◆神代の案内人ブログ

…日本の古代史についてのブログです。…他の時代もたまに取り上げる予定です。

◆万葉徒然想(その8)

2014-03-12 05:26:18 | ◆万葉徒然想
 穴穂天皇即位3年8月、天皇は山の離宮に湯治に出かけた。床の高い高殿に上って、やや多めに酒を飲んだのであろう。安心と深酒の油断から傍らの中帯姫の膝枕で、心の不安もつい薄れ、声をひそめることもなく日頃の本音を口に出してしまったのだ。
「皇后は優しくて本当に好いと思っている、しかし眉輪王はなんだ、目つきが鋭くて私を睨んでいるように思えてならぬ。誰かが陰で私の悪口を吹きこんでいるかもしれない、眉輪王は恐ろしい」
 眉輪王は当時7歳であったと言われている。高殿の下で遊んでいで、この話を全部聞いてしまったのである。膝枕の心地よさと湯浴みの疲れも加 わって穴穂は熟睡する。眉輪王は7歳にしてはあまりにも大胆であった。その機を窺って天皇を刺し殺してしまったのだ。仰天した大舎人は走ってこのことを稚武皇子に注進する。稚武は二人の兄の謀略を疑い、急ぎ軍を率いて兄の八釣白彦皇子の屋敷で詰問する。稚武の何か言われれば余計に興奮する気性をよく知っていて、兄皇子は口を噤んで返事をしない。これが更に怒りを誘い、稚武は刀で兄を殺してしまう。又、別の兄の坂合黒彦皇子に対しても厳しい態度で問いただす。この皇子も口を閉じて語らない。稚武の怒りは頂点に達し眉輪王を殺そうとする。
「われは皇位を狙ったのではない、父親の仇を討ったのだ」
 眉輪王は憤然として答える。坂合黒彦皇子は隙を見て
「眉輪よ、ここに居ては殺される、逃げよう」
 と圓大臣の宅に逃げ込む。圓大臣は葛城氏の中心人物であった。稚武の政敵である市辺押磐皇子が葛城氏の出であったので、眉輪王たちは何の深い考えを持たず、対立関係にある葛城氏の門を叩いたのである。稚武にしてみれば、思う壷であった。葛城氏を攻める良い口実が出来たのだ。
 稚武皇子は使を出し、眉輪王らを捕らえて差し出すように命令する。圓大臣の答えは立派であった。
『蓋し聞く、人臣、事あるときに、逃げて王宮に入ると、未だ君王、民の舎に隠るるを見ず。方に今、坂合黒彦皇子と眉輪王と、深く臣の心を頼みて、臣の舎にきたれり、如何にか忍ばで送りまつらむや』
 稚武皇子は兵を率いて大臣の宅を囲む。大臣は庭に出て脚帯(あゆひ)を持って来いと夫人に言う。
 民の子は 栲(たへ)の袴を 七重をし 庭に立して 脚帯撫だすも
 わが夫は庭に立って白い栲の袴を七重にお召しになって脚帯を撫でておられる
 圓大臣はかなりの高齢であった様に思われる。すべてを運命と悟ったのであろう。門の前に出て頭を深く下げ、 
「この私は罰せられるとも、命令に服することは出来ません。古い例にもあります、匹夫の志も奪うことは難しいと。私が正にその場にあります。稚武皇子に伏してお願いを致します。両名の命をお助け下さい。私の女韓姫と、葛城の宅七区を稚武皇子に代わりに差し出します故」(稚武皇子はこの韓姫にも情を感じ、日頃から言い寄っていたのであろう)
 これに耳を傾けるような稚武ではなかった。家に火をつけすべてを焼き払う行動に出たのである。圓大臣・黒彦皇子・眉輪王が共に焼き殺されたことは言を俟たない。誰かれの区別も出来ないほど亡き骸が焼けていた。そのため一つの棺に入れて、新漢(いまきのあや)の擬本(つきもと)(今の奈良県吉野郡大淀町今木)の南の丘に埋葬したと言う。稚武皇子の一連の策略はなお続く。対抗馬の市辺押磐皇子に使いを送り、
「近江の国の蚊屋野に猪・鹿が多く居るので一緒に狩りに行きませんか。その角は木の枝のように大きく、脚も太い。吐く息が荒くあたりが霧のように白くなるほどだと聞いています。久し振りに狩りをして旧交を温めたいと思います」
 と誘った。市辺皇子がその真意を疑ったことは間違いないと思う。しかし断ればそれを理由に攻められる。覚悟の上でその誘いに乗って狩にいき、後ろから矢で射られて殺されてしまう。市辺皇子の同母弟の御馬皇子にも難が及んだ。自分の立場に不安を感じた皇子は三輪君の親しいものを頼って移動の途中、追っ手に待ち伏せされる。三ノ輪の盤井の側で戦いになり、捕らわれて殺される。死に際に御馬皇子は傍らの井戸を指さしてこう言ったそうである。
「この井戸の水は百姓(おおみたから)の大切な命の水だ。大民(おおみたから)の心を知らず、ただ権勢にのみに狂う者ら、ただ一人たりとも飲んではならぬ」。
 朝廷内の反抗勢力を一掃した稚武皇子は、その年の3月に大泊瀬稚武天皇(雄略)として即位し、皇后に先の幡梭皇女を立てる。妃には圓大臣の韓姫を選び、その他に童女(をみな)と言う妥女(うねめ)も妃となった。この妃は春日大娘皇女という女児を産む。天皇がこの童女を召すと、一夜にして妊娠した。天皇はそれについて怪しみ自分の児でないと言う。目大連という人がわざと天皇に聞こえるように,「可愛い女児でありますこと、歩き方が天皇そっくりです」と話す。天皇がそれを聞きつけ、
「皆がそう言うのだが、たった一夜だぞ、やっぱりおかしいと思うのだ」
「童女は大変やさしい心の綺麗なお方です。一身になり君のお召しに応えたのでしょう。一夜だと言われますが、いったい何回」
「七回だ」
「腰を抱かれただけで孕む女性がいると聞きます。何でそのようにお疑いになるのですか」
 天皇はやっとその女児を皇女として認め、童女君を正式に妃とした。


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