◆神代の案内人ブログ

…日本の古代史についてのブログです。…他の時代もたまに取り上げる予定です。

◆管理人より(2014.3.26~)◆

長らく閲覧を頂きまして厚く御礼を申し上げます。私事になりますが高齢になりまして、近頃体調が勝れません。
暫くお休みを頂き、体調が戻り次第再び掲載を続ける心算です。宜しくお願い致します。
                                      船越 長遠   平成26年3月26日       

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「蘇我太平記」第二章 葛城氏の滅亡と蘇我氏の栄光

2011-04-23 14:49:46 | ◆蘇我太平記
 我が家は蒲田の町工場であった。昭和二十年焼夷弾の雨により、一帯は壊滅、体一で千葉の四街道と成田の中間地点に位置する志津という処に疎開した事がある。財産を皆無にし、唯一つ残った志津の山林を食料確保のため約1200坪を開墾した。その中心は17才の私であった。私が使う鍬はトウグワ(多分唐鍬)一丁である。未だ少年期で小柄な私が如何に掘っても二十センチ程しか鍬が入らない。太い松の根に刃先がまともに当たると跳ね返されて、手頸を挫きかねない。開墾は遅々として進まなかった。その土地は佐倉藩士が明治の廃藩置県の際に、殿様から所謂退職金替わりに拝領した土地で、代替わりを繰り返し当時我が家の所有になっていた。又、軍の飛行場建設のため八街から移住させられた農家もあり、二町歩(約6000坪)が開墾され、見事な畑が広がっていた。その農家にU字型の鍬が有ったのだ。
その鍬の威力を一度見たことがある。力も違うが振りおろすと五十センチ程土がいとも簡単に切り崩される。五センチもある木の根ッ子が大根でも切る様に一緒に飛び散るのだ。その鍬はその農家にとっても大切なものであったと思う。素人の私には使いこなせないと思ったのであろう、貸してやろうとも云わなかったし、自分から申し出ることなど、もっての外の事だった。トンビ鍬といっていた。ホテルのテーブルのバター皿に先が広い匙がついて来るが、その形によく似ている。遠い昔の事であるが大きさは普通の鍬の倍近くあり、鍬の内側が銀光していたのを忘れない。志津はその当時村であったが2-3年して佐倉市に合併された。10年程志津にいたが両親の死去と共に今の多摩地区に居を移した。その間、現地の農家の人たちには大変に世話になった。年のせいか当時の事を間々思い出す。
話が本筋から離れてしまった。葛城氏は大豪族であったが軍事的にでなく、経済面・政治面にである。これは高皇産霊皇統の人には決して喜ばしい事ではない。まして若い不遇な皇子達には鬱憤の晴らし処であった。よく時代劇に出てくる旗本の二男・三男の御家人ならず者集団を連想する。二十代安康天皇や二十一代雄略天皇、その名を挙げるのに勇気がいるが、その類でなかったか、そんな推理が時々頭をかすめる。安康天皇は穴穂天皇とも云う。第三子であり皇太子となって次の天皇になるには遠い血筋であった。允恭二十三年三月、天皇は第一皇子木梨軽皇子を立てて皇太子とした。軽皇子は容姿佳麗で皇子を見る人は皆目を見張り、自ら褒めずにいられない程であった。実の妹軽大娘皇女も又艶妙であった。軽皇子は実の妹に恋心を抱き、罪となる抱きしめたい気持ちを抑えていた。しかし恋する心は強まる一方で、狂い死にするほど無為の日々が続き、我慢が尽き果て、遂に軽皇女と密通する間柄となってしまう。二十四年六月、御膳の汁が夏の暑さにかかわらず煮凍ったのを天皇が不思議の思い、占い師を呼んだ。占い師が云うには「家中に乱があります。多分近親相姦でしょうか」と答える。