◆神代の案内人ブログ

…日本の古代史についてのブログです。…他の時代もたまに取り上げる予定です。

◆管理人より(2014.3.26~)◆

長らく閲覧を頂きまして厚く御礼を申し上げます。私事になりますが高齢になりまして、近頃体調が勝れません。
暫くお休みを頂き、体調が戻り次第再び掲載を続ける心算です。宜しくお願い致します。
                                      船越 長遠   平成26年3月26日       

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◆扶桑の国幻想(その6)

2013-07-31 19:10:37 | ◆扶桑の国幻想
 三国志魏志倭人伝に記された邪馬台国の話は有名でその名を知らない大人の日本人はいないと思う。三国志の著者陳寿は歴史を書くに及んで、誌といわれるその国の社会制度を述べた項の中で次のように書いている。
『其会同座起、父子男女無別 人性咾酒。見大人所敬。 担博手以冨跪邦拝。』
会合で座席や起居の順序に父子や男女の区別をしない、人々はよく酒を飲み交わす、大人集団の長へ敬意の表し方はただ手を合わせ拍手するだけで,跪いて深く拝礼することはしない。と記している。
その反面、行をおいて後の部分に『下戸與大人相逢道路、逡巡入草, 傳辞説事、或噂或跪、両手據地,為之恭敬、対応声日噫、比如然諾』下戸が道で大人に出会うと、後ずさりして決して背を向けず道端の草の中に入る、話をする時は深く膝をつき腰を曲げて、両手を地につけて恭敬の意を表しながら噫と返事をして承諾の意を伝える、とある。前の記述からは邪馬台国は非常に民主的で人々には自由平等の気運に溢れているような感じをうける。しかし後の部分は全くその逆で封建制度そのもの,大名が賎民を扱う如き振る舞いである。この落差は何であろうか。
 私は既に征服者と服従者の関係が邪馬台国にあつたのでないかと思っている。人口が極めて少ない太古、部族の主権域は重ならす大きな衝突はなかったと私は考えたい。しかし九州は人口が増加して其の域を脱していたにであろうか、そのように考えると魏志倭人伝に記された邪馬台国周辺の国の人口はその当時としては多すぎるとの印象をうける。先住民族間で主権、又は生活習慣の異なる集団の行動範囲が増大してぶつかったのか、先住民族に他の部族が横から入ってきて衝突が起きたのか、世界中の歴史によく見るケ-スである。
 中国で古くから徐福伝説と呼ばれ今に残っている話がある。近年中国では史学が飛躍的発展して徐福の研究にも及び、その伝説が史実であったと学会全般の潮流となっている。
 紀元300年秦の始皇帝の中国統一により勝者と敗者がはっきり分かれる。最後まで反抗した斉は中原の中心地徐州周辺を領し中国文化の中心であった。敗者となり祖国を愁う心情は深く巷間に浸透していたのである。
 始皇帝は全国統一の地盤固めのためその短い在位期間に5回も大規模の旅行をしている。第2回の山東半島巡幸の際、徐福という人が名乗りでた。この人物は方士で(道教の道に通じ科学的にも広い知識をもった僧に近い者)世の信望があり、斉王室の流れをくむ人物であった。徐福は滅んだ民族の繁栄を他の新天地に求めたのであろう、言葉巧みに始皇帝の泣き所を突いた話が今に伝わっている。道教の教義はある面で秦の国是でもあった。神仙の道に重きを置き練金術、不老不死の薬の開発が国家的プロジェクトの一つであった。健康に恵まれない始皇帝にはその願いが人一倍であったとされている。
「海を渡る東の国に蓬莱・方丈・瀛州の三聖山に不老不死の薬があると聞いています、私が行きその聖薬を皇帝に献じたいと思います、船と若い優秀な人材をお遣わし下さい」
 始皇帝はこれを信じ巨額の費用を与え、その計画を実行に移すように命じたのである。徐福はその後何度も海にでたが薬が有る聖山の国には達せず、
「島は解ったのですが鮫が多くて近寄れません、弓術に巧みな武人と若者3000人お貸しください。」
と更なる厚い支援を願い出たのである。始皇帝5回目の巡幸の時で、帝は山東半島から徐福一向の船出を見送った。都の威陽への帰路の途中に世界史上比を見ない太く短い51歳の生涯を終わるのである。
 蓬莱山は日本の富士山と言われている。日本各地に徐福伝説があり、その処所は20を越えるという。遠くは秋田県男鹿市、八丈島にも流れついたらしい。佐賀県有明海沿岸、熊野地方の二つがこの伝説流布の中心地である。

