万葉集は舒明天皇御代の631年頃から始まり淳仁天皇の御代の759年までの歌を選出したもので、歌集として世に出たのが800年、その後古今和歌集が編纂されたのが約100年後の延喜のころである。万葉集はやや直截的だと前述したが、紹介した歌から同じように感じられた向きもあると思う。
これに対し古今和歌集は技巧に凝りすぎる。耳、目には甘美に響くが、その訴えが体の深くに共鳴するほどではない。
ただし、これは私の感想で、また個々の歌には持ち味もあり評価も異なるだろう。
寺社建築には細部意匠が付き物である。内部の基本構造に変りなくても、外観を競い、年を経るに従い繊細の度が加わってくる。軒回り、二手先、三手先の斗栱、木鼻、破風、高欄、更には金具までにこれが及ぶ。日常生活に密着した調度品にしても、付加価値を高める努力を惜しまない。着る物の意匠に至ってはその最たるものであろう。和歌の世界においても同じであった。
半島をめぐる外国との軋轢はあっても、国内は概ね太平であった。歌を詠むことにより、上層人の感性が測られる。地位と名誉にかけて人々は日々、歌の一文字一文字の表現技法に精魂を傾けたのであろう。そのためか古今和歌集には華美の歌が多い。人の直の言葉-苦しい、悲しい、恋しい、会いたい-が歌に出て来ることが、万葉に比べ少ない。直の言葉を表に出すことは技考の不足と考えたのであろう。
それにより人の本能は変わらなくても、言葉の表現は確実に熟達がみられ、日本語の難しさ、微妙さが深まり、今の世にも受け継がれてきた。考えの落とし所が飛躍過ぎると思わなくはないが、これが昨今の日本外交のめりはりのない振る舞いにも、現れているのでないかと思うのである。
万葉徒然想など少し凝った名前をつけ、やや持て余し気味である。そこはかとなく書くには万葉の世界へのアンテナは少なすぎる。まして門外漢の筆者は古事記・日本書紀の周辺を、何かないかとうろつくしかない。万葉の時代を代表する天皇は雄略天皇の他、推古・天智・天武天皇がいる。前述した雄略天皇はよくも悪くも話題の多い天皇であった。以下、 年を追い、幹に出来る限りの枝葉をつけ、そこはかにその時代を拡大してみよう。
雄略天皇の年紀に関しては、一代前の石上穴穂天皇(安康天皇)から述べる必要がある。穴穂天皇は允恭天皇の第二子であった。第一子は木梨軽皇子であったが、謀略によるものか、自らを律せぬ不徳によるか、穴穂に追われ無残な最後を遂げる。皇位を継いだ穴穂天皇と稚武皇子は仲が良かったらしい、稚武皇子は伯父の反正天皇の娘たちを妻にしようと、穴穂に仲立ちを頼んだ。稚武皇子は気が荒く、男だろうと女だろうとかまわず粗暴な振る舞いをすることで恐れられていた。
『君王、恒に暴(あら)く強(こは)しく、怒り起こりたまひ、朝に見ゆる者は夕に殺され、夕に見ゆる者は朝に殺され・・・』
「私たちの容姿は取り立てて言うところはありません。また気も利かず、立ち居に品が有りません。皇子は気性が鋭いので、一寸の事で気に食わなければ、何をされるかわかりません。お側に住むなど、とんでもないことで・・・」と何処かに隠れてしまう。穴穂は次に、大草香皇子の妹、幡梭皇女を稚武の妃にと話を持ちかける。坂本臣の祖である根使主をその使いとして『願わくは幡梭皇女を得て、大泊瀬皇子に配(あは)せむ』と命じたのである。兄の大草香皇子は病弱の身であった。
「私はそう長いとは思いません。死ぬのは何とも思いませんが、妹の幡梭を一人残してまかるのが気懸かりです。今、君が至らぬ妹を多くの姫君たちより選ばれ、稚武君にとのお達しは、身に余ることでございます。何でお断り出来ましょうか。私のこの喜びの標として、大切な宝としている押木珠縵(おしきのたまかづら)を捧じたいと思います。たいした物ではありませんので、御気に召さぬと思いますが、なにとぞお収めくだされ。宜しくお願い致します」
押木珠縵は大変に美しく見事な冠であった。使いの根使主はその宝を見て欲しくなり、天皇に偽りの復命をしたのである。「大草香皇子は承諾しません。『血のつながった一族でありますが、私の大切な妹を、あのような人の道に欠ける男には差し上げられません』と申しました」そして根使主はその縵については隠して何もいわず、自分の物にしてしまったのである。
穴穂天皇(安康)はその大嘘に全く気が付かず、烈火のごとく怒り、兵を繰り出して大草香皇子の家を囲み、殺してしまうのである。
難波吉師日香蚊父子は大草香皇子の側近であった。父は頭を抱き、二人の子は皇子の足に身を添え『我が君、罪無くして死に給ふこと悲しきかな、我父子三人生きまし時に事(つか)へまつり、死にます時に殉(したが)ひまつらはずば、是、臣にあらず』と言い、三人とも首を自ら刎ねて折り重なって死んだのである。「軍衆悉くに流涕(かなし)ぶ」と紀は記している。
穴穂天皇は事もあろうに、自分が殺した大草香皇子の妻の中帯姫を宮中に召して妃とし、後に皇位に就くや皇后とする。また命令どおり幡梭皇女を稚武皇子の妻に配したのである。中帯姫には大草香皇子との間に眉輪王という児が居た。殺されかかったが、中帯姫の切なる嘆願もあり、罪を免じられ宮中で一緒に住むことになった。これが大事件の発端になったのである。
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「木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について」(100円)
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内容はこちらでも掲載していました「木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について」に若干の訂正を加えたものです。