天皇は近従に問いただすと『木梨太子、同母妹軽大娘皇女を姧(たわ)けたまへり』と申す、と日本書紀に記されている。さらにいろいろの情報で此の事が事実と判明する。しかし軽皇子は皇太子であり罰することは出来ない。軽大娘皇女が伊予に移される事となった。軽皇子は大変悲しみ、必ず直ぐ帰ってこられる、皇女を忘れはしない。必ず行く。待っていてくれ、の意味の和歌を送ったと矢張り日本書紀は伝えている。允恭天皇は四十二年年一月に皇女は逝去する。軽皇子の軽皇女との淫行は広く大民(おおたみ)の間に知れ渡り、群臣は軽皇子を見捨て穴穂皇子についてしまう。噂を広く触れ回ったのは穴穂皇子であったかもしれぬ。しかし依然として軽皇子は皇太子で、つまり世継ぎの御子であった。穴穂皇子は軽皇子を襲わんとして軍兵を集め、世間に憚る事もなく更に兵を増強した。軽皇子には群臣はつかず大民も味方しない。軽皇子は逃れ物部大前宿禰の家に保護を求めて隠れてしまう。穴穂皇子は直に物部の屋敷を囲む。大前宿禰は門の外にでて穴穂皇子に「軽皇子を殺さないでください。私は皇子を然るべく説得しましょう」と答える。木梨軽皇子は大前宿禰の屋敷で自害して果てる。この年の十二月十四日、穴穂皇子は即位し安康天皇となった。類は類を呼ぶと云う例えがある。安康天皇と大泊瀬皇子は馬が合い、大の友であった。大泊瀬皇子は反生天皇の皇女たち香火姫皇女・円皇女・財皇女を妻にしたいと申し出る。皇女たちは、「とんでもない、あの皇子は気が荒く残虐の事を平気でする人ですよ。怒りだしたら自制がきかず、朝会った人は夕方には殺される。夕方会った人は次の朝にころされる。私達は左程美形でもなく、才媛でもありありません。気も利かないので、言葉の端はしの振る舞いが気に入らないと、どんな仕打ちをされるか判りません。お断りします」、と逃げ出して何処かに行ってしまう。翌年の二月、安康天皇は大泊瀬皇子のために口をきいて、仁徳天皇の皇子大草香皇子の妹幡梭(はたび)皇女(のひめみこ)を大泊瀬皇子の妻にくれないか、と坂本臣の祖(お)根使(やおね)主(のおみ)を立てて大草香皇子を訪ねさせる。大草香皇子は使いの坂本臣に対し、「私は病弱でもう長い事はないでしょう。船に一杯荷を積んで潮を待つ如く何にも出来ません。私の命には何の未練もありません。たた私が死んだら妹の幡梭姫がたった一人になってします。それが何とも心残りです。今、妹を選んで宮廷につかえる女として扱ってくださるお心をお聴きして、何で私共に異存が有りましょうや。私からのお礼の証として、宝物としている押木珠蔓を献上し、お使いの人に渡します。特別に高価の物ではありませんが、お納め下さいますよう」と答える。使いの祖根使王は押木珠蔓が余りにも美しいので。自分の宝物としたいと考え、天皇に偽った報告をする。「大草香皇子は申し出を断り私にこの様に申しました『同じ皇族だと言っても、私の妹を妻としたいなど、一体何を考えているのだ』と」。そして受け取った押木珠蔓を自分の物として仕舞い込み天皇に差し出さなかったのである。天皇は祖根使王の嘘を信じ、怒り心頭、大軍を起こして大草香皇子の館を囲み、殺してしまう。大草香皇子の家臣に浪速吉師日蚊父子がいた。皇子が何の罪もなく殺された事を悲しみ、父は皇子の首を抱き、二人の子たちは各々足にとりつき、「吾ら親子三人皇子存命の時共に仕え、死後の時に仕え殉じなば家臣に非ず」と、自ら首を撥ね皇子の傍らで倒れ死んでいく。寄手の兵士でこれを見て涙して悲しまぬ者はいなかったと記録されている。
