◆神代の案内人ブログ

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                                      船越 長遠   平成26年3月26日       

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◆第一代神武天皇より第九代開化天皇までの皇統を語る 第九章

2013-02-27 10:53:49 | 第一代神武天皇より第九代開化天皇
第九章   オオヤマトネコヒコクニテルのスメラミコトの治世
       孝靈天皇の御宇

 天鈴四百二十八年に正月十二日、大日本太瓊 諱根子彦尊が日嗣を受け継いで君となった。諸臣は協議して古くからの実例の如く天君の大典の御様子を民に拝ませ母君を崇めて御上后とした。先の歳の十二月四日に都を黒田の廬戸宮に移してその年即位二年二月十二日に磯城の大目命の娘細姫を后に、春日乳早命の山香姫を典侍后に、十市真襲緒命の真下姫も心妙となる。その他内侍四人、御下四人であった。即位三年春、大水口命と大矢口命の二名を宿禰とした。夏、内侍の倭(やまと)国(くに)香(か)姫(ひめ)が三つ子を産んだ。御子に皆に倭(やまと)の頭文字を付け倭百(やまともも)襲姫(そひめ)(この姫が箸墓古墳の主である・・著者)、倭五狹芹彦命、倭稚屋姫と云った。生母の功績を讃え倭の大宮女の名を送る。即位十三年、其の妹の紐(はえ)姫(ひめ)を内侍(うち)にする。この姫も十三年十二月に三つ子を産む。兄稚(えわか)武彦(たけひこ)命(のみこと)、中は彦狭島命、弟稚(とわか)武彦(たけひこ)命(のみこと)と名づけられる。母も稚(わか)大宮女(おおみやめ)となった。十二年春、后が初めて御子を生んだ。日本根子彦国牽(やまとねひこくにくる)尊、諱は元杵である。即位二十五年の正月十一日、例年県主を呼び出し饗応する習わしであるが、その年に詔を下した「若しも、三つ子を生んだ者は政府の出先機関に届けでよ。下民であっても褒章を与える。其の由は天照大神の孫瓊瓊杵尊の后木花咲哉姫が三つ子を生んだ後その様な話を聞かない。我、自身も三つ子を生んだので特別の思いがあるが、ほのかに聞けば三つ子をば、間引くと名づけ殺すそうだ。今よりそのような事があれば罪人となる。各々の子は総て、我が国の将来の種であるぞ。 鹿・犬千匹より人は大切のものである、これは建御名方の昔の教えである」。詔は広く支持され、国司は民に良く周知されるよう、各々の国に帰った。翌十二日朝、諏訪王が原見山(富士山)の絵を奉る。君は大変気に入って褒められた。同じ時、白髭神が琵琶湖の絵を奉る。君は同様面白くご覧になり、褒美を下された。其の後で、君が春日に申すことには 「我は昔この富士山と近江の海の絵を見たことがある。それは献上物で私はその絵が欲しく父君に強請ったが父君はその絵を余り評価しないで捨ててしまった。今この絵を見ると美しく、二つの絵は割り符の様に和合している。昔、原見山に不老不死の薬草が有ったそうだが五百年前の地震で焼け枯れてしまった。昔の事で不老不死の薬草の種も再び生き返ったに相違ない。原見山と近江の海を一緒に見てみたいものだ。若しかすると千代見草も生えているかもしれないではないか」 と楽しげに語られた。千代見草とは原見草の一種で、不老不死の薬草であり秦の始皇帝が本気で其の薬を欲しいと船団を日本近海に派遣したと伝えられている奇草である。大変苦く、特にその成熟した草の一部は人間の形をしていて、口に入れてもその苦さに吐き出してしまう代物と伝わっている。しかし天照大神には好物で、これを毎日薬の様に飲んで奇大の長壽を得たと記され、其の年齢はホツマツタエでも明らかでない程長寿であった。今青汁がよいとテレビの宣伝で耳に蛸が出来る程聞かされるが、超古代において既にその貴重性が知られていた事は驚きである。
 即位三十六年正月十日、元杵尊を世継ぎの御子として世継ぎの証である御機織留を手ずから手渡し「これは天照大神からの宝である。朝夕眺め心にとめて民を治めよ」と申された。正装し盛大に民に知らしめ拝謁させた。
 この年の三月七日、原見山に行幸することが決定した。黒田より香久山賀茂、多賀の宮、諏訪湖を抜け酒折の宮に着き、宮を預かる武日照命は君を饗宴した。山登りし、又下り、裾めぐりをして、今の富士の宮市の富士本宮浅間神社に到着した。春日命が申す事では、「山腹には三つ葉の綾草が生えていて、それが千代見草かと思い皆が味目をしようとしましたが、煮ても苦く誰もが食べる事ができませんでした。見どころは山の中峯で昔の風景が残っています。裾野の湖が八か所有りましたが地震で三か所が埋まり、周りが焼けました、しかし湖の風景は変わっておりません」。君はお歌をつくる。
   中はふり 半ば湧きつつ この山本
              とも静まりの この山よこれ
【噴火により峯の形は変わってしまったが、この中峯は全く変わっていない。溶岩で半ば埋まってしまつたが、麓の村々と共に静まりかえっている、これが真の山の姿であるぞ】
と君が山の新しい名前を漠然と考えていると田子の浦人が藤の花を持参し捧げると、君はその花をこよなく美しく感じられ、スルスルと御歌が口につい出て来てしまった

