稚武天皇2年、百済の池津姫(天皇の乞いにより百済から来た高貴な女性の一人と考える)が天皇の召に応じず石川盾と通じてしまった。稚武は大変に怒り、二名の四肢を木(十字架)に張り高く組んだ木の中に押し込め、焼き殺してしまった。10月、吉野に狩に出かけると、朝から大猟で7、8頭の大物を仕留めた。林泉まできて狩の集団は一休みする。天皇は、
「獲った獲物を料理人に作らせるのと、自分で作るのと、どっちが美味いかのう、このわしが作ってみようか」
と言い群臣にきいて回る。皆が黙っていると天皇は怒り出し、側近くにいた大津馬飼に斬りつけ、狩の途中で吉野宮にさっさと帰ってしまった。 この話しが国中に広まり、なんと恐ろしい天皇であることよ、と皆が震え戦いた。皇后と皇太后は相談して、まず美形の采女をそばに侍らし酒をさかんに薦めて気を和ませ、その怒りの原因を聴き質す。
「皆は何と答えたら良いか困ったのですよ、これからは料理専門の係部を作りなさい。それが良いことです」
と諭し、天皇は皇后たちは良いことを言ってくれたと大変喜んだと言う。宍人部が出来たのはこれが始めてである。稚武天皇は人に相談しないで、自分のする事はすべて良いことだと決め、そのつど人を殺す。『大きく悪しきます天皇なりと人人はまうす。唯,愛寵(めぐ)みたまふ所は史部の身狭村主青と檜隈臣使博徳等のみなり』と日本書紀はあからさまに述べている。
3年夏の4月、阿閉臣国見と言う者が、盧城部連武彦が栲幡(たくはた)皇女(韓媛妃の子)を汚し、妊娠せしめたりと中傷した。
武彦の父は息子が大変なことをしたと大いに恥じ、息子を河に誘い水中で打ち殺してしまう。天皇はこの話しを聞き使いの者をして皇女を尋問する。
『皇女対えて申さく「妾はしらず」とまうす。俄かに皇女、神鏡をとり持ちて五十鈴河の上に詣でまして、人の往かぬ所を伺いて鏡を埋みて経(わな)き死ぬ。天皇、皇女の不在ましを疑ひ給ひて、恒に闇夜に東西に求覚(もと)めし給ふ。即,河上に虹の見ゆること蛇の如くして、4、5丈ばかりなり。虹の起これる所を掘りて神鏡を得、移行未遠にして皇女の屍を得たり。割きて観れば腹の中の物ありて水の如し、水中に石あり』
と記している。皇女は癌性腹膜炎であったのである。水とは腹水であり、昔は癌を岩と言ったので石は胃癌か子宮癌か。当時の感覚はこの様なものだったのかとは信じられないが、武彦の父は息子を疑ってこれを恥とし、早まって殺してしまったのである。自身を強く責める念は国見への復讐心と変わる。国見は恐れ戦き石上神社に逃げ込んだと言う。
この年の春、天皇は葛城山にて狩をしているとき、谷の向う側に自分と瓜二つの人が、同じように狩りをしているのを見た。これは人間ではない、神の化身であると怪しみ、「何処の何者ぞ」と問う。
「我は現人神(天皇の意)である、問うからには自分から名乗れ」
「朕は稚武ぞ」
「我は一言主の神である」(一言主は一言居士の意ではない、出雲系の神で大国主命の譜系に一言主の名がある)
その後二名は一匹の鹿を追って争うこともなく、日暮れまで遊んで互いに相手に対し礼儀を尽くし、仙人同士が会っているような振る舞いであった。この項は有名で、雄略天皇に関する講演でよく話される。しかし他の条項の記載と比べると、何か浮き立った感じがする。天皇の神仙思想への対応を讃える意図が窺える。
日本書紀の雄略紀を追ってきた。大変に長い記述なので全部を続ければ一冊の本になってしまう。区切りも必要であろう。奇をてらい好事的に書いているのではないか、そのようにとられる向きのあるやに思う。筆者にはその様な意図は全くない。雄略紀の前半は実にこの類の行為の連続であり、それを述べているのである。
古事記も同じである。
万葉集第一巻の一番初めの雄略天皇の歌『籠もよ み籠もち ふくしもよ みぶしく持ち・・・』を既に述べたが、これと非常に良く似た話が古事記にもある。天皇は遊行の途中三輪の川辺で布を洗う童女にあった。
『その容姿いと麗しくありき』
天皇はその童女に問うた。
『汝は誰が児ぞ』
童女は引田部の赤猪子と申します、と答える。
「おまえは嫁にいくな、この私が必ず召す」