安康天皇は大草香皇子の妻中帯姫を自分の物として宮中に召しいれる。又、幡梭皇女を召して大泊瀬皇子の妃としてしまう。安康天皇は翌年の一月十七日、召しいれた中帯姫を大変寵愛し皇后にすると明言する。中帯姫には殺された大草香皇子との間に眉輪王という男子がいた。「何卒眉輪の命をお助けください」と姫の懇願に拠り宮中で一緒に暮らすこととなった。安康天皇三年八月、天皇は沐浴のため山宮に行幸し、高殿に登って風景を愛で、宴会を開き可成酒を飲んだ。久しぶりの山宮で気も緩み皇后の膝枕で心の内を開いて話しかけた。「姫よ、お前は優しくて本当に愛しく思っている。しかし、あの眉輪王の目は何だ、鋭く吾を睨む。誰かがいろいろと吹き込んでいるのでないか。眉輪王は恐ろしい」その時、眉輪王は未だ7歳の子供で高殿の下の隙間で遊んでいて二人の話を全部聴いてしまつたのだ。膝枕の天皇は沐浴・酒の疲れで心地よい熟睡に入る。眉輪王はその熟睡の期を窺い天皇を刺し殺す。前代未問の変事を知った大舎人は仰天し気も顛倒、走って大泊瀬皇子に注進する。大泊瀬皇子は大変驚き、安康天皇の兄たちが眉輪王を操って天皇を殺させたと疑い、鎧兜に身を固め軍を率いて充侠(にんきょう)天皇(てんのう)の第四子八釣白彦皇子を捕へ尋問する。日頃の性格を良く知る八釣皇子は潔白を申し立てても無駄と知り、口を閉ざして答えない、大泊瀬皇子はこれに狂気の如く怒り皇子を切り殺してしまう。更に第二子の坂合黒彦皇子を捕らえ尋問する。言葉尻を捕えられ殺されることを恐れ同じく口を閉ざして一切答えない。大泊瀬は益々怒り自分でも分別が付かない程である。又、眉輪にもこの際殺してしまう心算で、凶行の理由を訊くと、「やつがれは元より天位など望んでいない、唯、父の仇を討っただけだ」と答える。坂合黒彦皇子はここにいては殺されると眉輪王と示し合せ隙を見て脱失し葛城氏の円(つぶらの)大臣(おおおみ)の屋敷に逃げ込む。大泊瀬皇子は使いを使わして逃げ込んだ二名を門外に出すように依頼する。円大臣の返事はこうだ、「よく聴くことだが、人民が変事があると宮廷に駈けこんで助けを求める。君が変事で民の家に駆け込み助けを求めるなど聞いたことが無い。いま坂合黒彦皇子と眉輪王が私に救いを求めている。なんで、この二名を追い出す事が出来ましょうや」大泊瀬は軍兵を増やし大臣の館を囲む。大臣は庭に出て軍装を整える。大臣の妻は突然に襲そわれた夫の悲運を目前にして悲しく、心も乱だれて歌をおくる。【おみのこは たえのはかまをななへをし にわにたたして あよいなだすも】わが夫、大臣は白い?の袴を七重にお召になり,庭に立つて脚帯を撫であられる。大臣は此の時既に御高齢であったようだ。己の運命を悟り義による死をも覚悟しておられたのであろう。
安康天皇の突然の死で未だ日嗣の御子は決まっていない。大泊瀬は血筋からは次の天皇に程遠い存在であった。人望がある葛城氏と血縁がある市辺押磐皇子が有力であった。突然に到来した皇位への又とない好機である。大泊瀬はわざと隙を見せ二人を逃がしたのでないか。そんな推理も可能である。天皇を殺した大罪人を懲罰する。この大義名分によりなんでも出来た。二人が円大臣の館に逃げ込んだと聞き、大泊瀬は シメタ と心中思ったのでないか。眉輪王は別として逃げる坂合黒彦皇子の思慮不足であろうか、しかし、それを言うのは酷であろう。
「ご命令に服す事は出来ません。昔からの例えで窮鳥懐に入れば猟師もこれを殺さず と言います。まさに私が其れに当たります。どんな人間でも、私を頼って来た者を見殺しぬは出来ません。伏してお願いします。わたしの女韓姫と葛城領の七区をお渡しします。これで両名の罪を免じくださるよう」大泊瀬は許さず、館に火を付ける。大臣と眉輪王・坂合黒彦皇子は焼殺される。阿鼻叫喚の中、舎人の坂合部連贅宿禰は皇子の屍を抱いて共に死んだと記録されている。政敵と狙う残る一人、市辺押磐皇子も偽りの狩に誘い出され、後ろから矢で射られて死んでしまう。残虐はおわった。天皇の誕生である。大泊瀬幼武天皇(おおはつせわかたけすめらみこと) 有名な、雄略天皇である。