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◆扶桑の国幻想(その5)

2013-07-24 18:33:40 | ◆扶桑の国幻想
 別の民族の流れは10万年前にアフリカから中東・インドをつたい、5万年前にインドネシヤに到達したといわれている。現在のインドネシア中核部の大スンダ列島.・小スンダ列島は氷河期の海退でインドシナ・マレー半島と陸続きの大陸でスンダランドという名が現在ついている。氷河期では赤道直下でも寒冷の気候と考えがちだが、実際は現在の東南アジアと大体同じ気候であった。彼の地には熱帯樹林と疎林がひろがり食料は豊潤で、人口は増え続け周辺へと拡散していった。4万年程前にスンダランドの一部の人が海を越えて陸続きであるボルネオ・スマトラに、更には航海術の進歩によりオーストラリア・ニューギニアへと地歩をかためていく。3万年前、またスンダランドの少数の人は東アジアを北進しフィリピン・琉球をつたい九州に到達。西九州を中心に北九州・四国と拡散した。
 戦前・戦中の教育を受けた人は若い頃の記憶の良さも手伝って日本武尊の熊襲征伐の神話は頭にこびり付いて残っている筈である。日本武尊は女装して熊襲の首領に近づく。首領は男であることに気付かず油断して寝所に導き入れる。命が懐剣を抜いて切りつけると、その勇猛に恐れおののいた。そして変装をしたのが日嗣の皇子と知るや、「今より後は日本尊命と名乗りたまえ」と言って息絶える。日本武尊は古事記に身の丈7尺と記されている。7尺もある男が女性に扮しても気付くはずだがそこが神話である。
 スンダランドから北進した部族を簡単に熊襲であると決めてかかるのは勇気がいるが、古くは隼人族と言われ、戦争中「隼」の俊敏に絡む連想から其の名が好まれ、「俺は薩摩隼人」などと誇りに思っていた人を思い出す。



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◆扶桑の国幻想(その4)

2013-07-17 19:17:37 | ◆扶桑の国幻想
 シベリアにはオープン・ウッドランドと名付けた大草原がひろがっていた。疎林の間に草原が広がるアフリカのサバンナのようなものであったという。大型の動物が生息しマンモスは長い氷河期を通じ、その代表的な存在であった。その他には毛犀、穴ライオン、バイソン等多数いた。5万年前死海の地溝地帯から移動を始めたホモサピエンスが東のシベリヤに向かった目的は、シベリアサバンナのこれら大型動物の狩猟であった。シベリアというと一年中続く氷の世界を連想するが、夏は暑く30度以上の日も多く記録されている。氷河期にも波があり暖かい時期、寒い時期を繰り返した。それにつれサバンナ地帯の範囲も大きく北へ南へと移動し、動物も、これを目当ての我々祖先も移動を続け、より良い環境を求めて東へ東へとその行動範囲を延ばしてきたのである。約3万5千年前のオープン・ウッドランドはシベリア、沿海州の大部分を覆った厳しい世界ではあるが、大型動物にとっては豊穣の土地であり、又、人間にとっても正に恵み深い母の大地であった。
約2万年前に氷河期が最も厳しい時期に突入した。シベリアのサバンナ地帯は縮小しその中心はアムール河流域の小さな範囲に押し下げられ、その南端は樺太、北海道、さらには東北地方にまで南下した。大型動物が移り、人類も又それを追って生活の場を移して来たのである。
氷河期の極期には樺太、北海道は陸続きで列島への移住は容易ではあったが、津軽海峡は大きな壁であった。そのためマンモスは遂に本州には渡れなかった。そのかわり本州には以前よりナウマン像が生息していた。筏や小船(意外と大きな船を作っていたかもしれない)で狭くなった海峡を渡り、本州でナウマン像の当時の棲息は不明だが、カモシカを追い次第に種族をふやしてきたのである。
 氷河期が終わり大きな海進が始まった。対馬海峡が大きく広がると黒潮が日本海に流れ込み、寒流ともつれ込んで海は魚で溢れるようになる。西に大陸があり、手頃の海を中に挟んだ東の日本には豊富な雨が降るようになり、全島が緑に覆われて今の日本の気候を作りだしたのである。その後6000-7000年大変な高温・多湿の気候が続く。海進の早さは驚く程で津軽・宗谷の海は広がり、北の民のシベリアへの帰路は断たれた。
しかし北海道・東北・列島中部の高原は鬱蒼たる広樹林に覆われ、それら森林が恵むトチ・ドングリ・クリの実は北の民を次第に狩猟から農耕民族の生活様式に変えて行く。青森県三内丸山遺跡は5500-4000年前の大規模な集落で、居住地をかこんで広大な栗林を作りだした様子が覗われ、栗を主食とし其の中の一部が遠く離れた部族と物々交換され、共存共栄が図られたことが解ってきた。当時の列島の人口はあまり変わらず20万前後と推定され、互いの主権・利害の圏の重なりはなく、複雑の交流圏の錯綜もなく、部族間の騒乱は殆どなかったと考えたい。


