5世紀は中国では南北朝の時代であった。南の呉は一般的に宋といわれている。北は北魏、その都は平城(大同)で今の山西省にあった。北魏は東の高句麗や新羅・百済と接していたが何かと不穏な空気が流れていて、それが大和朝廷の加羅、任那の統治運営をも不安にしていた。5世紀に倭の5王が70年の間、断続的に南朝の呉に朝貢した事が宋書に明記されていて、日本書紀にもその事が記録されている。地理的には北の魏が近いのだが、この王朝は北方の異民族で、大多数の漢民族を従えていた.呉朝は漢民族で豊かな地を持ち、文化の香りがする国であり、大和朝廷は将来摩擦の起こりそうな魏を牽制する意をも込めて、南の呉に物心の応援を望んでいたのであろう。呉からも、返礼の使者が来た。
『14年の春正月、身狭村主青等、呉国の使と共に、呉の献(たてまつ)れる手末(たなすえ)の才伎(てひと)、漢織・呉織及び衣縫の兄媛・弟媛等を将て、住吉津に泊る。是の月に、呉の客の道を作りて、磯歯津道に通す、呉坂と名く。三月に臣・連に命せて呉の使を迎ふ、即ち、呉人を檜隈野(奈良県高市市)に安置らしむ、因りて呉原と名づく』
と大変な気の使いようである。夏4月、天皇は呉人を歓迎の宴を開くことを決めた。その接待役の長は誰が良いか諸臣に聞いてみると、多くの人が根使主こそ最適と名を挙げ、石上の高抜原で根使主は接待の主役を任される。天皇は密かに舎人を遣わしその様子を報告させる。
「根使主は立派に応対していました、頭につけていた珠縵は大変見事で引き立っていました」
と報告する。別の係りの者も
「この前の宴の時も髪に付けていました」
と言うので、天皇はどの様な珠縵か見たく思い、根使主に同じ服装で参内するように命令する。
根使主は参内し天皇の前に畏まる。すると側にいた皇后が急に天井を向いて嘆き、顔をくしゃくしゃにして泣き出したのである。
「皇后は何で其のように泣き叫ぶのか」
と天皇の問いに対し、皇后はつつっと高座を下りで、下座の床に額を擦り付けるように深く平伏して、
『この珠縵は、昔妾の兄大草香皇子の穴穂天皇の勅を奉(うけたまは)りて、妾を陛下に進(たてまつ)りし時に、妾の為に献(たてまつ)れる物なり。故、疑を根使主に致して、不覚に涙垂りて哀泣(いさ)ちらる』と申しあげた。天皇は是を聞いて大変に驚き、強く根使主に問い質す。
「大変な事を致しました。私の大罪で御座います。お詫びのしようがございません」
天皇は「根使主の身柄は群臣に預ける。逃がすでないぞ」と命じ、まさに斬り殺そうとする。根使主は逃げ隠れて日根(和泉国)に至り城を作って立てこもるが、攻められて殺されるのである。
稚武天皇はその生涯のあいだ数限りなく殺生を繰り返し、その害は遠く百済・新羅にもおよんだ。しかし年と共に仏心、いや仏教は未だ公的には存在しないので、万物の神の怒りを恐れ、下草の怨嗟も肌に感じ始めたのでないか。加齢とともにその行動は静かなものへ変化がみられる。万葉集第8巻の巻頭に大泊瀬稚武天皇の一首が載っている。
夕されば 小椋の山に 鳴く鹿の 今夜(こよひ)は鳴かず 寝ねにけらしも
静かな平凡な歌である。一代の暴君も歳には勝てず、ほどなくこの世を去る。その歳、124歳と古事記は伝えている。まともにとれば、この数字は到底受け入れられるものではない。この他神武天皇が127歳、綏靖天皇が84歳など 21代のこの雄略天皇頃まで突飛な数字が飛び出し、どう受け止めればよいか戸惑う。第11代の垂仁天皇は実に152歳との記述である。現今の歴史感覚からすれば、これ以上の不信の元となる要素はない。これから不信の輪が広がり、多岐にわたる点で日本書紀、古事記の不合理が指摘された。戦後はこれが加速されて、歴史教育から古代史のすべてを自ら廃棄するという、自虐的考えが本流となっているのである。この点につき私見を述べ本稿を終わりたいと思う。
超古代文書の秀真伝の第一紋に、
『昔の人は年に2回しか食事を摂らなかった。それが月に3回も摂るようになり、人の年齢は100万年になってしまった。月の6回になり20万年、今では日に一回食べるので、たったの二万年しか生きられない。人は食べれば食べる程歳が短くなるのだ。其のため天照大神は月に3回しか食事をお摂りにならない。苦きアホナを食べ、南向きの部屋で朝の太陽の気をうけて、十分に息を吸う。これが長寿の源なのです』
とある。大自然の中、すべての物が生を受けて共存している。岩とても命を持って、生きていると考えなければならぬ。食を摂るという事は他の生物の命を奪うことなのだ、との考え方が基にある。長寿であることは他の生物に慈しみを持っているということである。長寿であればあるほど、神は偉大であるとの認識である。邇邇芸之命が500歳、竹内宿禰が300歳と聞いても否定してはいけない。それは現代において没後に贈られる勲位と同じ意味で、年齢の事ではないのである。人皇神武天皇以後の年齢については、この思想を基盤とし積み足した年齢で、干支が乱れぬよう60年を加算した。即ち、神武は67歳,崇神天皇は66歳、早世と考えられている開化天皇は51歳となる。