  原見山を振り返り見ると そこに藤蔓の美が有り
              原見山に本当に相応しい この山は藤の山だ
 この縁により君を尊んで以後藤の山と言われる様になった。帰路は海沿いの東海道を選んで都に帰る。
即位53年、西国で諍いが起き、チノクチと播磨(はりま)簸川(ひかわ)に忌部主を、副将として倭五狭芹命を命じ、兄稚武彦命を吉備上路、弟稚武彦命を吉備下路に派遣し不満の理由を良く納得させて服従させた。即位七十六年二月八日君罷る。百十八歳であった。
 東日流外三郡誌には孝霊天皇54年東日流丸三世が佐渡に一族三百人を移住させたときされている。(この章終わり)

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◆第一代神武天皇より第九代開化天皇までの皇統を語る 第八章

2013-02-20 11:08:21 | 第一代神武天皇より第九代開化天皇
 第八章   ヤマトタラシヒコクニオシヒトのスメラミコトの治世
       孝安天皇の御宇

 天鈴三百二十六年正月七日天津日嗣を受け継いで日本足彦国諱押人が高御位につく。大典の華やかさを民に拝ませて、磯城長葉江命の娘長姫を大典(おお)侍(すけ)后(きさき)、十市五坂彦命の娘五坂姫を内侍(うち)后(きさき)とする。長橋で居住して天照大神の定めた典範に従って総数十二の后である。即位二年都を室の秋津島宮に定める。即位十一年村雲命が稲の伝染病が広まっていると報告があり君は自ら【秡ひ風ふの祀り】を行った。稲の疫病が収まり豊作となり、豊年万作の祭りをした。即位二十六年春二月十四日、春日君の押姫を入れて内宮とした。歳は十三歳であった。考昭天皇死後三十三年八月十四日天皇の亡骸を博多の原に埋葬した。仕えた典侍達に殉死する者もあり一緒に埋葬し、残る三人も皆を追って殉死した。
 天御子が即位して五十一年、后が御子を生んだ。諱根子彦大日本太瓊と申し上げる。即位七十六年根子彦尊が世継ぎの御子となる。歳二十六歳である。君の治世も百二年が過ぎる正月九日に罷かられた。御歳は百三十七歳、御子は喪に入り四十八日若宮に居て政治を司った。九月三日玉手丘に送り殉死の五名も共に埋められて神となられた。

 東日流外三郡の記載が矢張りある。孝安天皇即位61年、東日流丸一族は大挙して大和に進駐し天皇の空位を四十一年間も続けさせた。其の結果七代孝靈天皇がやっと即位する事となる。ホツマの記載では孝靈天皇の在位年間は百二年と一番長い。即位は三十六歳で空位を事実として計算すれば在位の期間は六十一年である。その時の歳は九十六歳となる。既に其の時には譲位していたと考えるのが正しいのではないか。
 富士高天原朝史にも記載がある。孝安天皇即位八十年、九州西北諸国の国賊残党が強力な集団となり侵入、九州は全域が乱れ事態は深刻であった。天皇自ら元帥途なり弟の政弥彦太命と吉備蘇彦を副將軍として中国・九州の将兵を招集し、親征三年七月で悉く征定して凱旋した。・・と記され東日流外三郡誌とは反対の記述である。(この章終わり)

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◆第一代神武天皇より第九代開化天皇までの皇統を語る 第七章

