◆神代の案内人ブログ

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◆「蘇我太平記」第十一章 舒明天皇の病弱は蝦夷・入鹿の賦活剤その1

2012-02-01 14:26:02 | ◆蘇我太平記
 後継天皇が決まり政争が一旦治まり、日本書紀の記述も例の如く半島との消極的交流の記述の流れとなる。三月に高麗・百濟の遣いが来た。八月に唐に使いを出した。先の高麗・百濟の遣いを宮中に招き、九月に使者は帰った。十月に宮を岡本に移した。年が変わり、是年初めて難波にあった迎賓官全てを修理した。舒明三年三月、百濟王義滋が、王子豊章を人質とて来朝させた。九月に天皇は摂津の有馬温泉に湯治にため行幸し十二月に岡本宮に還った。四年十月、唐の遣い高表仁ら至り難波に泊った。大伴連馬飼を接待吏として船三十二艘・鼔・笛・多数の旗にて盛大に江口に迎え、「唐よりの使者が我が国に到着と聞き、お迎えに参りました」と挨拶をする。百濟・高麗の使者に対する待遇とは別段の扱いである。高表仁は「寒風がすさまじい時に多くの飾り船で歓迎を受け、有り難く感謝を致します」と答える。伶礼しく遣客を難波の迎賓館に導きその日に内に酒宴を開いた。五年一月の唐の使者が帰る。これは新しい唐に挨拶の使者を唐に送り、唐が返礼の使者を送り返した一連の外交事例であろう。六年ほうき星が南に見え、七年には東に見えた。六月、百濟が朝貢した。八年正月に日蝕があった。五月に長雨があり、岡本宮が水に浸かり田中宮に避難した。七月に敏達天皇の王子、大派王が蝦夷大臣に「近頃群卿・百寮の宮中への勤務態度が乱れている。今後朝の六時の出勤時間と朝十時の退勤時間に鐘を鳴らして節度を取り締まってはどうか」と提案したが大臣は取り合わなかった。大派王は可成の高齢と推察する。その為軽く見たか、その気が無いのか、こんな所にやがて蝦夷の日頃が問われる結果が有るのであろう。是年日照り続きで凶作であった。九年二月、巨大な流星が音を立てて雷の如くであった。人々は不吉の予感がした。三月、又日蝕があった。次に眼を引く話が載っている。その次第を述べると、蝦夷(えぞ)が反乱を起こし来貢しなかった。朝廷は大仁上毛野君形名を将軍として征伐を命じたが反対に敗れて逃げ、塁に立てこもり廻りを賊軍に囲まれてしまった。家来は逃げ出し殆ど空城となってしまう。将軍は唯おろおろして夜にまぎれて垣を越え逃走しょうとする。強気の妻はそんな夫を嘆いて[蝦夷に殺されるなんて、みっともない]と夫を叱り「貴方の先祖は海を渡り、山河を越えて四方を平らげ、今の世迄その武門の誇が知れ渡っている家柄でしょう、今戦わずに逃げ出し、あの腰抜がと末代まで恥をかきたいのですか」と酒を酌み夫に強いて飲ませ、夫の剣を抜いて自分は武裝し、十の弓を張り、数十人の女に弦を激しく鳴らさせた。夫は気を取り直し、残った家来を引き連れ打って出た。賊の頭は城に尚大勢の兵がいると思い、引き上げる。逃げ散った部下が集まり反撃にでて蝦夷を討ち負かし、大勢を虜にして大逆転の大勝利となった。
[上州の嬶天下と空っ風]と云うが、その話の出所は案外この日本書紀あたりではないか。チラッとそんな思いが頭をかすめる。
十年七月に台風があった。九月長雨で李の花が咲いた。十月有馬温泉に天皇が再び行幸した。百濟・新羅・任那が朝貢した。十一年正月天皇が車に乗ったまま帰還し来た。体調が更に悪化したらしい。ほうき星が西北に現れ、「飢饉を招くから見ないほうが良い」と人々は噂をした。天皇は死を悟ったのであろうか、大寺・大宮を作れと詔勅を下した。九月には唐の学問僧の恵穏・恵雲が新羅の遣いと共に来た。十二月に再び天皇は伊予の温泉宮に行幸する。広瀬川の辺に九重の塔が完成した。十二年四月天皇が伊予より帰り今の大軽町の厩坂宮に入り、十月に百濟宮に移った。十三年十月舒明天皇が崩じた。東宮(もうけのきみ)開(ひらかす)別(わけ)皇子(のみこ)[天智天皇]が十六歳で弔辞を読んだ。書紀の舒明記はここで終わっている。
用命天皇が逝去しその後を継いだ崇峻天皇が殺され時に厩戸皇子が十七歳、同じ年頃である。しかし厩戸は天皇になれず、推古帝が後継となった。此の度の後継は舒明天皇と皇位を争った山背大兄が最有力の筈であるが、蝦夷の意志でこれを避け、舒明帝の皇后宝姫を天皇に据えた。皇極天皇である。推古天皇の誕生時と同じ理由であろう。書紀は何も述べて無いが、これにより山背上宮一族の蘇我蝦夷に対する齟齬感は一段と強くなったと思う。舒明天皇の病気だが二度も湯治に行っている。有馬温泉と伊予は道後温泉と推測しているが、何れも古代から良く知られた温泉である。約一億年以上の白亜紀の花崗岩の割れ目から吹き出してくる塩分・炭酸分に含まれているナトリュウム成分が主な温泉で、リウマチに効くと言われている。加齢が早く進んだと考えられる古代、変形性の膝・脊椎の疾患、脊椎管狭窄症に悩み、痛みが波及して多臓器障害で死に至ったのではないかと思う。



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