幼い童女には荒々しくも凛とした若き天皇の言葉は、突然に現れた神の尊いお告げのように聞こえたであろう。赤猪子は待ちに待った、そして八十の老婆になった。
『命を望みつる間に既に多くの年を経たり、姿軆痩せ萎みてさらに持むところなし。しかれども待つ情を顕はしまさずば、いぶせきに忍びず』
と意を決して女からの結納品を供に持たせ、宮中に出向いたのである。天皇はすっかり忘れていた。
「どこぞの老女だ、何ゆえ来た」
「その年、その月の帝のお言葉を信じ辛抱して八十になりました。お忘れですか」
天皇は大変驚いてその心を愛しく思い、心中に婚(まぐ)はむと思うのだが、赤猪子が余りに年老いて見え、どうしてもその気になれない。
『婚を、えなしたまわむことを悼みて、御歌を賜ひき みもろの、厳日梼(いつかし)(白樫)の下日梼の下 ゆゆしきかも 日梼原(かしはら)童女』
みもろ山のしらかしの木は、美しいのだが、神々し過ぎてさわれない。赤猪子の涙ながらの返し歌。
日下江の 入り江の蓮(はちす)花蓮 身の盛り人 ともしろきかな(羨ましゅうございます)
天皇は『多くの録を赤猪子に給いて返し遣りき』とある。稚武天皇の粗暴の振る舞いを風聞で何度も聞いているはずである。しかし「必ず召す」の一言が、一生を台無しにした。余りにもひどすぎる。死を覚悟して赤猪子は抗議の手段に出たのでないかと私は感じている。
僅か7歳の眉輪王が安康天皇を暗殺する大事件が起こらなければ、稚武皇子は天皇になっていなかったであろう。この大事を又とないチャンスと受け止め、力ずくで押して皇位に登りつめた。大草香皇子の見事な押木珠縵に目がくらんで、坂本の根使主が横取りしたことがその源であった。NHK流に言えば、「その時歴史が動いた」のである。日本書紀にはその後の珠縵をめぐる事の顚末を 因果応報の例えを強調する如く、詳しく述べている。
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と言い群臣にきいて回る。皆が黙っていると天皇は怒り出し、側近くにいた大津馬飼に斬りつけ、狩の途中で吉野宮にさっさと帰ってしまった。 この話しが国中に広まり、なんと恐ろしい天皇であることよ、と皆が震え戦いた。皇后と皇太后は相談して、まず美形の采女をそばに侍らし酒をさかんに薦めて気を和ませ、その怒りの原因を聴き質す。
「皆は何と答えたら良いか困ったのですよ、これからは料理専門の係部を作りなさい。それが良いことです」
と諭し、天皇は皇后たちは良いことを言ってくれたと大変喜んだと言う。宍人部が出来たのはこれが始めてである。稚武天皇は人に相談しないで、自分のする事はすべて良いことだと決め、そのつど人を殺す。『大きく悪しきます天皇なりと人人はまうす。唯,愛寵(めぐ)みたまふ所は史部の身狭村主青と檜隈臣使博徳等のみなり』と日本書紀はあからさまに述べている。
3年夏の4月、阿閉臣国見と言う者が、盧城部連武彦が栲幡(たくはた)皇女(韓媛妃の子)を汚し、妊娠せしめたりと中傷した。
武彦の父は息子が大変なことをしたと大いに恥じ、息子を河に誘い水中で打ち殺してしまう。天皇はこの話しを聞き使いの者をして皇女を尋問する。
『皇女対えて申さく「妾はしらず」とまうす。俄かに皇女、神鏡をとり持ちて五十鈴河の上に詣でまして、人の往かぬ所を伺いて鏡を埋みて経(わな)き死ぬ。天皇、皇女の不在ましを疑ひ給ひて、恒に闇夜に東西に求覚(もと)めし給ふ。即,河上に虹の見ゆること蛇の如くして、4、5丈ばかりなり。虹の起これる所を掘りて神鏡を得、移行未遠にして皇女の屍を得たり。割きて観れば腹の中の物ありて水の如し、水中に石あり』
と記している。皇女は癌性腹膜炎であったのである。水とは腹水であり、昔は癌を岩と言ったので石は胃癌か子宮癌か。当時の感覚はこの様なものだったのかとは信じられないが、武彦の父は息子を疑ってこれを恥とし、早まって殺してしまったのである。自身を強く責める念は国見への復讐心と変わる。国見は恐れ戦き石上神社に逃げ込んだと言う。
