用命天皇の崩御が四月、その年の八月、炊屋姫と群臣は泊瀬部皇子を後継の天皇として正式に決めた。崇峻天皇である。蘇我馬子宿禰を大臣とし、その下の議政官らは全く変りなかった。今の桜井市倉橋に紫垣宮が造営された。崇峻天皇は運命を背負った天皇と云えるのでないかと思う。欽明天皇は皇后と多くの妃の間に十五男、八女のお子がお有ったと記録されている。母の小姉君は蘇我稲目の娘で、崇峻は欽明帝との間の五番目の子供であり、後継天皇には最も遠い距離にいた皇子であった。用命天皇の皇太子は敏達天皇と息長広姫の間の彦人皇子で、血筋・人望などで蘇我馬子らは早くから次の帝位の第一候補として挙げていた。蘇我・物部氏の権力争の対抗馬として玉は落ちるが守屋側は穴穂部皇子を候補としていた。用命天皇の病の悪化がはやく、守屋側はこのままでは不利になると彦人皇子・それにまだ幼い竹田皇子を自身の陣営、物部・中臣側に取り込む事を画策した。しかしこの極秘の策略は馬子側にもれ、前述した如く中臣勝海は彦人皇子の宮を出たところで馬子側の刺客に不意を突かれ斬り殺される。馬子は彦人皇子が守屋側の勧誘に心が動いた様子を心よく思わず、ついには己の敵と見なし、守屋の難波の館に密かにいた彦人皇子を殺し、穴穂部皇子とその友の宅部皇子も殺す、最早自身で抑制もきかず日頃の鬱憤を血と血の塗り重ねで晴らす馬子を想像する。馬子と小姉君は兄妹であった。つまり崇峻は馬子の甥であった。他に多くの後継天皇の適格者がいるのに皇位から遠い自分を選んでくれたことを、崇峻は恩義に感じ、以後なんでも馬子の云う通りに動かせると目論んでいたのでないか、と穿った推測で馬子をみるのが普通であろう。
宿敵を倒した蘇我氏に今や対抗する敵はなく、全てが順風満帆であった。百済にとっても隣国の大和で、広く仏教の普及を図る蘇我氏が全ての実権を握ったことは、将来に安心と期待が持てる朗報であった。その為か相次いで百済から使節が多くの僧を伴って来朝する。大和に渡って布教により自身の身辺を固めたい希望の僧が多く使節に同行したのであろう。僧恵総・令斤・恵 らは仏の舎利を献上した。舎利は釈迦の頭蓋骨を意味するが実の所は水晶の玉であった。百済は更に恩卒首信らの吏氏を来朝させ調を献上し、再び仏舎利を奉納し、僧聆照律師ら六名、寺工、寺院の相倫をつくる鋳造技術者、瓦博士、画書も一緒に来朝し寺院の建立の指導を申し出た。善信尼達が渡海して真の戒律を受けたいと前より申し出ていたが、今回、百済の使史恩卒首信らにつけて戒律の修行のため百済に一緒にいかせた。馬子は次々と積年念願としていた事項を実行に移す。飛鳥衣縫造(あすかいぬぬいのみやつこ)の樹葉の家を壊しその跡地に法興寺をたて、地名を飛鳥の真神原と変える。又の名を苫田ともいった。崇峻二年、天皇はいよいよ自身の天皇としての抱負を実行にうつす。近江臣満を東山道に派遣して蝦夷との境を巡視させる。宍人臣雁を東海道に派遣し東の海沿いの国々との境を巡視させる。阿部臣を北陸道に派遣し越との境を巡視させた。大和王権の威光を示す意図であろう。三年、善信尼達が百済より帰り桜井寺に入る。十月、法興寺を大寺とするため山の伐採が始まった。物部氏の没落による安心感の表れであろうか、畿内の豪族は雪崩を打って仏教への帰心を明かにする。大伴連の女善徳、大伴小狛の夫人、新羅姫善妙、百済姫妙光、漢人善聰・善通・妙徳・妙定照・善智里氏・善智恵・善光達である。また司馬達の子多須名も出家する。