葛城氏が雄略天皇により滅ぼされたことは蘇我氏のその後を大きく変えた。隣の大豪族が重い壁となり、外への発展に蓋をされ、痩せた土地で不遇を託っていた蘇我氏にとり突然の転機が訪れたのだ。以後年の経過とともにじりじりと葛城領を浸食する。互いに交易することは各豪族の生きていく酸素であった。交易を封じられていた瀬戸内海への道が開き蘇我氏は見違える様に発展を続け、誰もが堂黙して頷く大豪族となったのである。

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◆「蘇我太平記」第一章 大乗佛教に殉教した山背大兄王一族の死

2011-04-02 12:45:26 | ◆蘇我太平記
 判官贔屓と云う言葉がある。この庶民の感情はどの国の人にも共通するものであろう。しかし総体的に自惚れの強い日本人は己の地位・権限の保持に関心が深いのでないかと私は思っている。これは陽の気質である。陽は常に陰に揺れ動く。陽が強ければ陰への揺れも強い。劣等感・挫折感である。判官贔屓も陰の気質の一端の表れと私は考えたい。この感情は栄枯盛衰の歴史の中で、清く美しく散った一族の結末をより深く賛美する。判官贔屓の語源の源義経は勿論、豊臣氏の大阪夏の陣、武田勝頼の天目山での最後、恵林寺の楼門で「心頭滅却すれば火も又自ずから涼し」の名言と共に死んだ快川上人等、哀惜の情が心地よい響きに転換し、未だに我我の心を揺さぶっている。しかし、同じく美しき最後を遂げた一門で一般に知られていない有名な日本史上の悲話がある。日本書紀に最大級の賛辞でその業績を称えられ、戦時中は軍部が国威宣揚に大いに利用した『日出処天子 致書日没処天子 無恙 云々』の国書を隋の送った聖徳太子の直裔山背大兄王の一族である。
 皇極二年(643)聖徳太子の死後十四年、その子山背大兄王(やましろおうえのおう)を初め大兄王の王子や王女、その孫君に至るまで全ての一族が斑鳩寺(今の法隆寺東院)の堂塔に籠り自害して果てたのである。その数二十数名、大兄には三人の妃があり、その王子・王女、孫君らであった。日本書紀にはこの顛末が詳しく記録されている。記録は漢文であるが、漢字交じりの下し読みでも可成難解である。以下私の拙い解説を交えてその経過を述べていきたい。
皇極二年十月十二日、蘇我臣入鹿は独断で舒明天皇の皇子古人大兄を皇太子(世継ぎの御子)にすると決め、一番有力視されていた山背大兄を候補から外したのである。入鹿は山背大兄が大民(おおたみ)にも、多くの皇族たちにも人望があるのを忌み、権勢を誇る蘇我氏にやがて悪影響があると用心した為と言われている。ついで十一月一日、入鹿は巨勢徳太臣、土師娑婆連に命じて山背大兄王の斑鳩の居殿を襲撃した。奴三成と言う家臣がいた。数十人の舎人と一緒に外に打って出て勇猛に戦った。そのため寄手の一方の大将土師娑婆連は矢に当たり戦死をしてしまう。寄手はその勢いに恐れ後方に退却する。山背大兄はこの間に多くの馬の骨を集め内殿に投げ捨て、妃・王子、王女その他一党を引き連れ、敵が後に退いた間に生駒山に逃げ、身を隠したのである。巨勢徳太臣らは再び陣を立て直し斑鳩寺を囲み火を放つ。灰の中の多量の骨を見つけ、王たちは焼け死んだと思い込み、囲みを説いて引き揚げてしまう。山背大兄一族はこれにより四・五日生駒山に留まる事は出来たがそれは又、飢餓との戦いであったのだ。三輪文屋君は従う家臣王たちを代表し、「このままでは皆飢えて自滅の他有りません、進んで戦いを挑みましょう。紀伊の深草の屯倉に移る事を進言します。そこから馬に乗りお味方が多い東国に行き、領地の乳部の部隊を軍の中核として反抗の戦をしかけます。されば我らは勝ちます。必ず勝ちます。