十月十二日に入鹿は大決心をする。予てから何かと蘇我氏の政策に対し異論を掲げ、批判の態度の傾向がある聖徳太子の上宮山背一族の弾圧を始めたのである。それは入鹿の一存で山背大兄王と言われているその大兄を取り下げたのである。大兄とは皇太子を意味し次の天皇になる権利の所持者を指す。入鹿は山背大兄を廃し、舒明天皇の皇子古人皇子を皇太子とした。山背大兄は前述した如く大乗仏教えの深い信奉者であった。己を捨て貧困で苦しむ者を救う。大民(おおたみ)に人気が絶大であった事は当然である。入鹿はこれに危機感を抱き今の内に何とかせねば蘇我氏の存亡に関わると考えた結果と思う。十一月一日、入鹿は小徳巨勢(こせ)徳(とく)太(ため)臣・大仁土師娑婆連を寄せ手の大将として斑鳩にある上宮山背館を襲わせた。この事の次第は既に文頭で述べている。「蘇我大臣蝦夷、山背大兄王ら、総て入鹿に滅ぼさると聞きて、怒り罵りて曰はく『嗚呼、入鹿、甚だ愚かにして専行(たくめ)暴悪(あしきわざ)す。汝が身命、又、危からずや』と言う」。と書紀は述べている。入鹿は次に気がかりな中臣連の懐柔策に乗り出したのであろう、中臣鎌子連を神秖伯に任じると令を下した。鎌子は再三これを辞退し、病気だとして、大阪三島にある別荘に閉じこもり出てこない。
中臣鎌子には強い意志があった。蘇我氏は蝦夷に至りその最期は過ぎている。それ故に最大の対抗勢力上宮家を滅ぼし自族の安泰を謀った。何れ中臣氏に何かの働きがある。その予防策として鎌子は皇統の有力皇子との親交を試みていた。軽皇子がその目標であった。しかし軽皇子は脚の障害にて参内が殆ど出来ない状態であった。鎌子は軽皇子の宮で直接に皇子の身の回りの世話を申し出で、万が一の変事には自ら盾となり皇子の身を護る意志を示した。軽皇子は鎌子が意志が強く、云いだした事は必ず実行に移す行動派であることを良く知っていた。阿部氏出仕の妃小足媛に命じて別棟に鎌子の居宅を造って寝所も整え、皇子の傍で身の回りの心配をせずとも良いとした。鎌子は皇子の自分に並々ならぬ気配りをしている事を知り大変に感激・恐縮し皇子の舎人を通じて鎌子の感謝の気持を皇子に伝えた。「左様な恩恵を賜いて身に余る光栄です。至徳であられる皇子を誰が一体(いったい)陏(さまた)げることが出来ましょうか」。軽皇子は大変に喜んだと云う。鎌子は蘇我蝦夷・入鹿の専横を憎む一方、上宮一族が無き今、次の主動権を密かに狙っていた。
(この章 了)
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中臣鎌子には強い意志があった。蘇我氏は蝦夷に至りその最期は過ぎている。それ故に最大の対抗勢力上宮家を滅ぼし自族の安泰を謀った。何れ中臣氏に何かの働きがある。その予防策として鎌子は皇統の有力皇子との親交を試みていた。軽皇子がその目標であった。しかし軽皇子は脚の障害にて参内が殆ど出来ない状態であった。鎌子は軽皇子の宮で直接に皇子の身の回りの世話を申し出で、万が一の変事には自ら盾となり皇子の身を護る意志を示した。軽皇子は鎌子が意志が強く、云いだした事は必ず実行に移す行動派であることを良く知っていた。阿部氏出仕の妃小足媛に命じて別棟に鎌子の居宅を造って寝所も整え、皇子の傍で身の回りの心配をせずとも良いとした。鎌子は皇子の自分に並々ならぬ気配りをしている事を知り大変に感激・恐縮し皇子の舎人を通じて鎌子の感謝の気持を皇子に伝えた。「左様な恩恵を賜いて身に余る光栄です。至徳であられる皇子を誰が一体(いったい)陏(さまた)げることが出来ましょうか」。軽皇子は大変に喜んだと云う。鎌子は蘇我蝦夷・入鹿の専横を憎む一方、上宮一族が無き今、次の主動権を密かに狙っていた。
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