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◆扶桑の国幻想(その3)

2013-07-10 17:25:10 | ◆扶桑の国幻想
 人間の遺伝子の働きの総てを解明するヒトゲノムの急速の進展と共に、遺伝子治療の傘を広げ将来起きるであろう病を未然に防ぐための遺伝子操作により、寿命が驚異的にのびると予測されているが、幅広い研究のなかで人類の進化や系統の分析にはミトコンドリアのDNAの使用が最適であるとのことだ。アデニン グアニン チミン チトシン の配列が書き換わるスピードが格段に速いため、二つのDNAを調べた場合其の差異が読み取り易いのだそうだ。日本は全体に酸性土壌のため一万年以上の地層内に埋没した人骨が見つかることは殆どない。そのため現在検査の対象となるのは一万年以後の縄文人である。しかし列島の人口が10万から25万と推定される時代では人類の血縁の交流は限られたものであり、年代を千で数える程の差が有る対象を比較しても、DNAの変化の度合いは格段に小さいものと考えられ、研究には都合が良い。
 佐賀医大の篠田助教授は一人で54体のこの地層の人骨を、PCRと言われる最新技術を使って分析したそうだ。その分析結果を日本DNAデータバンク―世界中の遺伝子研究成果をインターネットのホームページに登録して、国立遺伝子研究所が管理運営している資料-と照合した。世界各地の種族130のDNAのデーター500万件が登録されている莫大の資料である。篠田助教授はこのデータで何処の地域の人のDNAの配列が縄文人に一番近いかを調べ、思いもしなかった結果が出てきたのである。DNAバンクに登録してある縄文人29体の中、実に17体がシベリヤ平原に暮らすブリヤート人と一致し、多い筈だと予測されていた韓国人は一体、台湾中国人一体、タイ人一体という事実であつた。大部分の太古縄文人のルーツは全く想像もしなかったシベリヤ平原であったことが科学的に証明されたのである。
 20数万年前ホモサピエンス(新人)と呼ばれる新しい人種が誕生した。これは現在の世界中総ての人種につながる共通の祖先と認識されている。ホモサピエンスとは知恵のある人という意味だそうだ。アフリカ東部の赤道直下を南北に走る大地溝帯付近で人類化石として発掘されたこの新人のDNAが、現代の総ての地球人と関連することが科学的に証明されていて、これが通説になっている。
 10万年後にこの新人がアフリカの大地を旅立ち、徐々に外なる大地と適応を重ねヨーロッパ、アジヤに分散し進化を続けた。
世界の人種は大きく三種に分けられる。アフリカ人、ヨーロッパ人、アジア人である。10万年前アフリカを旅立った時はヨーロッパ人・アジア人・アメリカインデアンも皆黒人であった。死海地溝帯に数万年留まり今から5・6万年前に西にヨーロッパ人、東にアジア人が分かれてその気候に順応し、偶然も重なって肌の色が変化してきた。太陽の光が弱いヨーロッパの人は紫外線から体を守るメラニンが抜けて白くなり、アジア人もその定住した地域により差があるが黒さが抜けて黄色人種となった。しかし違いがあるといっても皮膚一枚の差、その下の組織のDNAには差が無いという。僅か5万年で左程に変わるものかどうか、俄かには信じがたいが科学はそう証明している。同じく極北に移住して5万年のエスキモー、ラップ人の肌は褐色である。なぜ違うのか、突然変異や偶然の積み重ねか、それとも別のルートの相違が強く影響したのだろうか。問題はなお残っていると思う。
 縄文人とDNAが一致したブリヤート人の居住地ブリヤートは、イルクーツクからシベリヤ鉄道で三時間の距離でブリヤート共和国の名を持っている。総人口42万の小国で、旧ソ連時代に自治権を一部認められたシベリヤ最小民族だそうである。DNAが縄文人と完全に一致したのは其の民族の中の一部、マクソホンという1600人の村であることがわかっている。 
 NHKの取材班がその村に入った瞬間に目が村人の顔に釘付くけになったそうだ。寸分違わぬ日本人の顔付きであった。谷 啓もいれば山田邦子もいた。映画監督の山本晋也もいるではないか。
 マクソホン村の人が何故そのように似ているか、DNAサンプルを探るにはマクソホン村が最適であると考えた日本人研究者の意図が、まさに的を射ていたのだ。
ソ連時代コルホーズ計画の為、国内で多くの人種が大規模に移動させられた。その結果国内で混血が進んだがマクソホン村は都市より遠く240Kも離れた陸の孤島でその影響がなく、太古以来の遊牧の民の姿そのまま今に残った数少ないであったのだ。近代の英知を駆使したDNA研究の結果でありこのシベリアの地は遠い遠い日本人のふるさとであることに間違いは無いと考えたい。