この年の春、天皇は葛城山にて狩をしているとき、谷の向う側に自分と瓜二つの人が、同じように狩りをしているのを見た。これは人間ではない、神の化身であると怪しみ、「何処の何者ぞ」と問う。
「我は現人神(天皇の意)である、問うからには自分から名乗れ」
「朕は稚武ぞ」
「我は一言主の神である」(一言主は一言居士の意ではない、出雲系の神で大国主命の譜系に一言主の名がある)
その後二名は一匹の鹿を追って争うこともなく、日暮れまで遊んで互いに相手に対し礼儀を尽くし、仙人同士が会っているような振る舞いであった。この項は有名で、雄略天皇に関する講演でよく話される。しかし他の条項の記載と比べると、何か浮き立った感じがする。天皇の神仙思想への対応を讃える意図が窺える。
日本書紀の雄略紀を追ってきた。大変に長い記述なので全部を続ければ一冊の本になってしまう。区切りも必要であろう。奇をてらい好事的に書いているのではないか、そのようにとられる向きのあるやに思う。筆者にはその様な意図は全くない。雄略紀の前半は実にこの類の行為の連続であり、それを述べているのである。
古事記も同じである。
万葉集第一巻の一番初めの雄略天皇の歌『籠もよ み籠もち ふくしもよ みぶしく持ち・・・』を既に述べたが、これと非常に良く似た話が古事記にもある。天皇は遊行の途中三輪の川辺で布を洗う童女にあった。
『その容姿いと麗しくありき』
天皇はその童女に問うた。
『汝は誰が児ぞ』
童女は引田部の赤猪子と申します、と答える。
「おまえは嫁にいくな、この私が必ず召す」
幼い童女には荒々しくも凛とした若き天皇の言葉は、突然に現れた神の尊いお告げのように聞こえたであろう。赤猪子は待ちに待った、そして八十の老婆になった。
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と意を決して女からの結納品を供に持たせ、宮中に出向いたのである。天皇はすっかり忘れていた。
「どこぞの老女だ、何ゆえ来た」
「その年、その月の帝のお言葉を信じ辛抱して八十になりました。お忘れですか」
天皇は大変驚いてその心を愛しく思い、心中に婚(まぐ)はむと思うのだが、赤猪子が余りに年老いて見え、どうしてもその気になれない。
『婚を、えなしたまわむことを悼みて、御歌を賜ひき みもろの、厳日梼(いつかし)(白樫)の下日梼の下 ゆゆしきかも 日梼原(かしはら)童女』
みもろ山のしらかしの木は、美しいのだが、神々し過ぎてさわれない。赤猪子の涙ながらの返し歌。
日下江の 入り江の蓮(はちす)花蓮 身の盛り人 ともしろきかな(羨ましゅうございます)
天皇は『多くの録を赤猪子に給いて返し遣りき』とある。稚武天皇の粗暴の振る舞いを風聞で何度も聞いているはずである。しかし「必ず召す」の一言が、一生を台無しにした。余りにもひどすぎる。死を覚悟して赤猪子は抗議の手段に出たのでないかと私は感じている。
僅か7歳の眉輪王が安康天皇を暗殺する大事件が起こらなければ、稚武皇子は天皇になっていなかったであろう。この大事を又とないチャンスと受け止め、力ずくで押して皇位に登りつめた。大草香皇子の見事な押木珠縵に目がくらんで、坂本の根使主が横取りしたことがその源であった。NHK流に言えば、「その時歴史が動いた」のである。日本書紀にはその後の珠縵をめぐる事の顚末を 因果応報の例えを強調する如く、詳しく述べている。
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「木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について」(100円)
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内容はこちらでも掲載していました「木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について」に若干の訂正を加えたものです。
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