◆神代の案内人ブログ

…日本の古代史についてのブログです。…他の時代もたまに取り上げる予定です。

◆万葉徒然想(その6)

2014-02-26 19:12:39 | ◆万葉徒然想
 石川女郎女の歌
 みやびをと 我は聞けるを やど貸さず われを帰せり おそのみやびを
大伴宿弥田主は容姿美麗、風流卓越、見る人、聞く人、嘆息しないものは無かった。石川女郎女は夫婦になろうと思い、意中を手紙に書いたが、使いの者がいない。そこで年寄りの女に扮し、土鍋を下げて田主の家に行き戸を叩いて「東隣の舎女ですが、火を頂きたくて、伺いました」といった、田主はそれが美人の女郎女だと気が付かず、女を引き泊めて交わるなど毛筋も思わず、火を貸してすぐに帰らせてしまう。次の朝、女郎女は仲人なしで突飛な求婚をしたことが恥ずかしく、又、田主の無粋さが恨めしく、この歌を送ったのである。
その歌に対する田主の返し歌。
  みやびをに 我はありけり やど貸さず 帰しし我そ みやびをはにある
私は風流者です、あなたを泊めないで帰した私こそ、本当の風流者です。
持統天皇の雑歌の中の歌。
  否と言えど 強(し)ふる志斐(しひ)のが 強い語り この頃きかずて 朕(われ)恋ひにけり
いやと言っても志斐婆さんがする、しつっこい昔話でも、この頃きかないので、聞きたくなってきた。
すかさず志斐婆さんの返し歌
  否と言えど 語れ語れと 詔らせこそ 志斐には奏(まを)せ 強い語りと言う
志斐婆さんは若い時からのお付の女官であろう。ほほえましい和歌喧嘩である。
  憶良らは 今は罷らむ 子泣くらむ それその母も 我を待つらむ
なんの飾りもない胸にジーンとくる山上憶良の歌である。
大宰師大伴卿の酒を讃める歌十三首から三首。
  生るれば 遂には死ぬる ものにあれば この世なる間は 楽しくをあらな
  あな醜 賢(さか)しらをすと 酒飲まぬ 人をよく見ば 猿にかも似む
  もだ居りて 賢しらするは 酒のみて 酔ひ泣きするに なほしかずけり
大伴坂上郎女の歌 宴席での一首。
  山守の ありけるしらに その山に 標結ひたてて 結ひの恥しつ
大変親しい女性がいるのを知らないで、その人に恋文を書いてしまって、なんと大恥をかいたこと。
その返し歌。
  山守は けだし有りとも 我妹子が 結ひけむ標を 人解かめやも
恋している人はいますが、あなたの恋のしるしは大切にして、忘れません。
 古今和歌集には社寺に関する歌が一首もない。やっと万葉集に出てきた一首
  千早振る 神の社し なかりせば 春日の野辺に 粟蒔かましを
左近岩弥赤麻呂が娘にあてた恋文に対する返し歌で、神の社でなかったら粟を蒔いて鹿を呼び寄せるのですが(あなたが夫婦者でなかったら粟[逢う]いたいとは思いますが)、とやんわり断ったのである。神が出てきても神心の一片もない。
  来むと言うも 来ぬ時あるを 来じと言ふを 来むとは待たじ 来じと言ふものを 
「瓜売りが 瓜売りにきて 売れ残り 売り売りかえる 瓜売りの声」という昔覚えた歌が頭に一瞬にして、浮かんだ。
高田女王の三首。
  人言(ひとごと)を 繁み言痛(こちた)み 会はざりき 心有るごとな 思ひ我が背子
  わが背子し 遂げむと言はば 人言は 繁くありとも 出でて逢はましを
  この世には 人言繁し 来む世にも 逢はむ我が背子 今ならずとも
今も昔も人は他人の噂を面白がる、あまり噂が大きいので、この世でなくて、あの世にでゆっくり逢いましょう。終わりの一首はすさまじい。
神を中心にしている少ない歌の中に一首。
  思はぬを 思ふと言はば 大野なる 三笠の杜(もり)の 神し知らさむ
嘘で好きだと言っても、三笠の神はお見通しです、ネガティブの意味だと思っていたら、解説は「嘘ではありません、本当に好きです」の意味になっていた。
大伴旅人の一首。
  ぬばたまの 黒髪変わり 白けても 痛き恋には 会ふ時ありけり
女性の歌。
  汝をと我を 人ぞ離(さ)くなる いで我が君 人の中言(なかごと) 聞こすなゆめ
私とあなたの仲を裂こうとして、色々と中傷しているようですが、本当にしないで、お願いだから
華やかな坂上女郎女が老いて引きこもった時、ある天皇に献じた歌。
  あしひきの 山にし居れば みやびなみ 我(わ)がするわざを とがめたまふな

  瓜食(は)めば 子ども思ほゆ 粟食めば まして偲はゆ いづくより 来たりしものぞ まなかいに もとなかかりて 安眠しなさぬ
「まなかいにもとなかかりて」は目の前にちらついての意味。
返歌。
 銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに 優(まさ)れる宝 子にしかめやも 
4500首は人様々で、その首数の多さを堪能される方も居られるが、素人の私には膨大すぎる。このあたりで止めておきたい。その上、なんと恋歌が多いことかと思う。歌の題材として、あらゆる角度の見方があったはずである。名もなき下草の民が主体であったなら、なお率直で目が潤うような歌が数多く出てきたはずだ。奈良・平安期は長い平和の日々であった、と上層の人々には言えるであろう。男女の恋が人生苦の大半を占めていたのであろうか。




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