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◆扶桑の国幻想(その2)

2013-07-03 15:03:39 | ◆扶桑の国幻想
 主題の扶桑の国に戻ろう。戦艦の名には旧国名を用いることは前に述べた。扶桑の次は山城で、続いて伊勢・日向・長門・陸奥。その名前のつけ方に一連の関連性が窺える。海軍の機構の艦艇建造部門には艦名を決める小組織があり、其の総意により命名されていたと思う。不思議に思っていることはこの扶桑という国名は奈良、平安、戦国、江戸期を通じ広く伝わる歴史書には一切記載がない事である。扶桑とは京都地方の名前であると10年程前にチラッと何かの本で見たことがある。超古代文書秀真伝(ホツマツタエ)の解説文には扶桑とは関東地方のことを指すと事もなげに述べていることを最近知った。大正期に古代文書秀真伝の存在を海軍部内で知っている筈は無いと思う、とすれば日本草創期の京都地方を意図したとみてよい。次に進水した山城は同じく京都地方を指すことで面白い。艦名選定委員のトップに古代史に造詣が深い武官がいて敢えて躍進著しい日本を表徴する意図で扶桑と名付けたのであろう。扶桑国とは一体何か、多くの古代史書をあれこれ探り、幻想と幻想が攪拌されて固まり、おぼろげの考察が浮かび上がってきた。以下暫くお目を拝借し私と共に祖始日本の姿を辿っていただければ有り難いと思う。
 この夏、NHKのスペシャル番組「日本人はるかな旅」のシリーズが始まり、その第一回目「マンモスハンター シベリヤからの旅立ち」は、DNAという最新科学の成果を使って、不可能と思われていた超超古代原点の日本人のルーツをごく一般的に解き明かした。大変に説得力があり、今後人々の話題の種になる物と思われた。そして第二回目、現在のインドネシアの大スンダ列島、小スンダ列島の原始スンダランドの大きな海進、そして黒潮に乗って日本列島南部の九州に地歩を得た黒潮の民の話は、私が長年考え疑念に思えてならなかった魏志倭人伝の条項の理論性に欠ける部分の解釈に一条の道をつけたように思われた。事実テレビを見ながら私は「しめた」と小さく叫んだのである。「しめた」とは場にそぐわぬ表現であるが、これで道が通った、その終点に今回の表題の扶桑の国の姿がチラッとみえた。そう思った心の中の高揚が思わずそう口に出させたのであろう。(つづく)
(初出:2001年)

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