2013-02-13 12:13:22 | 第一代神武天皇より第九代開化天皇
第七章   ミマツヒコカエシネの治世
        孝昭天皇の御宇

 天鈴二百四十三年、正月九日、天津日嗣を受け継いでカエシネのスメラミコトは大礼を施行。皆臣の拝礼をうけ四月五日に母君を御上后として敬った。葛城掖上池心宮に都を移す。出石(いずし)心命(こころ)をケクニ臣とする。君はまだ三十一歳であった。未だ君が若い時内(うち)侍(はべ)六人、お下四人、青女三十人が仕えていた。即位二十九年正月三日に正妃を迎えた。世襲足姫で未だ十五歳であった。神武天皇が酒の席で妃の小百合姫を弥彦命に下賜された事を前述したが、この世襲姫は弥彦神と小百合姫の間の御子で、越後で生まれた天抱命(あめるだきのみこと)の子の天忍雄命の孫娘であった。即位三十一年内宮の兄沖津世襲命をケクニ臣とした。即位四十五年五月十五日に后が御子を生んだ。諱を押杵、天足彦(あまてらしひこ)国(くに)と云う。次いで即位四十九年后が又男子を生んだ。諱押人、大和足彦国御子、子の御子誕生のとき朝日が輝き吉兆を予感せれた。即位六十八年正月十四日押人尊を若宮とした。御年二十歳、次の日兄の押杵尊を治君とし、春日の姓を賜った。即位八十六年、天皇罷かる。歳百十三歳であった。新后皆宮中にとどまり喪に仕えた。御子は祭司を司り三十五歳で日嗣の君となり民をおさめた。兄の治君もよく仕えその子大宅・粟田・小野・柿本も忠誠であった。
 例によって富士高天原朝史にも記録がある。孝昭天皇即位三十年、国賊一味が東南の島々に集結し東海の国々に乱入、天皇は自ら元帥となり武部中連を副将軍として南西に将兵を率いて東征した。賊軍は強く抵抗が頑強で鎮圧に十五年の年月を要した。この天皇は高潔な人格で皇后以外に娶る女性が無く品格高く朝臣で心服しない者はいなかった。と記されていて前記の記述とは反対である。人生の後半で高潔に振舞ったのであろうか。東南の島々とは何処であろうか、伊豆七島からでは大挙して乱入云々・・には合点が行かない。志摩の国の島々に拠点を持つ海賊であろうか。
(この章終わり)



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◆第一代神武天皇より第九代開化天皇までの皇統を語る 第六章

2013-02-06 15:16:26 | 第一代神武天皇より第九代開化天皇
第六章  オホヤマトヒコスキトモのスメラミコトの治世
      懿徳(いとく)天皇の御宇

 天鈴二百八年二月四日、若宮は歳三十六であった。天津日嗣を受け継いで大日本彦耜友天皇と祝福を受ける。天の法により先の如く大礼を行い暦の日付けを曲峡に改め先帝を送り喪に入った。九月十三日に母君を御上后と崇め、正月五日に軽の曲峡に新都を移し、二月十一日に天豊津日姫を内つ宮、磯城猪手命の娘泉姫を典(す)侍(け)、太真稚命の娘飯日姫を心妙とした。即位五年三月、内宮は住吉にて御子を生む。薫殖稲(かえしね)諱を海(み)松(る)仁(ひと)と名付けられ、父の息石命は治君に昇格された。飯日姫がタケアシにて田島御子を生まれた。諱を竹椎尊。即位二十二年二月十二日薫殖稲尊を世継ぎの御子とした。十八歳であられた。三十四年九月八日君罷る。若宮は喪に入り翌年まで君がさながら生きている如く御饗をし冬になり畝傍山の織沙谷に埋葬した。七十歳でおられた。仕えた臣達は無言の内で、若宮も言葉もなく、それぞれに帰って行かれた。
 懿徳天皇の所謂旧辞の部分は極めて少なく、欠史八代説で捏造された天皇と現今云われている。しかし東日流外三郡誌には懿徳天皇三十三年、荒吐族再度大和に進駐して孝昭天皇之即位を一年遅らせると記されている。これは上記にも記述されていて、ホツマの記述に一致し、大変興味があるところである。
 富士高天原史にも記述がある。懿徳天皇即位十年より不作が続き餓死する者が多く大民の不安は穏やかならず、世情の定まらない社会情勢であった。この機に乗じ壱岐・佐渡の国賊の残党は大軍で北陸諸国に攻め込み暴虐の限りを尽くした。天皇は坂本日良吉太夫・諏訪武彦命に両将に命じてこれを鎮圧した。懿徳の諡号はこの故に奉られたものである。
(この章終わり)


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