超古代の史筆は単なる備忘録であった。春、夏、秋、冬,何月の何日迄の記録はあるが、その年となると、とんでもない数字が飛び出してくる。その数字を何と考えるか、現代の感覚でなく、超古代の人となって考えるのが、真に洞察力の鋭い有識者と考えるべきだと思うのだ。天の下の総ての国が間近く交流し、それぞれの保持して来た歴史的文典その他が、後世には地球全体の共有する知識になり、世界的観点から勘案するなど、思いもしない事だった。大泊瀬稚武天皇は124の半分62歳前後の死去であろう。当時としてはかなりの歳であったと考える。
約40年ほど前まで、神社の奉納金に「金壱萬円」とあれば千円であり、清酒一斗とあれば一升瓶一本だと子供でも知っていた。風習は神代の昔からつい先頃まで続いていたのである。情報公開を正論とは思わなくもないが、人の心が狭量になり神社の会計でもそのような心の余裕がなくなってしまった。
万葉集、古今和歌集、日本書紀の雄略紀の周辺をぐるぐる回っただけで、万葉徒然想などと面映い限りであるが、冗漫はまた忌み嫌うところである。思うところを述べ過ぎたやもしれぬ。ご批判は覚悟の上である。<了>
<管理人より>
長らく閲覧をいただきまして厚く御礼を申し上げます。私事になりますが高齢になりまして、近頃体調が勝れません。暫くお休みを頂き、体調が戻り次第再び掲載を続ける心算です。宜しくお願い致します。 船越 長遠 平成26年3月26日
参考にした本
真 日本古典文学体系 万葉集 佐竹照広ら 岩波書店
新訓 万葉集 上 下巻 佐々木信綱編 岩波書店
古今和歌集 滝沢貞夫編 学誠社
日本書紀 上 塚本太郎ら 岩波書店
完訳 秀眞伝 上巻 鳥居礼 八幡書店
古事記 西宮一民 新潮社
◆◆電子書籍を出版致しております。◆◆
↓
「木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について」(100円)
(この書名をクリックされますと、詳細ページへとジャンプします。)
内容はこちらでも掲載していました「木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について」に若干の訂正を加えたものです。
ブログ・ホームページよりも読みやすいかと思いますので、まずは詳細ページの「試し読みページ」からご一読いただけましたら幸いです。
よろしくお願い致します。
◆本館「神代の案内人」ホームページはこちらです
『14年の春正月、身狭村主青等、呉国の使と共に、呉の献(たてまつ)れる手末(たなすえ)の才伎(てひと)、漢織・呉織及び衣縫の兄媛・弟媛等を将て、住吉津に泊る。是の月に、呉の客の道を作りて、磯歯津道に通す、呉坂と名く。三月に臣・連に命せて呉の使を迎ふ、即ち、呉人を檜隈野(奈良県高市市)に安置らしむ、因りて呉原と名づく』
と大変な気の使いようである。夏4月、天皇は呉人を歓迎の宴を開くことを決めた。その接待役の長は誰が良いか諸臣に聞いてみると、多くの人が根使主こそ最適と名を挙げ、石上の高抜原で根使主は接待の主役を任される。天皇は密かに舎人を遣わしその様子を報告させる。
「根使主は立派に応対していました、頭につけていた珠縵は大変見事で引き立っていました」
と報告する。別の係りの者も
「この前の宴の時も髪に付けていました」
と言うので、天皇はどの様な珠縵か見たく思い、根使主に同じ服装で参内するように命令する。
根使主は参内し天皇の前に畏まる。すると側にいた皇后が急に天井を向いて嘆き、顔をくしゃくしゃにして泣き出したのである。
「皇后は何で其のように泣き叫ぶのか」
と天皇の問いに対し、皇后はつつっと高座を下りで、下座の床に額を擦り付けるように深く平伏して、
『この珠縵は、昔妾の兄大草香皇子の穴穂天皇の勅を奉(うけたまは)りて、妾を陛下に進(たてまつ)りし時に、妾の為に献(たてまつ)れる物なり。故、疑を根使主に致して、不覚に涙垂りて哀泣(いさ)ちらる』と申しあげた。天皇は是を聞いて大変に驚き、強く根使主に問い質す。
「大変な事を致しました。私の大罪で御座います。お詫びのしようがございません」
天皇は「根使主の身柄は群臣に預ける。逃がすでないぞ」と命じ、まさに斬り殺そうとする。根使主は逃げ隠れて日根(和泉国)に至り城を作って立てこもるが、攻められて殺されるのである。
稚武天皇はその生涯のあいだ数限りなく殺生を繰り返し、その害は遠く百済・新羅にもおよんだ。しかし年と共に仏心、いや仏教は未だ公的には存在しないので、万物の神の怒りを恐れ、下草の怨嗟も肌に感じ始めたのでないか。加齢とともにその行動は静かなものへ変化がみられる。万葉集第8巻の巻頭に大泊瀬稚武天皇の一首が載っている。
