三国志魏志倭人伝に記された邪馬台国の話は有名でその名を知らない大人の日本人はいないと思う。三国志の著者陳寿は歴史を書くに及んで、誌といわれるその国の社会制度を述べた項の中で次のように書いている。
『其会同座起、父子男女無別 人性咾酒。見大人所敬。 担博手以冨跪邦拝。』
会合で座席や起居の順序に父子や男女の区別をしない、人々はよく酒を飲み交わす、大人集団の長へ敬意の表し方はただ手を合わせ拍手するだけで,跪いて深く拝礼することはしない。と記している。
その反面、行をおいて後の部分に『下戸與大人相逢道路、逡巡入草, 傳辞説事、或噂或跪、両手據地,為之恭敬、対応声日噫、比如然諾』下戸が道で大人に出会うと、後ずさりして決して背を向けず道端の草の中に入る、話をする時は深く膝をつき腰を曲げて、両手を地につけて恭敬の意を表しながら噫と返事をして承諾の意を伝える、とある。前の記述からは邪馬台国は非常に民主的で人々には自由平等の気運に溢れているような感じをうける。しかし後の部分は全くその逆で封建制度そのもの,大名が賎民を扱う如き振る舞いである。この落差は何であろうか。
私は既に征服者と服従者の関係が邪馬台国にあつたのでないかと思っている。人口が極めて少ない太古、部族の主権域は重ならす大きな衝突はなかったと私は考えたい。しかし九州は人口が増加して其の域を脱していたにであろうか、そのように考えると魏志倭人伝に記された邪馬台国周辺の国の人口はその当時としては多すぎるとの印象をうける。先住民族間で主権、又は生活習慣の異なる集団の行動範囲が増大してぶつかったのか、先住民族に他の部族が横から入ってきて衝突が起きたのか、世界中の歴史によく見るケ-スである。
中国で古くから徐福伝説と呼ばれ今に残っている話がある。近年中国では史学が飛躍的発展して徐福の研究にも及び、その伝説が史実であったと学会全般の潮流となっている。
紀元300年秦の始皇帝の中国統一により勝者と敗者がはっきり分かれる。最後まで反抗した斉は中原の中心地徐州周辺を領し中国文化の中心であった。敗者となり祖国を愁う心情は深く巷間に浸透していたのである。
始皇帝は全国統一の地盤固めのためその短い在位期間に5回も大規模の旅行をしている。第2回の山東半島巡幸の際、徐福という人が名乗りでた。この人物は方士で(道教の道に通じ科学的にも広い知識をもった僧に近い者)世の信望があり、斉王室の流れをくむ人物であった。徐福は滅んだ民族の繁栄を他の新天地に求めたのであろう、言葉巧みに始皇帝の泣き所を突いた話が今に伝わっている。道教の教義はある面で秦の国是でもあった。神仙の道に重きを置き練金術、不老不死の薬の開発が国家的プロジェクトの一つであった。健康に恵まれない始皇帝にはその願いが人一倍であったとされている。
「海を渡る東の国に蓬莱・方丈・瀛州の三聖山に不老不死の薬があると聞いています、私が行きその聖薬を皇帝に献じたいと思います、船と若い優秀な人材をお遣わし下さい」
始皇帝はこれを信じ巨額の費用を与え、その計画を実行に移すように命じたのである。徐福はその後何度も海にでたが薬が有る聖山の国には達せず、
「島は解ったのですが鮫が多くて近寄れません、弓術に巧みな武人と若者3000人お貸しください。」
と更なる厚い支援を願い出たのである。始皇帝5回目の巡幸の時で、帝は山東半島から徐福一向の船出を見送った。都の威陽への帰路の途中に世界史上比を見ない太く短い51歳の生涯を終わるのである。
蓬莱山は日本の富士山と言われている。日本各地に徐福伝説があり、その処所は20を越えるという。遠くは秋田県男鹿市、八丈島にも流れついたらしい。佐賀県有明海沿岸、熊野地方の二つがこの伝説流布の中心地である。
◆◆電子書籍を出版致しております。◆◆
↓
「木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について」(100円)
(この書名をクリックされますと、詳細ページへとジャンプします。)
内容はこちらでも掲載していました「木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について」に若干の訂正を加えたものです。
ブログ・ホームページよりも読みやすいかと思いますので、まずは詳細ページの「試し読みページ」からご一読いただけましたら幸いです。