ブログ・ホームページよりも読みやすいかと思いますので、まずは詳細ページの「試し読みページ」からご一読いただけましたら幸いです。
よろしくお願い致します。
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これに対し古今和歌集は技巧に凝りすぎる。耳、目には甘美に響くが、その訴えが体の深くに共鳴するほどではない。
ただし、これは私の感想で、また個々の歌には持ち味もあり評価も異なるだろう。
寺社建築には細部意匠が付き物である。内部の基本構造に変りなくても、外観を競い、年を経るに従い繊細の度が加わってくる。軒回り、二手先、三手先の斗栱、木鼻、破風、高欄、更には金具までにこれが及ぶ。日常生活に密着した調度品にしても、付加価値を高める努力を惜しまない。着る物の意匠に至ってはその最たるものであろう。和歌の世界においても同じであった。
半島をめぐる外国との軋轢はあっても、国内は概ね太平であった。歌を詠むことにより、上層人の感性が測られる。地位と名誉にかけて人々は日々、歌の一文字一文字の表現技法に精魂を傾けたのであろう。そのためか古今和歌集には華美の歌が多い。人の直の言葉-苦しい、悲しい、恋しい、会いたい-が歌に出て来ることが、万葉に比べ少ない。直の言葉を表に出すことは技考の不足と考えたのであろう。
それにより人の本能は変わらなくても、言葉の表現は確実に熟達がみられ、日本語の難しさ、微妙さが深まり、今の世にも受け継がれてきた。考えの落とし所が飛躍過ぎると思わなくはないが、これが昨今の日本外交のめりはりのない振る舞いにも、現れているのでないかと思うのである。
万葉徒然想など少し凝った名前をつけ、やや持て余し気味である。そこはかとなく書くには万葉の世界へのアンテナは少なすぎる。まして門外漢の筆者は古事記・日本書紀の周辺を、何かないかとうろつくしかない。万葉の時代を代表する天皇は雄略天皇の他、推古・天智・天武天皇がいる。前述した雄略天皇はよくも悪くも話題の多い天皇であった。以下、 年を追い、幹に出来る限りの枝葉をつけ、そこはかにその時代を拡大してみよう。
雄略天皇の年紀に関しては、一代前の石上穴穂天皇(安康天皇)から述べる必要がある。穴穂天皇は允恭天皇の第二子であった。第一子は木梨軽皇子であったが、謀略によるものか、自らを律せぬ不徳によるか、穴穂に追われ無残な最後を遂げる。皇位を継いだ穴穂天皇と稚武皇子は仲が良かったらしい、稚武皇子は伯父の反正天皇の娘たちを妻にしようと、穴穂に仲立ちを頼んだ。稚武皇子は気が荒く、男だろうと女だろうとかまわず粗暴な振る舞いをすることで恐れられていた。
『君王、恒に暴(あら)く強(こは)しく、怒り起こりたまひ、朝に見ゆる者は夕に殺され、夕に見ゆる者は朝に殺され・・・』
「私たちの容姿は取り立てて言うところはありません。また気も利かず、立ち居に品が有りません。皇子は気性が鋭いので、一寸の事で気に食わなければ、何をされるかわかりません。お側に住むなど、とんでもないことで・・・」と何処かに隠れてしまう。穴穂は次に、大草香皇子の妹、幡梭皇女を稚武の妃にと話を持ちかける。坂本臣の祖である根使主をその使いとして『願わくは幡梭皇女を得て、大泊瀬皇子に配(あは)せむ』と命じたのである。兄の大草香皇子は病弱の身であった。
「私はそう長いとは思いません。死ぬのは何とも思いませんが、妹の幡梭を一人残してまかるのが気懸かりです。今、君が至らぬ妹を多くの姫君たちより選ばれ、稚武君にとのお達しは、身に余ることでございます。何でお断り出来ましょうか。私のこの喜びの標として、大切な宝としている押木珠縵(おしきのたまかづら)を捧じたいと思います。たいした物ではありませんので、御気に召さぬと思いますが、なにとぞお収めくだされ。宜しくお願い致します」
押木珠縵は大変に美しく見事な冠であった。使いの根使主はその宝を見て欲しくなり、天皇に偽りの復命をしたのである。「大草香皇子は承諾しません。『血のつながった一族でありますが、私の大切な妹を、あのような人の道に欠ける男には差し上げられません』と申しました」そして根使主はその縵については隠して何もいわず、自分の物にしてしまったのである。
穴穂天皇(安康)はその大嘘に全く気が付かず、烈火のごとく怒り、兵を繰り出して大草香皇子の家を囲み、殺してしまうのである。
難波吉師日香蚊父子は大草香皇子の側近であった。父は頭を抱き、二人の子は皇子の足に身を添え『我が君、罪無くして死に給ふこと悲しきかな、我父子三人生きまし時に事(つか)へまつり、死にます時に殉(したが)ひまつらはずば、是、臣にあらず』と言い、三人とも首を自ら刎ねて折り重なって死んだのである。「軍衆悉くに流涕(かなし)ぶ」と紀は記している。
穴穂天皇は事もあろうに、自分が殺した大草香皇子の妻の中帯姫を宮中に召して妃とし、後に皇位に就くや皇后とする。また命令どおり幡梭皇女を稚武皇子の妻に配したのである。中帯姫には大草香皇子との間に眉輪王という児が居た。殺されかかったが、中帯姫の切なる嘆願もあり、罪を免じられ宮中で一緒に住むことになった。これが大事件の発端になったのである。
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内容はこちらでも掲載していました「木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について」に若干の訂正を加えたものです。
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