夕されば 小椋の山に 鳴く鹿の 今夜(こよひ)は鳴かず 寝ねにけらしも
静かな平凡な歌である。一代の暴君も歳には勝てず、ほどなくこの世を去る。その歳、124歳と古事記は伝えている。まともにとれば、この数字は到底受け入れられるものではない。この他神武天皇が127歳、綏靖天皇が84歳など 21代のこの雄略天皇頃まで突飛な数字が飛び出し、どう受け止めればよいか戸惑う。第11代の垂仁天皇は実に152歳との記述である。現今の歴史感覚からすれば、これ以上の不信の元となる要素はない。これから不信の輪が広がり、多岐にわたる点で日本書紀、古事記の不合理が指摘された。戦後はこれが加速されて、歴史教育から古代史のすべてを自ら廃棄するという、自虐的考えが本流となっているのである。この点につき私見を述べ本稿を終わりたいと思う。
超古代文書の秀真伝の第一紋に、
『昔の人は年に2回しか食事を摂らなかった。それが月に3回も摂るようになり、人の年齢は100万年になってしまった。月の6回になり20万年、今では日に一回食べるので、たったの二万年しか生きられない。人は食べれば食べる程歳が短くなるのだ。其のため天照大神は月に3回しか食事をお摂りにならない。苦きアホナを食べ、南向きの部屋で朝の太陽の気をうけて、十分に息を吸う。これが長寿の源なのです』
とある。大自然の中、すべての物が生を受けて共存している。岩とても命を持って、生きていると考えなければならぬ。食を摂るという事は他の生物の命を奪うことなのだ、との考え方が基にある。長寿であることは他の生物に慈しみを持っているということである。長寿であればあるほど、神は偉大であるとの認識である。邇邇芸之命が500歳、竹内宿禰が300歳と聞いても否定してはいけない。それは現代において没後に贈られる勲位と同じ意味で、年齢の事ではないのである。人皇神武天皇以後の年齢については、この思想を基盤とし積み足した年齢で、干支が乱れぬよう60年を加算した。即ち、神武は67歳,崇神天皇は66歳、早世と考えられている開化天皇は51歳となる。
超古代の史筆は単なる備忘録であった。春、夏、秋、冬,何月の何日迄の記録はあるが、その年となると、とんでもない数字が飛び出してくる。その数字を何と考えるか、現代の感覚でなく、超古代の人となって考えるのが、真に洞察力の鋭い有識者と考えるべきだと思うのだ。天の下の総ての国が間近く交流し、それぞれの保持して来た歴史的文典その他が、後世には地球全体の共有する知識になり、世界的観点から勘案するなど、思いもしない事だった。大泊瀬稚武天皇は124の半分62歳前後の死去であろう。当時としてはかなりの歳であったと考える。
約40年ほど前まで、神社の奉納金に「金壱萬円」とあれば千円であり、清酒一斗とあれば一升瓶一本だと子供でも知っていた。風習は神代の昔からつい先頃まで続いていたのである。情報公開を正論とは思わなくもないが、人の心が狭量になり神社の会計でもそのような心の余裕がなくなってしまった。
万葉集、古今和歌集、日本書紀の雄略紀の周辺をぐるぐる回っただけで、万葉徒然想などと面映い限りであるが、冗漫はまた忌み嫌うところである。思うところを述べ過ぎたやもしれぬ。ご批判は覚悟の上である。<了>
<管理人より>
長らく閲覧をいただきまして厚く御礼を申し上げます。私事になりますが高齢になりまして、近頃体調が勝れません。暫くお休みを頂き、体調が戻り次第再び掲載を続ける心算です。宜しくお願い致します。 船越 長遠 平成26年3月26日
参考にした本
真 日本古典文学体系 万葉集 佐竹照広ら 岩波書店
新訓 万葉集 上 下巻 佐々木信綱編 岩波書店
古今和歌集 滝沢貞夫編 学誠社
日本書紀 上 塚本太郎ら 岩波書店
完訳 秀眞伝 上巻 鳥居礼 八幡書店
古事記 西宮一民 新潮社
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「木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について」(100円)
(この書名をクリックされますと、詳細ページへとジャンプします。)
内容はこちらでも掲載していました「木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について」に若干の訂正を加えたものです。
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よろしくお願い致します。
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