御決心を・・・」山背大兄はこの進言を聴いて「卿らの忠誠は誠に有り難く思う。いまの言葉に如く軍を進めれば必ず勝つことは疑いないと思う。ただ私が心の中は既に決まっている。拾年の間は私の百姓(おみたから)をその様なことに使わないと心に決めている。我一人の身の為に大臣(おおみたから)に苦難の道を押しつけたくないのだ.後の世になりお前たちの父・母は山背大兄の御盾となって死んだのだぞ、と悲しい言葉を言わせたくない。そんな無慈悲な事までして何が丈夫の譽であろうか。己の身を捨てて多くの民を救う、これが真の丈夫ぞ。」と言われたのである。蘇我の探索に拠り一族の生駒山の隠れ家が知られる事となる。此の事は直ちに入鹿に報告された。入鹿は大に驚き軍を起こし、高向臣国押に命じて「直ちに生駒に行き山背どもをひっとらえ連れてまいれ」と言う。国押は「やつがれは天皇の宮を守る事が任務で、外に出て人を捕らえることなど出来ません」と答える。入鹿は腹を立てみずから軍を率い生駒山に行こうとする。その矢先、皇太子に成った古人大兄が息せき切って駈けつけ入鹿に「何処に行かれる」「山背を捕らえに行くところだ」古人皇子は「鼠は穴に隠れていき、穴から出れば死ぬものですよ」と入鹿を諭す。入鹿は思いとどまり、多数の兵を使ってしらみつぶしに生駒山を探させるが如何にしても見つける事が出来ない。山背大兄等は山を降り入鹿の兵たちが取り囲み全軍が注視の内に堂々と斑鳩寺に帰ってくる。寺は直ちに寄手の軍兵に十重二重に囲まれる。『山背大兄王、三輪文屋君をして軍将等に知らしめて日く、【我、兵を起こして入鹿を討たば、その勝たんこと定し、然るに一つの身の故に由りて、百姓(おおみたから)をやぶり害はんことを欲りせじ。是を以て、吾が一つの身をば、入鹿に賜う】とのたまい、終に子弟・妃妄と諸共に自ら経きて倶に死にましぬ』と日本書紀は述べ、此の時美しい長柄の絹傘が寺に垂れこめ、妙なる音が響きわたり、空は照り輝き寺をすっぽり包み込みやがて黒い煙となった、とも述べている。蘇我大臣蝦夷は山背大兄王が自身の子の入鹿によって殺されたと聞くと、大いに驚き怒り、「あー 入鹿なんと馬鹿な大それた事をしてくれた。自分の命も又狙われることが分からないのか・・」と嘆きの極であったと云う。
 過去の歴史に対する考え方も例によって史学者により異なる。上原和氏の説は山背大兄は人望があり、入鹿が斑鳩を攻めたのはその名声を妬んだのだと述べ、日本書紀の記録に従っている。又、大乗仏教の教義を実践に移したとも結論づけておられその点、私も同感である。民草という言葉がある。昭和一桁の前期に生まれ戦前・戦中に育った我我年代は何度この言葉を聞いたであろう。民草は虫けら同然、雑草にも似て儚い存在である。加害者も被害者もその意識を持たず互いに傷つけあい恨みあう。その相克も総て御国のためと消化され、泡となり後を残さず消えて去る。己の命は国の為、子孫ためにと特攻となって自らの命を絶つ。捨て身の思想は父聖徳太子から受け継いだ山背大兄王の赤い熱い血の流れでもあり、同じ遠い子孫の我我の血の流れであったのであろうか。仏教が導入された当初、その教えは個人の集約した信条を問題の中心とする教義であった。其れが次第に鎮護国家の根源であるとすり変えられて、日本の精神風土から姿を消していったと上原氏は述べている。これに対して門脇禎二氏は『山背大兄は父聖徳太子に比べ人物が劣っていたと考えなければならない』とのべその根拠は推古帝の死直前の言動、蘇我氏のその前後の動きを指すと思われる。以下其れに関する書紀その他の記録を経時的に追って現代風の文に纏め、仏教導入と云う未曽有の大事に揺れ動いた当時の朝廷・豪族達の動きの考察並びにその可否判断推考の基になる記録を記述にして行きたい。

