三つ子を生んだ者は政府の出先機関に届けでよ。下民であっても褒章を与える。其の由は天照大神の孫瓊瓊杵尊の后木花咲哉姫が三つ子を生んだ後その様な話を聞かない。我、自身も三つ子を生んだので特別の思いがあるが、ほのかに聞けば三つ子をば、間引くと名づけ殺すそうだ。今よりそのような事があれば罪人となる。各々の子は総て、我が国の将来の種であるぞ。 鹿・犬千匹より人は大切のものである、これは建御名方の昔の教えである」。詔は広く支持され、国司は民に良く周知されるよう、各々の国に帰った。翌十二日朝、諏訪王が原見山(富士山)の絵を奉る。君は大変気に入って褒められた。同じ時、白髭神が琵琶湖の絵を奉る。君は同様面白くご覧になり、褒美を下された。其の後で、君が春日に申すことには 「我は昔この富士山と近江の海の絵を見たことがある。それは献上物で私はその絵が欲しく父君に強請ったが父君はその絵を余り評価しないで捨ててしまった。今この絵を見ると美しく、二つの絵は割り符の様に和合している。昔、原見山に不老不死の薬草が有ったそうだが五百年前の地震で焼け枯れてしまった。昔の事で不老不死の薬草の種も再び生き返ったに相違ない。原見山と近江の海を一緒に見てみたいものだ。若しかすると千代見草も生えているかもしれないではないか」 と楽しげに語られた。千代見草とは原見草の一種で、不老不死の薬草であり秦の始皇帝が本気で其の薬を欲しいと船団を日本近海に派遣したと伝えられている奇草である。大変苦く、特にその成熟した草の一部は人間の形をしていて、口に入れてもその苦さに吐き出してしまう代物と伝わっている。しかし天照大神には好物で、これを毎日薬の様に飲んで奇大の長壽を得たと記され、其の年齢はホツマツタエでも明らかでない程長寿であった。今青汁がよいとテレビの宣伝で耳に蛸が出来る程聞かされるが、超古代において既にその貴重性が知られていた事は驚きである。
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この年の三月七日、原見山に行幸することが決定した。黒田より香久山賀茂、多賀の宮、諏訪湖を抜け酒折の宮に着き、宮を預かる武日照命は君を饗宴した。山登りし、又下り、裾めぐりをして、今の富士の宮市の富士本宮浅間神社に到着した。春日命が申す事では、「山腹には三つ葉の綾草が生えていて、それが千代見草かと思い皆が味目をしようとしましたが、煮ても苦く誰もが食べる事ができませんでした。見どころは山の中峯で昔の風景が残っています。裾野の湖が八か所有りましたが地震で三か所が埋まり、周りが焼けました、しかし湖の風景は変わっておりません」。君はお歌をつくる。
中はふり 半ば湧きつつ この山本
とも静まりの この山よこれ
【噴火により峯の形は変わってしまったが、この中峯は全く変わっていない。溶岩で半ば埋まってしまつたが、麓の村々と共に静まりかえっている、これが真の山の姿であるぞ】
と君が山の新しい名前を漠然と考えていると田子の浦人が藤の花を持参し捧げると、君はその花をこよなく美しく感じられ、スルスルと御歌が口につい出て来てしまった
原見山を振り返り見ると そこに藤蔓の美が有り
原見山に本当に相応しい この山は藤の山だ
この縁により君を尊んで以後藤の山と言われる様になった。帰路は海沿いの東海道を選んで都に帰る。
即位53年、西国で諍いが起き、チノクチと播磨(はりま)簸川(ひかわ)に忌部主を、副将として倭五狭芹命を命じ、兄稚武彦命を吉備上路、弟稚武彦命を吉備下路に派遣し不満の理由を良く納得させて服従させた。即位七十六年二月八日君罷る。百十八歳であった。
東日流外三郡誌には孝霊天皇54年東日流丸三世が佐渡に一族三百人を移住させたときされている。(この章終わり)
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内容はこちらでも掲載していました「木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について」に若干の訂正を加えたものです。
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