崇峻四年四月、敏達天皇の陵墓は定まらなかったが磯長陵に埋葬し、母の欽明天皇妃の石姫と同じ所で長い安住の地が定まった。八月、天皇は群臣を前にし「朕は任那(みまな)を再興しようと考えるが如何に思うか」と問うと「新羅に滅ばされた任那宮家を再興すれことは臣らとて同じでございます」と答える。十一月、天皇はこれを実行に移し、紀男麿呂宿禰、巨勢猿臣、大伴齧連、葛城鳥奈良臣、を大将軍に命じ、氏氏の臣連を連が神の部隊、臣が部の部隊として二万の大軍を筑紫に進行させ、ここから敏達天皇の妃広姫の父吉士金を新羅に使者として遣はした。又、吉士の重臣を任那に遣はしてその後の任那の状況を視察させた。
此の月に大法興寺の仏殿と回廊が完成した。
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宿敵を倒した蘇我氏に今や対抗する敵はなく、全てが順風満帆であった。百済にとっても隣国の大和で、広く仏教の普及を図る蘇我氏が全ての実権を握ったことは、将来に安心と期待が持てる朗報であった。その為か相次いで百済から使節が多くの僧を伴って来朝する。大和に渡って布教により自身の身辺を固めたい希望の僧が多く使節に同行したのであろう。僧恵総・令斤・恵 らは仏の舎利を献上した。舎利は釈迦の頭蓋骨を意味するが実の所は水晶の玉であった。百済は更に恩卒首信らの吏氏を来朝させ調を献上し、再び仏舎利を奉納し、僧聆照律師ら六名、寺工、寺院の相倫をつくる鋳造技術者、瓦博士、画書も一緒に来朝し寺院の建立の指導を申し出た。善信尼達が渡海して真の戒律を受けたいと前より申し出ていたが、今回、百済の使史恩卒首信らにつけて戒律の修行のため百済に一緒にいかせた。馬子は次々と積年念願としていた事項を実行に移す。飛鳥衣縫造(あすかいぬぬいのみやつこ)の樹葉の家を壊しその跡地に法興寺をたて、地名を飛鳥の真神原と変える。又の名を苫田ともいった。崇峻二年、天皇はいよいよ自身の天皇としての抱負を実行にうつす。近江臣満を東山道に派遣して蝦夷との境を巡視させる。宍人臣雁を東海道に派遣し東の海沿いの国々との境を巡視させる。阿部臣を北陸道に派遣し越との境を巡視させた。大和王権の威光を示す意図であろう。三年、善信尼達が百済より帰り桜井寺に入る。十月、法興寺を大寺とするため山の伐採が始まった。物部氏の没落による安心感の表れであろうか、畿内の豪族は雪崩を打って仏教への帰心を明かにする。大伴連の女善徳、大伴小狛の夫人、新羅姫善妙、百済姫妙光、漢人善聰・善通・妙徳・妙定照・善智里氏・善智恵・善光達である。また司馬達の子多須名も出家する。崇峻四年四月、敏達天皇の陵墓は定まらなかったが磯長陵に埋葬し、母の欽明天皇妃の石姫と同じ所で長い安住の地が定まった。八月、天皇は群臣を前にし「朕は任那(みまな)を再興しようと考えるが如何に思うか」と問うと「新羅に滅ばされた任那宮家を再興すれことは臣らとて同じでございます」と答える。十一月、天皇はこれを実行に移し、紀男麿呂宿禰、巨勢猿臣、大伴齧連、葛城鳥奈良臣、を大将軍に命じ、氏氏の臣連を連が神の部隊、臣が部の部隊として二万の大軍を筑紫に進行させ、ここから敏達天皇の妃広姫の父吉士金を新羅に使者として遣はした。又、吉士の重臣を任那に遣はしてその後の任那の状況を視察させた。
此の月に大法興寺の仏殿と回廊が完成した。
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