◆神代の案内人ブログ

…日本の古代史についてのブログです。…他の時代もたまに取り上げる予定です。

◆「蘇我太平記」第十二章禁中でのクーデター 蘇我氏の滅亡その3(最終回)

2012-03-07 17:47:29 | ◆蘇我太平記
 繁栄を極めた一族は突然旬日を待たず滅亡する事は歴史が伝える所である。例外とすれば豊家であろうか。平民から立ちあがった秀吉の人を丸めこむ異徳の香りが、死後久しく巷間を漂い関が原、大坂の夏の陣、冬の陣と続いた。しかし蘇我氏の滅却は極めて目立つ。一昼夜入鹿の骸は筵を被せられて雨中に曝された。神代と言われる超古代からの連・臣の憎しみがそれだけ強烈だった結果であろうか。蘇我氏は坦々として皇位を狙っていた。隣の大国中国の例もあり、蘇我氏はその実現がこの国に於いて侮徳な陰謀であるとの深慮を払っていなかった。異論もあろうが私はその様に思っている。蘇我氏は異教の仏教により興隆しその仏教により滅んで行った。アシャカ王の皇子釈迦の唱える教えは西蔵、中国の中原・平原・半島を経て我が国にもたらされた。これは大乗仏教である。己を犠牲にしてあらゆる生類に恵みを施す。その為には己の命をも捧げる。見かえりを求めず、次第に心は無となり昇華して光悦の空間に安住すれば、それが悟りであり、即ち涅槃の世界である。つまり自身の本能を殺しおのれ以外の生類の本能を満たせ、との教えで理想の極限であり、凡人の意識では到底実行不可の教えであった。仏教に傾注する百濟の聖明王は、自国での布教を半ばあきらめたのであろうか、興隆著しい大和にて「是非布教に尽力しくれ、お願いをする」、と親書と共にその仏教を紹介したのだ。「この教えは長い、長い年を経て東の果ての国に到達する。その国で薫醸され、やがてこの国に我が教えが戻り人々に恵みをもたらす」。古いインドの経典にはそう釈迦が説いたと記されているそうである。聖明王はそれを知っていたのかも知れない。受け取った欽明天皇は百濟王の依頼であり百濟の出身である(著者はその様に考えている)蘇我氏にその扱いを命じたのだ。蘇我氏にしてみれば、その教えを育み、広く普及する努力が自族の生き残る道であった。蘇我稲目は傑物であったようだ、自らの娘達を積極的に天皇・皇子達の皇后・皇妃として皇統の親族としての地位を高めて行った。物部氏は連であった。連とは譜代の家臣を意味する。家臣からは皇后・妃を差し出す例外も無い時代である。その点で物部は不利に立たされたと云える。続く馬子もこの同じ方策をとり、ついに並ぶ者が無い絶大な権力を握った。高皇産霊の皇統出氏も蘇我氏出氏も同じ並びである。この血脈が何代も続けば、やがて蘇我皇統が出来るのでないか。稲目の後継者馬子にその思いが芽生えたとしても不思議でない。次代の天皇選びにもこの傾向が明かである。次代の本目と思われる皇子を選んでも、当たり前として感謝もされない。帝位に遠く低い血筋の皇子を選べば感謝の度の高く、その後は蘇我氏の言い成りとなり非常に扱い易い。しかし、その目論みは見事に失敗した。崇峻天皇殺害事件である。田村皇子・宝皇女を引き上げたのも同じ目論みでなかったか。物事は皮肉の結果を間々生むものである。その間に生まれた皇子中大兄が入鹿成敗の先頭に立つとは夢にも思わなかったのでないか。
山背大兄一族の殺害が蘇我氏の命取りになった。皇統の一族を私怨ともとられる一存で消滅に追いこんだ所業は、蘇我氏断罪の大儀名分を政敵に与えてしまつたのだ。前述したように山背は大乗の教の深い心捧者であった。天皇には向かない理念の持ち主であったが、大民(おおたみ)には絶大の人気があった。これは蘇我氏に取り決して良い事ではない。今のうちにその芽を刈った方が良い。入鹿の若さから来た大失策であった。大乗仏教で栄え、大乗仏教を排除した事で滅ぶ。蘇我氏のみが描いた太平の夢は、今の世でも中々逆族の烙印が取れない。法隆寺の前身斑鳩の宮の主、聖徳太子の影が影響しているのだろうか。(完)


参考にした本
日本書紀 下 坂本太郎ら校注 :岩波書店
先代旧事本紀 大野七三校訂編集 :批評社
完訳 秀真伝 上 下巻 鳥居礼編著 :八幡書店
日本の歴史2 古代国家の成立 直木孝次郎 :中央公論社
日本人の仏教3 仏教の経典 田上太秀 :東京書籍
エコール・ド・ロイヤル5 斑鳩の白い道の上に 上原和 :学生社
エコール・ド・ロイヤル5蘇我一族 黛弘道 :学生社
エコール・ド・ロイヤル9 蘇我氏の栄光と陰影 門脇禎二 :学生社
エコール・ド・ロイヤル13 推古朝成立の頃 山脇幸久 :学生社
Let us Brush Up 古代日本史 歴史を捻じ曲げた蘇我氏の氏族コンプレックス 船越長遠 :文芸社
高天原と幻の飛騨王権 船越長遠 :幻冬社
太古日本の史実を考古学で探る 船越長遠 :冬青社

 長い間検索ご精読頂きまして厚く御礼を申しあげます。蘇我氏に関する一連の考察は少ない様に思えます。皆さまに今後何かのお役に立てば私として幸甚でございます。次回からは[私論四十七人の刺客]をプログに出したいと考えています。短編ですので2・3カ月で終わります。その後、[神武以前三代記・・瓊瓊(にに)杵(ぎの)尊(みこと)―彦(ひこ)火(ほ)火(ほ)出(で)見(み)尊(みこと)―鵜(う)葦(がや)草(ふ)葦不合(きあえず)尊(みこと)] を掲載したく思っております。御期待下されるよう御願い致します。その中で秀真伝偽書説に対する私の見解も述べさせて頂きます。

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