 起きゃがれという玩具ある。なんど転がしても頭を上にして澄ました顔で静止する。物事もすべて世がまともならば万事が正しく元に戻る筈である。しかしそれが出来ない時代であった。時の針を天平に戻し蘇我一族のみが描いた太平の世が如何に経過したか、そこに生きた多くの人々の栄枯盛衰の人間模様を真実に少しでも近く、赤裸々に描ければと頭ばかりが空回りしている。私は以前、もう十年も前のことになるが、歴史を捻じ曲げた蘇我氏の氏族コンプレックスと云う標題で随筆を発表したことがある。物事を考える根拠となる各個人の知識は、様変わりを続け、留まる事のない環境や、年月を重ねる経験により、知識の吸収の選択も変わり、総合した知識の内容も変わる。進歩したか退化したか自分では判らない。しかし確実に物をみる目も考える内容も変わっている筈だ。この際再び書き残しておこうとす意思が次第に高まってくる。他山の石と云う言葉が有る。民主主義の世の中、他山の石がゴロゴロと道を阻み通りにくい。そんな中、私の石を拾い眺めてくれる人がいる。拾ってポイと捨てる人も多い。それで良いのだ、先ずは先に進もう。

 昔、蘇我氏と云う横暴を極めた一族がいた。天罰覿面で中大兄皇子らのクーデターで滅ぼされた。一般的にはそう思われている。蘇我氏は天皇家を凌ぐ勢いであった、にも関わらずその一族の起源となるとはっきりとしない面が多い。
現在二つの考えが並行している。第七代孝元天皇の後裔で葛城氏と同じく竹内宿禰のあと蘇我石川宿禰と続き、その次に満智―韓子―高麗―稲目と代を重ね、権勢を極めた馬子、蝦夷(毛人)、入鹿(鞍作)で終わっている。現代の人の目からすれば大変変わった名前が系図に中に目立ち、記憶に刻まれて動かない。韓子・高麗は半島との関係を連想させ、馬子・毛人・鞍作は技術関係の系統を連想させる。門脇禎二氏の説では蘇我氏は百済の出であると強く主張され、太古からの神と固着した多くの豪族らとの対比は面白い。
 門脇氏の説は次の如きものである。朝鮮古代史を代表する三国史記によれば、五世紀末、百済が高麗に攻められて亡国の極みの危機に際し、百済の文周王と一緒に新羅に応援を求めて行った家臣の中に木満智の云う名が見える。文周王と他の一人の高官は一緒の百済に帰り戦っている事は明らかに記録されているが、満智だけは百済に帰らず「百済から南に行けり」と記されている。南に行けば半島の南は魏志倭人伝の倭国である事は十分に考えられる事である。門脇氏によると、満智は日本に来て大和朝廷に取り入ることに成功した。満智は木氏を名乗った。木満智が日本に来た475年以来木氏の一族が次々に渡来している事実はこれを裏付けると氏は述べられる。
 木満智は既に日本に渡来していて雄略天皇に信任が厚い身狭(むさ)村主(のすぐり)青(あお)や檜(ひの)隈(くまの)民(たみ)博(はか)徳(とこ)を頼って手弦を掴んだのであろう。蘇我氏の居住地は大和平野の西の隅、葛城山麓であった。木氏は一番最後に顔を出した帰化人で、最早新入りに充てる土地はなく、當時としては水田に不向きなどうにもならない土地を与えられたと考える。その地域の開発には高度の技術が必要であった。「この土地を与えよう自力で治め住んでみよ」朝廷は自分の手を汚さずに此の地域の開発に渡来人を使ったのでないか。蘇我氏の更に西側、葛城山系から瀬戸内海の平野部にわたる広大な土地は有名な葛城氏の支配領域であった。葛城氏の祖先は孝元天皇に遡る。最古の大和行政区分は数々の県に分かれていた。西南部の葛城川・蘇我川流域は葛城県と言われ特に広く、その東飛鳥の高市県、その北側が十市県、その東が莵田県、北に上がって磯城県、更に北に上がって山の辺の道には山辺県・春日県がある。太古の太古、奈良盆地に大きな湖があった。飛鳥・山の辺、磯城は陸地であっても、低くすぐに水田に転用できる地域であった。葛城県は生駒・葛城系の多山を背負い畑作には向いていても生産性に富んだ水田への転換が自然の成り行きとして渇望されていた。科学的に言い換えれば私はこの様に考えている。従って葛城氏は後発の豪族、蘇我氏はそれよりも後発、最後の豪族の推理が可能である。葛城氏も渡来人と考えるがその時期も早く、蘇我氏より有利の条件で我が国に根付き、瀬戸内に開けた経済の出入り口を持ち広大な領域を占めていた。葛城氏が入植時、その他の地域より遥かに劣る条件であったのを、瞬くまに経済性に高い農地に変えたには効率が高い鋭い農耕器具を使用した為と言われている。その代表は大型のU字型の鍬だそうだ。多分それと大差ないと思われる大型のU字型の鍬を私は終戦間もない頃、見たことがある。

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◆「蘇我太平記」今回から掲載します。

2011-04-02 12:40:16 | ◆蘇我太平記
今回より蘇我太平記を掲載します。長文ですので十二章に分けました。一回に三章ずつ三か月毎に追加して一年で終わる予定にしております。宜しくお願いします。日本書紀の記述を中心に構成しました。千三百年前の人々の喜怒哀楽が、今の世に迫る様にお感じ頂ければと思っています。
                          23・2・27


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