よろしくお願い致します。
◆本館「神代の案内人」ホームページはこちらです
『其会同座起、父子男女無別 人性咾酒。見大人所敬。 担博手以冨跪邦拝。』
会合で座席や起居の順序に父子や男女の区別をしない、人々はよく酒を飲み交わす、大人集団の長へ敬意の表し方はただ手を合わせ拍手するだけで,跪いて深く拝礼することはしない。と記している。
その反面、行をおいて後の部分に『下戸與大人相逢道路、逡巡入草, 傳辞説事、或噂或跪、両手據地,為之恭敬、対応声日噫、比如然諾』下戸が道で大人に出会うと、後ずさりして決して背を向けず道端の草の中に入る、話をする時は深く膝をつき腰を曲げて、両手を地につけて恭敬の意を表しながら噫と返事をして承諾の意を伝える、とある。前の記述からは邪馬台国は非常に民主的で人々には自由平等の気運に溢れているような感じをうける。しかし後の部分は全くその逆で封建制度そのもの,大名が賎民を扱う如き振る舞いである。この落差は何であろうか。
私は既に征服者と服従者の関係が邪馬台国にあつたのでないかと思っている。人口が極めて少ない太古、部族の主権域は重ならす大きな衝突はなかったと私は考えたい。しかし九州は人口が増加して其の域を脱していたにであろうか、そのように考えると魏志倭人伝に記された邪馬台国周辺の国の人口はその当時としては多すぎるとの印象をうける。先住民族間で主権、又は生活習慣の異なる集団の行動範囲が増大してぶつかったのか、先住民族に他の部族が横から入ってきて衝突が起きたのか、世界中の歴史によく見るケ-スである。
中国で古くから徐福伝説と呼ばれ今に残っている話がある。近年中国では史学が飛躍的発展して徐福の研究にも及び、その伝説が史実であったと学会全般の潮流となっている。
紀元300年秦の始皇帝の中国統一により勝者と敗者がはっきり分かれる。最後まで反抗した斉は中原の中心地徐州周辺を領し中国文化の中心であった。敗者となり祖国を愁う心情は深く巷間に浸透していたのである。
始皇帝は全国統一の地盤固めのためその短い在位期間に5回も大規模の旅行をしている。第2回の山東半島巡幸の際、徐福という人が名乗りでた。この人物は方士で(道教の道に通じ科学的にも広い知識をもった僧に近い者)世の信望があり、斉王室の流れをくむ人物であった。徐福は滅んだ民族の繁栄を他の新天地に求めたのであろう、言葉巧みに始皇帝の泣き所を突いた話が今に伝わっている。道教の教義はある面で秦の国是でもあった。神仙の道に重きを置き練金術、不老不死の薬の開発が国家的プロジェクトの一つであった。健康に恵まれない始皇帝にはその願いが人一倍であったとされている。
「海を渡る東の国に蓬莱・方丈・瀛州の三聖山に不老不死の薬があると聞いています、私が行きその聖薬を皇帝に献じたいと思います、船と若い優秀な人材をお遣わし下さい」
始皇帝はこれを信じ巨額の費用を与え、その計画を実行に移すように命じたのである。徐福はその後何度も海にでたが薬が有る聖山の国には達せず、
「島は解ったのですが鮫が多くて近寄れません、弓術に巧みな武人と若者3000人お貸しください。」
と更なる厚い支援を願い出たのである。始皇帝5回目の巡幸の時で、帝は山東半島から徐福一向の船出を見送った。都の威陽への帰路の途中に世界史上比を見ない太く短い51歳の生涯を終わるのである。
蓬莱山は日本の富士山と言われている。日本各地に徐福伝説があり、その処所は20を越えるという。遠くは秋田県男鹿市、八丈島にも流れついたらしい。佐賀県有明海沿岸、熊野地方の二つがこの伝説流布の中心地である。
◆◆電子書籍を出版致しております。◆◆
↓
「木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について」(100円)
(この書名をクリックされますと、詳細ページへとジャンプします。)
内容はこちらでも掲載していました「木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について」に若干の訂正を加えたものです。
ブログ・ホームページよりも読みやすいかと思いますので、まずは詳細ページの「試し読みページ」からご一読いただけましたら幸いです。
よろしくお願い致します。
◆本館「神代の案内人」ホームページはこちらです